新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カーリング(Curling)に思う

2022-02-19 09:04:28 | コラム
我が国の代表(ロコ・ソラーレ)が決勝に進んだ:

決勝戦にまで進んだのは大変結構なことだと思って、彼女らの健闘を称えると同時に「優勝出来れば良いな」と祈念しておく。

実は、と偉そうに言えば、昨夜のスイスとの準決勝戦は何となく勝てるような気がしていたが、元々中国が主催する大会を熱心に見るのは業腹だと思っていたし、午後9時から試合開始では超後期高齢者は付き合いきれないとばかりに見ることはせずに寝てしまった。

「勝てるかも」と思った理由はと言えば「如何にスイスが予選リーグを8勝1敗で切り抜けたとは言え、あのカーリングというゲームの性質では、そうそう勝ち続けられるとも思えないし、勝ち運などというものは長続きしないだろう」なのである。勿論、「我が代表が勝てれば良いのだ」と言う希望的観測も入っていた。結果は本日の午前4時からのニュースで知った。

そこで、冷静なる評論家に戻って「カーリングというゲーム」を考えて見よう。広辞苑によれば「スコットランドで始まってカナダで広まって普及した」とあった。“curl”とは「曲がる」とか「曲がりくねる」という意味だが、それがどうしてcurlingとなったかまでは未だ調べが届いていない。

団体競技(team sportsかな)であるサッカーの出身である私には「カーリングは団体競技のようでもあると共に、個人競技でもあるかのように思わせられる」不思議な競技に見えるのだ。そこには4人の一人ひとりの技術と能力は非常に重要な要素なのだが、その前に相手テイームが残した石がどのような位置にあるかは運であって、技術以前だというように見えるのだ。その位置に対してどのように投げるかは全員の合議制のようだが、その決め事のように投げられるかどうかの技術の問題だと思う。だが、氷の状態まで読み切っておく必要があるようだ。

私には個人競技かと見える最大の理由は「ロコ・ソラーレではスキップという名称で最後に投げる藤澤五月さん次第で大逆転もあれば、無残な負けもあるという点」なのだ。即ち、マスコミ報道にあったスキップの投球(投石だろうが)の確率が80%の成功率では駄目で90%以上なら優秀だというようだ。即ち、スキップ個人の能力と読みと技術に大きく依存していると見えるのだ。

ロコ・ソラーレは1戦目のデンマーク戦に10エンドの後攻で相手残してくれた石の配列が一投で3点取れて大逆転となる形だったのは『運』があったし、その運を活かした藤沢さんの『腕』だったという点では、テイームスポーツと個人競技の両方の要素が非常に良く表れていたと思った。だが、予選の最終戦でスイスに「コンスイード」(またカタカナ語論になるが、concedeを「コンシード」としてあったのには恐れ入った)で負けた一戦は「相手も強豪だったが運も逃げていっていた感が濃厚だった」と思う。

即ち、言いたい事は「この競技は与えられた『運』を活かしきるだけの『腕』即ち技術と能力を兼ね備えていなければならない」という辺りが極めて重要だという点だ。では体力というか身体能力は求められていないのかと言えば、決してそうではないようなのだ。それは、氷上を滑って投げる時に可能な限り低い姿勢で氷面を見ている必要があるらしいのだ。そう思って見ていると、男性の試合では全員が氷の面に体が密着しているかのように見えるほど全身を低い姿勢を採っている。あれには腹筋をできるだけ強化しておく必要があると見た。

要するに「団体競技と個人競技にそれぞれ求められる要素を如何にして混ぜ合わせて、相乗効果を発揮出来るかが、この競技の最も重要な点だと思う」のだ。フットボールや野球のように選手同士の物理的な結びつきが重要な競技ではないが、4人全員が常に意思の疎通を怠ることなく、瞬時に意志と意見を纏めなければならないようだ」と見たのだ。

であるから、ここでは代表テイームが選抜制ではなくて、我が国では国内の予選を勝ち上がってきた単独テイームのロコ・ソラーレになっているのだ。だが、外国には選抜テイームもあった。矢張り我が国では「和」に重きを置き、外国では「個人の力に依存する」という文化の違いが見えたように思えるだ。矢張り「文化比較論」が落とし所だった。

さて、イングランドが決勝戦の相手だが、準決勝戦で発揮出来た技術と運の相乗効果を何処まで発揮出来るかに懸かっていると見た。だが、「閃き」は未だ来ていないのだ。