新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

昨3日夜のPrime Newsに思う

2018-10-04 10:18:06 | コラム
久しぶりの石原慎太郎君と堺屋太一氏だった:

最初の本題は「在留外国人と移民」だった。両氏の論調は予期した以上に穏やかで、石原君の語り口も往年の「寄らば斬るぞ」的な怖さが消えて「矢張りそれなりに老化したのかな」と思わせられながら聞いていた。在留外国人の件では石原君は池袋における中国人の大量の増加の例を挙げて、その治安の悪化を指摘していた。だが、ここ新宿区百人町に30年も住んで、この界隈の劣化というか退廃への歩みを見てきた私に言わせれば「元都知事さんよ、認識不足では」と叫びたくなっていた。同じ高校出身の新宿区区議は「百人町/大久保界隈は未だスラム化していないから、現状のままでも良い」などという不満足な見解を聞かせてくれたことがあった。

石原君には毎月発表している「新宿区の人口」を一纏めにして彼に送って認識を新たにして貰い、この地区の視察にでも来るように促そうかとすらも考えていた。この地区にも確かに中国の若者が明らかに非常に多いが、彼らは池袋のような「中国租界」を形成するほどの資金も裏筋へのコネもないと見える表向きは日本語学校お生徒が多いようだから、刑事罰を食らうような犯罪を犯す次元までには至っていないとみている。彼らが治安は悪化させてはいないという意味だ。

実は、私が最も気になったのは
堺屋太一氏の「安倍政権が(若年)労働人口の不足を補うべく外国人労働者の招致を計画しているが、それの速やかなというか滑らかな進行を阻んでいる悪条件に『言葉の壁』がある」との発言だった。彼は日本語の難しさの例として「牛は一頭」で「鶏は一羽」というような数の単位が複雑である点を挙げていた。尤もではあるとは思う。その他にも技能修習生の滞在期限を5年で切っているのも無情であると指摘していたが、些か陳腐だと思った。

私があるテレビの番組で見たところではこれらの技能修習生を招く為には先ず現地で希望者を集めて日本語の講習会を開催しているそうだ。しかし、現実には効果が挙がっているとは言っていなかった。私はこれもまた尤も至極であると思っている。それは、これまでに何度も採り上げてきたフランス文学のTK博士が「我が国の外国語教育、就中英語の教育の水準の低さは、遺憾ながら世界の最低である」が、そのまま当て嵌まるのではないかと考えている。

これも最近繰り返して指摘して来たことだが、言うなれば明らかに「支配階層の」と呼んでも良いような高い水準の日本語を操るアメリかとヨーロッパの人たちが激増している事実がある。また、これも10年ほど前に採り上げた話題だが、オレゴン大学(州立である)で2年だけ日本語を学んできたアメリカの青年が明治大学に留学して「何の問題もなく日本語の講義について行けている」と語ってくれた例がある。確認するが「2年間」である。

言いたくはないが、不肖私が嘗てW社本部での日本出張前の集団に混じって「日本とは」という1週間の連続講義を聴いた際に、一寸でも集中力が途切れると日本についての講義なのにも拘わらず、付いていけなくなってしまい「英語という河が私の目の前をゴウゴウと音立てて流れていっているだけ」という情けない状態に陥ってしまったのだ。それと同じ講習会に私の暫く後に参加したW社ジャパンの英語には私以上に練達熟練の副社長のN氏でさえ「君でも付いていけなかったか。実は俺も自信を失って帰って来た」と述懐されたのだった。

それなのに、2年だけオレゴン大学の教養課程で学んで来ただけの日本語力で、我が国の有名私立大学の講義に付いていける実力が養成されていたということは「アメリカの外国語教育の水準がどれほど高いのか」を示しているのではないかと、正直なことを言えば悲しくなってきたのだった。また、私が通っているジムのアルバイトのトレーナーだった韓国の青年は非常に流暢な韓国訛りがない日本語を話し、自己紹介の掲示板の文章などは見事なもので、しかも達筆だった。

私は彼に「何処で何年どうやって日本語を勉強したのか」と尋ねてみた。答えは驚異的だった。「韓国で2年弱ほど勉強した後でこちらに来て、日本語学校で1年と一寸」だったのだ。彼が嘘を言っているかと疑う気にもならないほど滑らかな語り口だった。また12年にカリフォルニア州のガーデイナでYM氏と共に弁当を買った韓国料理店の若い女性が余りにも綺麗な英語話すので、2人で異口同音に “were you born here?”と尋ねてしまった。そう思わせられほどだが、韓国で2年ほど学んでアメリかに来て未だ3ヶ月にも満たないのだそうだった。YM氏と「韓国の英語教育の水準がそれほど高いとは知らなかった」と嘆いた。

YM氏は8年間もアメリカのIvy League等の一流私立大学のビジネススクールで教えていたのだが、国別に見て英語力が高いのは先ず中国で、次には当然かも知れないがインドが来て、韓国はそれほど上位にはなかったと評価していたと語っている。諸外国の外国語教育と我が国のそれが何処がどのように違うのかと思わざるを得なかった。

ここで民間の話から変えてみよう。私は在職中にはカナダ大使館とアメリか大使館の一等書記官や商務官と交流があった。彼らは公式には英語しか話さないが、当然ながら日本語の能力は極めて高いのだ。そこでカナダの書記官に「何処で日本語を学んだのか」と尋ねてみた。彼らは来日して1年間は横浜にある外国人専門の日本語学校に缶詰となり、それこそ朝から晩まで日本語だけの生活を続けて、問題なしという水準に達して初めて青山の大使館に正式に着任するのだそうだ。それにしても1年であの域にまで達しているのは凄いなと思わせられた。

ここまでで何が言いたかったかと言えば、堺屋太一氏が言う「言葉の壁」は我が国の日本語教育の問題であるのかも知れないという点である。そこには外国語を淀みなく話せうようになることも肝要であるが、聞き取る力の養成も重要であるとも言いたいのだ。後難を恐れずに言えば「我が国の英語教師たちの発音では、何時まで経ってもnative speakerたちの発音に付いていく力が付かないのでは」との懸念である。同時に英語の教育では既に繰り返して指摘したように「相互の文化と思考体系の違い」を何処かの時点で叩き込んでおく必要があるのである。

また、別の見方をすれば相撲界のように中学を卒業した頃の年齢から日本語だけの生活に馴染ませるだけではなく、相撲界の独特の一般社会とは別個の文化の中で育てていけば、堅苦しい教育をせずともあれほどの日本語で自分たちの意思表示が出来るようになるのだということを、外国語を教えている方々にご検討願いたいと思うこともある。

国際化の時代だのグローバリゼーションだなどと言って小学校3年から英語を教えようなどという戯れ言は忘れて、諸外国の教育法や大使館の手法や、言いたくはないが相撲界の現実などにも目を向けてみる必要があるだろうと唱えたくもなってくるのだ。断っておくが「海外の留学」や「海外駐在」で学べることには限界があるのだ。彼らの中に入って彼らと共に暮らしてみないことには知り得ない文化と思考体系の違いがあるということ。



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