新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月20日 その2 「国際人とは何かを考えれば」の補足

2022-08-20 16:09:29 | コラム
「国際人とは」を私なりに定義すれば:

私が考える国際人とは「自ら現地において他国の文化と思考体系がどのようになっているかを身を以て時間をかけてでも体験し、更に自国の文化と比較対照して、その違いを十分に認識出来ていて、尚且つその違いを誰にも解って貰えるように語れる者のこと」である。それに加えて、外国語の中でも、少なくとも英語だけででも、自分の考えと物の見方を思うままに表現できるだけの能力を備えているのも必須条件であろう。外国の文化を知るためには、その国の言語で意思の疎通を図れることが必要な条件になると思っている。

私は更に諸外国の主たる宗教とその歴史を心得ておくことも、国際人たる者にとっては必要だと思っている。それは、ヨーロッパの諸国を歩いて見れば、そこで出会うのは圧倒的な存在感を示すカトリックとその歴史であるからだ。余談だが、キリスト教信者ではない私は、バチカンのサンピエトロ寺院の中に一歩踏み込んだだけで、その荘厳な雰囲気に圧倒されて、何故か自然に涙が出てきたのには、我ながら驚いていた。同じ集団にいたカトリック信者の若き母親と娘さんは、それこそ「涙があふれ出て止まらない状況」だった。

実は、今朝ほどの「国際人とは何かを考えれば」では、上記のような肝腎なことが漏れていたので、改めて補足する次第です。

「国際人とは何か」を考えれば

2022-08-20 08:44:02 | コラム
国際人とどのような人物を指して言うのか:

実は、8月19日の「頂門の一針」にあった伊勢雅臣氏の「国際派日本人」について述べておられたのに刺激されて、伊勢氏のご指摘とは離れた話題になると思うが、「国際人とは」を考えてみた。それと言うのも、私は在職中に何人かの商社のアメリカ駐在員の方々が身内の人たちに向かって私を指して、「この方は国際人だから」と紹介されたことがあったからだ。

その頃には「国際人」の定義等を全く知らなかったし、まして自分が国際人だなどとは考えたこともなかったので、褒めていただけたと言うよりも寧ろ小恥ずかしい思いをした経験があった。そう感じた訳は、私は国際派も何も17年間日本の会社で培った紙パルプ業界の経験と知識がどれほど活かせるかと、家族を養うためにアメリカの会社に転進したに過ぎなかったのだし、国際人になろうなどは梅雨ほどにも目指していなかった。ヨーロッパの国などは1990年まで覗いたこともなく、80年代には年に2~3度アメリカに出張してくるだけの経験しかなかったので、国際化されていたとは思っても見なかったから。

そこで、今回は初めて「国際人」の定義とはどのような人を言うのかと検索してみた。すると、Gooには「ベストアンサー」があったので、その冒頭だけを引用すると「世界に目を向ける事が出来る人・可能な人とは、自国の文化や習慣や言語にも造詣(学問芸術技術衣食風俗などに深く通じていること)が深い人だと思います。英語の音楽が好きだから欧米の音楽には詳しいですなんていうのは少しも国際人ではありませんね。」とあった。

「なるほど。これならば少しは自分にも当て嵌まるてんもあるか」と感じた。だが、私の場合には一寸違う点があると思っている。それは、これまでに何度も述べたことで「アメリカの会社の一員として懸命に仕事をしてきた」との記述なのである。そう言う意味は「単に外国に駐在したとか、外国の大学等に留学して勉強してマスターなりドクターを取られた方々とはかなり異なる海外での経験をしていると」という意味での表現なのだから。

だが、残念ながら、何人かの方に「一員の意味が解らない」と言われてしまった。重ねて言うが、アメリカ人の一員になろうとは勤めていたが、国際人になろうなどという大それた考えはなかった。

これは確かに尤もな指摘であると感じたと同時に、言葉足らずだったかと反省した点もあった。言いたかった事は「何とかして彼らに同調して、彼らの思想・信条・哲学・思考体系に従って彼らの文化を弁えて仕事をして、彼らとはアメリカ人とは彼らの一人として、彼らの流儀に従って、彼らの家庭にも入って家族たちとも親しく付き合ってきた」なのである。こうすることで彼らの文化(仕来り)にもより深く触れることが出来たのだ。

即ち、「彼らを外側から観察しているのではなく、彼らの内側に入って彼らの日常生活というか生き方を経験し、飽くまでも彼らの一人として彼らを理解し、彼らの価値観を知り、我々との相違点を見出して、彼らに合わせられる限りは合わせて来たのだ。だが、ここで非常に重要な要素だと言いたいことは『絶対に日本人としての矜持を失うようなことはしない』過ごし方をしてきた点」なのである。即ち、彼らとの違いを皮膚感覚で経験し、自分が何者であるかを自覚していたのだった。

そういう経験をしてきたので、「違い」を語ることが出来るようになってきたのだ。長くアメリカに駐在しておられる方々に「これがアメリカの会社の在り方であり、システムなのです」と語ると「全く知らなかった。外から見ているのとは非常に違っている。これからはそういう視点に立って付き合おう」と言われた事も何度かあった。要するに「外国人として見聞きするアメリカと、内側に入って見るアメリカはとは違うのだ」なのである。しかし、内側から見たことが「国際人」の必要条件ではないとも思うのだが。

だが、物事を外から見るのと内側から見るのでは大違いなのは当然で、私は内側に入っていたからこそ、外部からは見えないアメリカをジックリと経験したからこそ、その実態と我が国との相違点を纏めて語れるようになったというだけのことではないのだろうか。このように相違点というか文化の違いを認識して語れることは、国際人でも何でもないことではないかと思うのだ。

私は何も国際人になりたいとか、なろうと目指していた訳ではなく、彼らの世界に入った以上、彼らの規範に従って考えて、それに合わせて行動してきただけのこと。その私がアメリカを語れば、当然外からしか見ることが出来なかった方の理解というか解釈とは異なったアメリカという世界と、その国の会社となるのは当たり前ではないか。それだからと言って、私が国際人であるとは思っていない。私は言うなれば、ジャーナリスト的ではないアメリカ通だと自覚しているが、如何なものだろう。

私が語る「アメリカとは」や「アメリカの会社とは」や「アメリカの文化とは」と「それと我が国の文化との相違点」に余り賛同者が出てこないのも、仕方がないことだと思う。それは、一般の方々は「アメリカを私のように内側に入って経験することは先ずないだろう」と思っているし、ましてや、マスメデイアが発信する情報や、権威ある方々の著作や、公になっている統計資料から判断されるアメリカが、内側で経験した者が語るアメリカとは異なっているのは当然だろうと思う。

結論的に言えば「私はある程度までは国際人である」というだけのことではないだろうか。敢えて言えば「どれだけの国々を内側に立ち入ってまで見てきたか、文化の相違点まで自分で経験して理解し認識できていたか、それらの国々の言語で思うままに自分が表現したいことを伝えられる次元に達していたか」が、「国際人とは何か」の主たる基準になるのではないだろうか。

後難を恐れずに言えば「駐在や留学の経験から見える外国は、一時の過客として観察できた外国ではないのかな」と考えている。ではあっても、こういう方々は私とは異なる型の立派な国際人であり、私のような内側人とは異なる経験をしておられたのだと思って尊敬して、機会がある度にご意見を伺ってきた。