新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

座右の銘を考えれば

2022-08-16 08:39:39 | コラム
私の座右の銘:

President誌の22年9月29日号に、故人を含めた有名な財界人の座右の銘が特集されていた。有名人とは、例えば土光敏夫氏、本田宗一郎氏、盛田昭夫氏、井深大氏、稲盛和夫氏のようなカリスマ経営者の方々である。実際に読んでみれば、私には座右の銘というよりも「なるほど」とか「流石にこういう方々が言われることは、凡人には考えられないほどの優れたというか凄い教えがある」と感じさせられた言行録の感があった。

興味か関心がおありの方は同誌の46頁をご参照願いたい。齢89歳となってしまった私には「今頃になって読んでも遅いのが残念だ」というところだ。だが、この歳になって読んでも大いに勉強になるのだ。

そこで、それでは「この俺にも座右に銘があっただろうか」と考えてみたが、ついぞ思い当たるものが無かった。と言うよりも、そういう事に思いを致して外に向かって発表するような余裕がないような過ごし方をせざるを得なかったという方が正確だろうと思ったほど、22年ほどのアメリカの会社暮らしは「艱難辛苦」の連続の時だったのだ。

「何故そう言うのか」と問われれば「アメリカの我が国から見れば想像も出来ないような労働力の質の低さが産み出す製品を、さしたる苦情も言わずにその製品としての機能を果たし、ユーザー側の生産効率を高めてさえいれば苦情を言わずに受け入れているアメリカの需要家と消費者の寛容さがあるから」と答える。「それでは何のことか解らない」と言われれば、「我が国の需要家と消費者の受け入れ基準からすれば、到底通用しない製品がアメリカ市場に受け入れられていること」と答える。

もっと解りやすく言えば「アメリカの市場で通用している品質では、我が国の高水準の技術力を誇る製造業や加工業者には通用しないので、四六時中クレームに対応して、処理していなければならなかった」ということになる。「それは御社だけの問題ではないのか」と言われるだろうが、その辺りも敢えて説明しておこう。

それは、我が方よりも優れた品質を維持していて「御社もあの会社並みの物を作りなさい。そうできれば黙って受け入れるよ」と、需要者側が高く評価していた厳しいというよりも細かい点まで等閑にしない日本の需要家が受け入れていた製品を輸出していた最大のcompetitorの日本代表者ですら「何故、アメリカ市場では絶対に認めることがないようなクレームを受け入れてまで、日本に売る必要があるのか」と本社で嘆いていると語っていたと聞こえてきていたのだ。

その世界で最も品質と生産効率に厳格な基準を設けている高い技術水準にある日本市場から突きつけられる高い品質の基準と、そこに発生する「品質不良に対する細かいクレームの話し合いと補償」の、尋常ではない精神的な負担を如何にして乗り切るかが、常に最大の重要課題の中で最も優先順位が高かったのだった。その負担には動もすると負けそうになってしまうのだった。だが、負担に負けて諦めて、唯々諾々と補償要求に応じていて改善の努力をしなければ進歩はないし、事業部の存続もかかってくるのだ。

特に、1985年10月に発生した事業部どころか会社全体でも前例がなかったほどの最大の品質と労働力の質のクレームは、私がシアトルの郊外で自動車の貰い事故で重症を負ったときに起こっていたのだった。その大変な事故の補償交渉と工場の労働力の改善の二つの未だ嘗て無い重大な問題を解決できたのは、1986年の4月だった。頸椎損傷と肋骨2本骨折というかなりの重傷だった私は、今で言う「ワンオペ」の担当者だったので、苦しさに堪えてでも出勤して折衝を続けなければならなかったが、その間には2度も入院して治療していた。

その時に私が考えていた対処の姿勢とは「止まない雨もないし、明けない夜もない。問題の大きさに負けていても仕方がない。自分か置かれた立場は『俺以外に事に当たる者がいないのだから、頭から突っ込んでいくしかない』と自覚していたので、後先考えないで突っ込んでいけば必ずトンネルの先に灯りは見えてくるはずだ」だった。だが、おかしな事に「解決できない」とは、ついぞ考えていなかったという、ある意味で楽観的だったのだ。

私の文章の書き方の欠陥だと認識しているのだが、こんな終わりの方になってから結論が出てくるのだ。即ち、如何なる難局か難関に直面しても「真っ向から事に当たって懸命に対応していれば、長い長いトンネルの先に灯っている灯りが必ず見えてくるものだ。それが見えればしめたものだ」というのが、私なりの信条なのである。

この「一所懸命に事に当たっていれ必ず何とかなる。悪い結果など考えずにおこう」という考え方があったので、3回にも及んだ心筋梗塞、主治医が家内に「今度は保証できない」と言われたと後になって聞いた2度の重度の心不全での入院でも、当人は「そのうち退院できるだろうよ」と暢気に気楽に構えていた。そこには「必ず何とかなる」という「閃き」が来ていたのだった。もしかすると、これは「ポジティブ・シンキング」(=positive thinking)の姿勢で座右の銘なのかも知れない。「何だ、結局は回顧談か」などと言わないようお願いしたい。