新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語とEnglish

2022-02-27 11:53:03 | コラム
「英語」とEnglishとは別の物ではないか:

「英語とEnglish」というのは懐かしき1990年4月に、生まれて初めて紙パルプ業界の専門出版社・紙業タイムス社の「紙業タイムス」誌(月2回発行の専門誌)に連載を開始した時の題名である。1990年とはアメリカの会社に転進して18年目であり、アメリカ人たちが日常的に仕事の面でも、個人的な生活にでも使っているEnglishが「我が国の学校教育の英語」と非常に違っていると明快に認識出来ていたのだった。

念の為にお断りしておくと、このような題名にはしたが毎回こういった事を取り上げる訳ではなく、編集長からは何を取り上げて語っても結構であると聞かされていた。この題名の心は、1987年にMLBから最初に我が国のプロ野球に転じてきて大きな話題を提供したJames Robert “Bob” Horner(バブ・ホーナーであって、断じてボッブ・ホーナーではない)が1年だけヤクルトに在籍して「もうこれ以上something like baseballをやるのはイヤだ」と言ってアメリカに帰っていった事にある。即ち、我が国でやっているのは「野球」であってbaseballではないと言ったのだ。

即ち、我が国ではEnglishという外国語を極めて科学的に捉え、厳密に文法を分析して恰も一定の規則に従っていると看做しているかのように、非常に真面目に数学のようにキチンと教えてきたのだったと解釈している。しかも、その教科書たるや、我が方の技術サービスマネージャーが取引先の管理職に高校3年のお嬢さんをホームステイさせてやって貰いたいと懇願されて引き受けた時に、先ず家庭訪問をした時に如何なるものかを知ったのだった。高校の英語の教科書を見せて貰ったのだ。

一読して彼が叫んだ事は「日本ではこんな難しい文学作品を教材に使っているとは信じられない。日本では生徒たち全員を英文学者にでも育て上げる気なのか。我が国ではこんな難解な文章を大学でも使って教えていない」だったのだ。私はその頃には未だ我が国の学校教育に於ける英語を批判する事などしていなかったが、英語の勉強を面白いと言っていない者たちが多いのは承知していた。言い換えれば、実用性は二の次三の次だという教え方なのだろう。

その頃に私が知り得た事をこれまでに何度か取り上げてきた。それは、テレビでの英語教育に関する討論会で、保護者の方が「幾ら学校で英語を教えられても、一向に外国人に通じるように話せない点を改善して欲しい」と訴えられた。それを聞いた女性の高校の英語教師と名乗られた方が「見当違いの要求だ。私たちは英語は生徒たちを5段階で評価出来るようにする為に教えているのであって、会話の能力を高める事などは考えていない」と、堂々と言い切られた。私は寧ろ感心して「その通りだろう」と思って聞いた。

その発言が示すように、我が国の英語では「文法、英文解釈(和訳でも良いか)英作文、単語の知識等々」のように本来は生き物のような性質の言語を分解して独立の科目のようにしてバラバラに教えているようなのだ。そこに、上述のような文学作品まで取り上げて読ませているのだから、私の感覚では「我が国の英語教育を大学まで生真面目にこなしてきた方々は、非常に読解力が高いのだが、自分の意志を言葉にして語って見ろとなると、不得手になってしまっているようなのだ」となった。

このような科学的で理詰めの英語教育を施されて、単語を覚え、文学作品に接してきていると、どうしても「自分が言いたい事か自分の意志を英語で考えて英語で表現する事が難しくなってしまう傾向が顕著なのだ。また、仮令かなり淀みなく英語で話されるようになった方でも、難しい単語というか文語的な表現を多用された格調高い英語になってしまう」のである。それならそれでいいじゃないかと言われそうだが、その英語は日常会話のような口語体ではなく文語体であり、堅苦しい事になっているのだ。

失礼を顧みずに言えば、安倍元総理の通訳を務めておられた方の英語の格調の高さが印象的だったので、トランプ前大統領は「シンゾー」は非常に学究的であり、文学作品に慣れ親しんでおられたと思って尊敬していたのではないかと考えた事すらあった。この方は、確かIvy Leagueの何れか一校に留学されていたと思う。その所為か学術論文のような文語体になったのだろうか。

話が遠回りしていたかも知れない。私は昨日も「英語の文章は簡単で易しい言葉を使って誰にも解りやすいような平易な文体にしよう」と述べた。いや、正直に言えば、私には難しい単語を多用した格調高い文章など書く能力はないのだ。即ち、現実にアメリカの支配階層の人たちが運営する会社にいれば、学術論文のようなreportも来ないし、何を言いたいのか理解出来ないような表現を使う日常会話もないのだ。だからと言って、彼らが格調高い文章を書かない、書けないなどと言う事はない。日常会話と学術論文は使い分けているだけの事。

私が言いたかった事は「我が国の学校教育における英語では読解力を高め、数多くの単語を記憶させるようになっているのだと思う。だが、教科書を作る側も、それを使って教えておられる先生方も「アメリカ(英連合王国でも同じだと思うが)の知性と教養を備えて階層(私はそれを支配階層と呼ぶが)にある人たちの世界に入って、日常的な会話を経験されていないのだろう」と思う。そこに疑問な点があるのだ。

彼らは非常に平易な言葉でサラッと難しい事を表現されるし、勿論語彙も豊富だし文法も遵守されている。だからこそ“Me, too.”のような言い方を許さないのだ。何時だったか「“It’s me.”は駄目だと言われたことがあったが、何故でしょう」という質問を頂いた事があった。こういう言い方を日常的には出てくる事が多い。だが、文法的には誤りなのだ。何処か誤りかをここでは指摘しない。要点は「アメリカ人も使っていたから」と言って真似をしてはならない、知性と教養を問われる事になる文体だ。

ここまででお解り願えれば幸甚なので、我が国の学校教育では高度な文学作品までを読みこなせるような教育をされているようだが、アメリカやUKの普通の人たちの中に入って暮らせば、ごく簡単な易しい単語ばかりを使った文章しか出てこないのだ。その辺りの相違点を、私は「Englishと英語は違うのだ」と表現したのだ。

最後に「baseballと野球の違い」にも触れておこう。先ず言える事は「アメリカ人(MLBには南アメリカ人も非常に増えたが)たちは自己中心的で自己主張が強いの、テイームの為に1回の表に無死走者一塁で犠牲バントなどというプレーはしないのだ」という事。トランプ前大統領が代表的だった「自分ファースト」の集団が野球をやっているのだ。この辺りを我が国の野球と比較するまでもあるまい。

また、アメリカでは基本的な事で、投手は打者に向かって力一杯の目にも止まらない直球を投げて「打つなら打って見ろ」と勝負を挑むのだ。打者は打者で力一杯にバットを振って出来る限り遠くに飛ばせるように練習を積んできて、投手と勝負をするのだ。我が方は「全体の為には故人の犠牲を厭わないし、全体での勝利を優先している」のであるが「アメリカでは個人の主体性重んじ更に依存して、その各人が最大の能力を発揮出来るように任せていて、その先に全体の勝利があるのであり、テイームウワークなどは二の次」なのだ。会社組織でも同じ事。

これほど文化というか物の考え方違う国の言語がEnglishなのだ。