新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

北京の冬季オリンピックからの話題

2022-02-08 14:36:25 | コラム
高木美帆さんが優勝出来なかったこと他:

*高木美帆さんを賞賛するとか慰めることは不要であり、無用だと思う:
私はあの女子の1,500mの競走は相当な関心を持って見ていた。だが、開始と同時に来た「閃き」では「高木さんの勝ちというか優勝はない」と出てきていた。それを、遺憾ながら、彼女の顔付きとウオーミングアップだったのだろうエアロバイクを漕いでいる時に浮かんでいた不安な表情が裏付けてくれたのだった。

しかも、二組だったか前に走ってオリンピック記録を出してしまったオランダのWustさん(アナウンサーはビュストと発音)がオリンピック記録を出してしまったので、高木さんにとっては言い知れない重圧となるのではないかとも感じていた。言いたくはないが、こういう場合に「プレッシャー」だの「メンタルがどうの」とカタカナ語で言うのは、私に言わせて貰えば「何らの具体性がなくて空疎」なのだ。ちゃんと日本語で「それでも勝たねばならないという精神的な重圧を感じているのでは」と言えば良いじゃないか。

私も高校生ではあったが、全国大会の決勝戦で敗れた経験がある。その時の精神状態では仮令「2番だったから良かったじゃないか。素晴らしい成績だったじゃないか」と言われても何も嬉しくなかっただろうし、「残念だったね。折角あれほど努力してきたのに。君等は偉い」などと慰められても、聞こえてこなかったろうし、何の助けにもならないと思う。「負けた」という事実は冷酷なもので「我々は弱かったのだ」と思い知らされただけだったから。

高木さんには失礼かも知れないが、世界最高の究極の場で1秒にもならない差で負けてしまったという事実は「厳しい」とか「苛酷だろう」などという類いの言葉では到底表しきれないほどの打撃なのだろうとお察しするのだ。思うに、高木さんは「自分が至らなかった」と感じて打ちのめされているのだと思う。終了後の「止せば良かったのでは」と感じて聞いていたインタビューでの彼女の応答の仕方を聞いていると「悔しさ」よりも「自分を責めている」感が非常に濃厚で、危うくこちらが泣かされそうになったほどだった。

彼らマスコミの得意な台詞に「切り替えて」というのがある。関東大学一部リーグで活躍していた学生たち何名かに「大試合に負けた跡で『次は勝ってみせるぞ』とか『来年を見ていろ』などと直ちに精神状態を切り替えられるものか」訊いた事があった。答えは「そんなことがある訳がないでしょう」だった。高木美帆さんが一刻も早く「気持ちを切り替えて残る試合に臨んで貰いたいもの」だと願っている。マスコミが過大な期待をかけて騒ぎ立てると碌な結果にならないと、過去に何度言ってきたことか。

*ネイサン・チェン(Nathan Chen):
恐らく羽生結弦君の前に立ち塞がるのが、この中国系アメリカ人だろう。ここでも私が何よりも懸念していることがある。それはマスコミが騒ぎ立てている羽生君の90何年振りかとなる「オリンピック三連覇」だ。上述した通りで「彼らの空騒ぎは碌な結果をもたらさない」危険性が高いので、これは持ち上げられた当人たちが意識していてもいなくても「何としたことか」という結末になった例が多過ぎた。静かに見守っていて上げれば良いだけのこと。

だが、ここで論ずるのはそういう事ではない。チェンさんに関する不思議なことだ。Wikipediaによれば、彼の両親が中国は北京生まれだとかで、共にアメリカに移住してきてネイサン君は言うなれば二世(second generation)である。ところが、Wikipediaによれば、彼の氏名は陳巍という漢字であり浅学非才の私には何と読むべきかが解らないのだ。「巍」の字は「ギ」と入力して探り当てたのだった。私の単純素朴な疑問は「何故アメリカ人なのに、漢字で氏名を名乗る必要があるのか」である。

しかしながら、1970年に生まれた初めて海外に出張の機会を得た時にシンガポールと香港も回って、多くの華僑に接したものだった。その時に彼らは仕事上では公用語である英語をごく普通に操っているが、彼ら同士では中国語(今にして思えば北京語ではなく広東語のような響きだった)で話し合っていたのだった。簡単に言えば「彼らは自分の母国の言葉を捨てていないのだ」だった。正直なところ、この執着振りにはある意味では感動させられた。

そして、その2年後には何としたことか、私はアメリカの会社に転進してアメリカに渡ったのだ。本土でもハワイでも何人もの日系人に出会った。だが、アメリカの会社に変わる切掛けを作られた日系カナダ人のGN氏も、ウエアーハウザーの東京事務所で私を色々と指導してくれた日系人のBJ氏も共に我々以上に日本語が解っておられた。GHQの秘書だったHelenさんは書道では崩し字で書けるほどの日本の分かと言葉を忘れていなかった。

しかし、ハワイは兎も角、アメリカ本土で出会った日系人たちは概ね英語だけを話していて、日本語は少し出来ても二の次三の次だという印象を受けた。だが、さして沢山出会った訳でもない中国系の人々は仲間内では中国語で語り合うことがあったのだった。私は簡単に言えば、日系人の間ではどうしてそうなってしまうのかが不思議だった。ではあっても、我が友のSM氏は一男二女を皆日本語が完全に出来るように育てておられた。かくあるべきではないのかなと思っている。

また、トロントのRed Lobsterでウエイターのアルバイトをやっていたトロント大学医学部の男子学生は、途中から我々が日本人だと変わってからは堂々たる日本語で応対してくれた。尋ねてみれば、祖父の代にカナダに移住してきたそうだが、二代続けて「日本語を忘れてはならない」という育て方をしてきたのだそうで、大いに感動したものだった。

それでは、お仕舞いに寧ろどうでも良いようなことを。「Nathan Chenさんは陳巍と名乗っている以上、北京語を自由自在に操っているのだろうか」と訊いて見たくなった。それに、良く解らないこともあった。それは、幾ら調べてもNathanというファーストネームは出てこないのだ。Nathanielというのがあって、そのニックネームはNatなので、Nathanと言うのは聞いたことがなかった。