新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

一寸反省したのだった。

2022-02-09 09:13:13 | コラム
「旧制中学って?」と怪訝な顔をされてしまった:

本稿をお読み下さる方のどれほどが「旧制中学」をご存じかなと、少し不安である。昨8日は国立国際医療研究センターの循環器内科での定期的診察で主治医の医長先生に「石原慎太郎さんが亡くなって落胆しておられるのでは」と気を遣って頂いて大いに感激して帰ってくる途中に、調剤薬局で初顔の薬剤師さんと一寸の間語り合ったのだった。

その際にも石原慎太郎君が話題に上って「彼とは昭和20年に同じ旧制中学に入学した仲間だった」と言った所、「旧制中学って?」という顔をされたのだった。私はこれまでに何の気を遣うこともなくというか、誰でも知っている事柄だと勝手に決めて「旧制中学」という表現を使ってきた。だが、若い薬剤師さんには通用しなかったのだったのにはやや衝撃を受けた。

そこで、念の為に回顧しておこう。昭和23年の3月に中学3年生全員が突如として講堂に集められたのだった。皆が何事かと怪訝な顔で座って見れば「これから神奈川県立湘南高等学校・併設湘南中学校の卒業式を行う」と校長先生が宣告したのだった。それこそ「狐につままれた」ようであり、青天の霹靂のようでもあった。詳しい説明では「学校の制度が変わって中学校は3年までで、そこから先は新制の高等学校となるので、本日ここに中学校を卒業して貰うのだ」そうだった。更に「4月からは新しい湘南高等学校の生徒となる」と聞かされた。

我々は5年生の湘南中学に入学したのだったが、進駐軍の命令(指示?)によって教育制度がアメリカ式に改革されて、当時でも言われていた「6・3・3制」となり、その上に4年生の大学が来ることになったのだが、中学5年生は4月から高校3年生になるのだったが、その前に旧制の3年制の高等学校と同じく3年生の大学予科を受験することが出来るのだった。解り難いかも知れないが、5年生は旧制高校や大学予科を受験出来て、失敗してもそのまま高校3年になれて、そこでまた新制大学を受験出来るのだった。

言い換えれば、戦前は「6・5・3・3制」で17年間かけて勉強できたが、新制度では「6・3・3・4制」となって16年間学校に通えるのだ。戦前と敢えて言うが、これらの他に6年間の小学校の上に2年間の高等小学校という制度もあって、ここには中学浪人となった者までもが通って、捲土重来を期して勉強していたものだった。

この「6・3・3」という新制度は、如何にもアメリカ式であり斬新な教育制度であるかの如くに報じられ、我々児童生徒はそういうものなのだと受け止めていた。だが、後に知り得たことは「進駐軍の教育担当だった者が生まれ育った州の教育制度がそうだっただけの話で、この制度はアメリカの州によって異なるのだ」なのだった。実際にアメリカ人の中に入ってみれば「うちの子は7年生」など聞かされて困惑させられた。

我々中学3年を卒業させられた者たちは、新制の高等学校生となって新しく支給された新制高等学校の教科書を見て(読んでか?)大袈裟に言えば「怒り狂った」のだった。多くの優秀な生徒たちは「我々を馬鹿にする気か。これでは中学3年の時の教科書よりも程度が低いではないのか」と憤慨したのだった。論旨を飛躍させれば「これぞ、石原慎太郎君が指摘していた『アメリカによる日本及び日本人の骨抜き作戦』の一環だったのだ」と思う。

昨日は、ここまでのように滔々と薬剤師さんに語った訳ではないが、あの当時の記憶を呼び起こせばこういう時代があったということなのだ。彼とは調剤された薬を貰う短い間に無駄話をしただけのことだったのだが「そんな制度の変化があったのですか」と言って驚かれたのだった。そこで、「なるほど、現代の若い人たちには旧制中学などと言っても通じなかったのか。私の独り善がりだったのか。これからは手間暇を惜しまずにちゃんと説明せねば」と反省したのだった。

思い起こせば、昭和23年即ち1948年とは、74年前もの昔のことではないか。安倍晋三氏も菅義偉氏も岸田文雄氏もこの世に生まれていなかった時代のことだった。