新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月17日 その2 無用の長物か、IOC

2022-02-17 09:31:40 | コラム
だから言ったじゃないか:

私は何度か「IOCやトーマス・バッハ氏のような存在を敬うのを止めるべきである」と主張してきた。特にアメリカのメディアに「ぼったくり男爵」とまで酷評されたIOCの会長の無能振りには、ほとほとウンザリさせられていた。私は「IOCのような(敢えて言うが)白人の貴族ぶった連中の集いであるクラブにノコノコと、彼らの言葉を操りもせずに入っていっても碌な事はない」と指摘してあった。その端的な例があのバッハ会長の東京での節操なき振る舞いである。

そこに、今度は北京の冬季オリンピックで続々と生じている私が言う「恙」である。もう一度言っておくと「オリンピックにおける成功とは、恙無く終わらせること」であって「華やかな運営であり成績を意味しない」のである。私は既にその「恙」の例として、会場の雪や氷の状態の不備に加えて「審判の判定の不行き届き」を挙げておいた。

だが、ここまでの所、これらの2例などとは比較にならない「恙」が発生している。それは他でもない、ROCのワリエワさんのドーピング問題である。ここで悲しいまでに露呈されたのがIOCの統治能力(カタカナ語では「ガバナンス」などとされているが)の欠如と、自前で判断が出来ない無能振りだ。IOCは既にロシアをその言わば挙国一致体制でのドーピングの廉で出場させずに、個人での参加を認めるROCにしたのだった。

一旦そういう基準で判断したのであれば、今回のワリエワさんの問題の際には、躊躇することなく出場禁止の措置を執るべきだったはずだ。彼らの思考体系では「イエスかノーか」しかあり得ないのだから、この場合は毅然として明快に「ノー」だと決定すべきではないのか。ところが、無用の長物いや短物とでも形容したIOCと会長は、自分たちで決定することを回避し、尚且つプーテイン大統領に気兼ねしただけではく中国の顔をも立てようとしたのか、狡猾にもCASに裁定を丸投げしてしまった。

情けないのは誰もこの責任回避振りを真っ向から批判していない事だ。私が報道から知り得た限りでは、まともに「出場させるべきではない」とTweetだったかで指摘したのは、韓国の金妍児だけだった。既にトーマス・バッハ氏は中国と習近平主席に阿るばかりなのは呆れるばかりだし、二者択一の決定すら出来ないのには言うべき言葉もなくなってきた。

このIOCの決断力不足の他にも、既に主催国による多数の「恙」の例が報じられているようだ。それにも拘わらず、IOCは何らの手を打てずにウロウロしているだけだ。我が国のスポーツ界は何時までこのような連中に鞠躬如として仕え、平伏して彼らの不合理な方針に従っていれば気が済むのか。彼らの中に乗り込んで「IOCには改めるべき点は公平になるように改善せよと説き聞かせる勇気は無いのかな」などと考えてしまう。


キャッシュレス化が知らせる時代の流れ

2022-02-17 08:28:14 | コラム
釣り銭を受け取ることを知らない子供たち:

例によって例のごとく、何処のテレビ局のニュースだったか記憶は定かではないが、掲題のようなことを伝えていたのが非常に印象的だった。要点は次のような事にあった。

即ち、マスコミが好む「キャッシュレス」の時代の到来と共に、小学校の児童のようなお子さんたちを持つ若き親御さんたちは、子供たちに現金を持たせず「~Pay」や「スイカ」の類いを持たせて買い物をさせているのだそうだ。この方式で買えば、釣り銭など帰ってくる訳がないのだ。そのデイジタル化と言うのかICT化と言うのが正確なのか知らないが、生まれてからそれに馴れてきた子供たちに偶に現金を持たせて買い物に行かせると、屡々お釣りの現金を貰わずに帰ろうとするのだそうだ。

確かに時代に遅れてしまったと嫌になるほど認識している私などは、昨年に改装された新大久保駅の改札口の外に出来た無人の売店などには、未だに一歩も踏み込んだことがないのだ。理由は簡単で「どうやって支払うのか」とウロウロするくらいなら、他に行って買えば済むだろうと思うからだ。それに、漸く昨年の10月に切り替えたスマートフォンにはその手の現金で支払わないで済むようなカード類を仕込んでいないのだから。

スイカはそう出来るのだそうだが、未だに¥1,000以上をチャージしたこともなく、乗車券にしか使っていない。況んや何とかPayなどに手を出す心の準備も出来ていない。昨年の何時だったか、国立国際医療研究センターの地下に出てきたセブンイレブンでは自動支払機が導入されていて、キャッシュレジスターがあるはずの場所に居る者は、お客に支払い方の指示をする係員になっていたのには、正直に言って腹立たしい思いだった。客が差し出す現金に触れればウイルスにでも感染するからというのかと思わせられたが、これも時代かと諦めた。

民度がそれほど上がっていないと思われている中国では、マスコミ報道によれば「スマートフォンが如何なる階層にも普及していて、彼らは露天でも掲示されているQRコード(で良かったか?)を読み取らせて支払いが出来るような仕掛けになっている」のだそうだ。私には中国が時代の先頭をひた走っているのか、下層にある者たちは銀行口座も持てないので、この方式に依存しているのかは知らない。

だが、キャッシュレス化は何時の日か、デイジタル化も事務合理化も時の流れから取り残されているのではと疑問に思える我が国でも、広まってくるものと覚悟はしている。だが、私の生存中にそこまで行けるとは思えないのだ。私がこの分野での時代の流れを感じた最初の経験は、藤沢市まで中学・高校のクラス会に出席する時に利用する小田急のロマンスカーに乗って「検札」が来ないことに気が付いた時だった。

パスモやスイカで乗る人が圧倒的な時代になったのだから「乗車券を拝見」などできる訳がないからだ。だが、その検札なしの先に「キャッシュレス」が来るとまでは想像出来なかった。そこで考えて見れば、もう何十年も(?)切符を買ってJRにも小田急にも乗ったことがなくなっていたのだった。そう言えば、何年前だったか和田アキ子が自慢げに鉄道を利用した時に乗車券の買い方が解らなくて困ったと言っていた。因みに、我が家には時代の流れを学ばせてくれる孫はいないのだ。