何はさて措いても、石原慎太郎君のご冥福を祈りたい:
午後2時過ぎのテレビのニュース速報で知った。大袈裟でも何でもなく「我が湘南中学同期の英雄が亡くなった。何と言って良いか解らないほど残念だ」と痛感した。彼とは昭和20年に湘南中学入学以来3年間同じ蹴球部で過ごした親しい仲間なのだ。もう10年以上も前のことだったが「石原慎太郎君は良い奴なんだ」と題して、彼の気配りに驚き且つ感謝したのを振り返ったことがあった。
それは、私が新卒後から17年間お世話になった旧国策パルプ直轄の販売会社に、新卒で入社してきたS君(故人である)が挨拶に来て「湘南のサッカー部の10期下です」と自己紹介した後で、「石原さんが宜しくと仰っていました」と言ったのだ。そこで「何処の石原さん?」と尋ねると「石原慎太郎さんです」と答えた。正直なところ感激した。紙パルプ業界内なら兎も角、世間的な知名度がある会社でもないのに、360名もいた同期の中の私の就職先を彼が知っていたのだから。この点が「石原は良い奴です」と言う重要な根拠の一つだ。
ここは湘南高校第26期生の自慢だが、偶然に20年近く前に学校の職員から聞いた話では「我が26期はその頃までの歴史上で、最も上場企業の役員になった人が多い」ということだった。確かに、日本興業銀行最後の頭取故西村正雄君を始め、脇村春夫君、近藤直行君、加來庸亮君、田中宏君、相沢進君、前田隆正君、木内武彦君、本間基之君、高梨昭夫君等将に多士済々で、官界には吉居時哉君もいる。小説家では斉藤栄君も忘れてはなるまい。
彼との間柄を回顧してみれば、1956年に彼が「太陽の季節」で芥川賞を受賞した直後だったと思うが、関東大学サッカーリーグ戦が行われた成蹊大学のグラウンドで試合が終わったばかりの石原に出会った。私は上智大学のサッカー部の非公式なコーチだったので、そのグラウンドでの次の試合のためにそこにいたのだった。早速彼に「お前偉いんだってなー」と祝意を述べた所、例の目をパチクリさせながら照れた顔で「なーに、たいしたことねーよ」と返してきたのだった。その日はそれきりのことだった。
彼は旧制中学3年まで蹴球部にいて、当時はそういう制度があった「神奈川県中学蹴球大会少年の部」に出場して、無事に優勝したという成果を以て「才能が無い」と言って辞めてしまった。その後は、高校になってから社会研究班などを作って確かマルクス経済の勉強をするとか、左手で油絵を描いていたのを覚えている。彼はその後何故か休学して1年下がったので、その同期に江藤淳(江頭君)がいたはずだ。
先ほどTBSの「ゴゴスマ」で政治ジャーナリストの鈴木哲夫が「石原氏は一見豪放磊落に見えるが、本当は神経が細かくて気が小さい人のようだ」と言っていたが、これは当たっていると思う。私は何度か「石原が本当は青白き秀才で気が小さく穏やかな人であり、政治家になってからの大言壮語や豪快な発言は、彼本来の弱さを隠すための虚勢ではないか」と指摘してきた。
また、COVID-19の襲来があるまでは毎年開催されてきた(昭和23年の福岡国体での)「全国制覇し損ないの会」(後に「サッカーの会」に変更)の昼食会でも、集まった往年の石原を知る仲間の中でも「現在の彼の変貌振りは信じ難いほどだ」という点で意見が一致していた。静かで青白き秀才だった繊細な、と形容したかった面影は何処という意味だ。この点は逗子の小学校からの同級生も認めている。
石原君は滅多に同期会には来なかったが、一度だけ母校で開催された1991年に自分で運転して、紺のダブルのブレザーを着て議員のバッジを付けずにやって来たことがあった。だが、同期の連中は何かを怖れたのか、誰も近付かなかった。そこで、私は気後れせずに近寄って語り合ったのが彼と出会った最後だった。その時には何故か「ゴルバチョフ」を取り上げて、彼が「あんな奴は長続きしねーよ」と言ったのは覚えている。
実は、2013年の9月に、もう既に同期会は幹事が高齢化を理由にして開催されなくなってからのことだったが「石原慎太郎君を囲む会」がホテルオークラで開催されたことがあった。私にも発起人から招待状が来ていたが、生憎と第2回目の心筋梗塞の後で体調が非常に悪く欠席する以外なかった。ところが幹事からは、直接と間接に「君は来るべきだ」と電話があったが、到底ここ新宿区からでもオークラまででも行ける状態ではなく、残念ながら見送ったのだった。
その「全国制覇し損ないの会」に石原君を呼んでいなかったのは、彼が昭和22年までで退部していたからであって他意はないのだ。彼石原慎太郎君を回顧すればキリがない。今回はこれまでにして、あらためてご冥福を心から深く祈って終わる。