「パワー」はカタカナだけど英語だった:
8日朝のテレ朝の「グッドモーニング」での、女性アナウンサーのこの一言は印象的だった。それは「キンニクン」とかいう芸人またはタレントが、アメリカでの「パフォーマンス」で「パワー」と叫ぶギャグだったかが受けたとか受けないという話だった。彼女は純真にも「パワー」が英語だったと気が付いたと告白していたのだった。英単語の誤用だとは知らなかったということだ。恐れ入ったと思った。
これを聞いた私は妙に納得させられていた。即ち、テレビ局の人たちは英語の単語の知識が無かった訳ではなく、ただ単に「パワー」が「力」という意味の言葉だと思って使っていたということが確認できたのだった。私が先日のことで「カタカナ語排斥論者としては、カタカナ語の過度な使用を批判するのは無駄な抵抗だと思うに至ったと悟った」と述べたことが立証されていたのだった。
私はずっと「日本語の中にカタカナ語として戸籍を得てしまったのが困る」と批判してきたが、現実はそれよりも一歩も二歩も先を行っていて、若い世代は何の迷いもなくカタカナ書きされた日本語の言葉だと思い込んでいたと、あらためて確認できたのだった。
私はジャニーズの連中が出てこないというだけの理由で、再録ものでも何でも暇つぶしに刑事物のドラマを見ることがある。そこでは2000年代初頭のものでも刑事たちが「被害者と容疑者の間には何かトラブルがありませんでしたか」などと尋ねている場面に屡々出会うのだった。ということは、私がカタカナ語批判を始めた頃には既に「トラブル」は「揉め事」か「論争」の意味で脚本家たちは使っていたことを示している。
このように英語本来の意味を離れて、カタカナの形で日本語にされてしまった言葉は増える一方である。それは「トラブル」が示すように誠に広い範囲の意味で使われてしまっているのが悪い(良い?)例であろうと思う。それは「揉め事」や「故障」や「事故」のような漢字の熟語の使用を避けて、誰にも解りやすくしようという試みかとでも解釈すれば良いのかと思っている。ここでは敢えて他の例は挙げないが、この手のカタカナ語は無数にあるのが現実だ。
こうなったのが英語教育で単語を沢山覚えることを重視することのためか、国語力の低下かどうかは私には俄に判断出来ない。だが、このような流れを何処かで止めないことには、そう遠からぬ時期に日本語はカタカナばかりになってしまうのではないかと、独り密かに怖れている。