新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

プロ野球のオールスターファン投票の最終結果に思う

2017-06-29 07:58:00 | コラム
ファンの程度が知れるとか:

こういう論評というか感想が何処かのメディアに掲載されていた。どうやらそれは故障からの立ち直りが遅れているにも拘わらずファン投票ではパシフィックリーグのDHに選ばれてしまった大谷翔平のことを指しているようだった。ファンが投票するのである以上、こういう結果が出たことは理解できなくはないが、4月から大谷が休んでいる間中に実働していた他球団のDHの者には失礼であるとは思う。

私は元々ファン投票なるものは余り評価していなかった。それは、私が我が国のプロ野球ファンなる方々は特定の球団のそのまた特定選手が好きで球場に熱心に通われるか、常に自宅でテレビ観戦を欠かさないような種類の野球愛好家ではないのかと思っているからだ。そういう野球が好きな方だから投票されるのだから、結果などはある程度予測が可能ではなかったか。

かく申す私は、長嶋・王の時代どころか、戦前の後楽園でスタルヒンや川上哲治や苅田久徳を見てきた経験がある野球観戦者であり、我が母校が昭和24年に甲子園に出て優勝した時の野球部員とは常に同じグラウンドで練習して、彼らから野球理論を学ぶ機会があった、言うなればそれなりに野球通であると自負している。

これまでに数多い野球ファンに出会ってきたし、その中には熱烈な巨人ファンも多かった。また、東京に住みながら熱心な阪神ファンという方も知っている。その多くは色々な選手たちの、主として良いところをみてファンとなり熱心に応援しておられるのではある。だが、そのプレー振りを見て野球理論に基づいて評価され応援されている訳ではないという方が多いのも事実だと思う。

東京ドームなるものが出来てからは、あの何となく圧迫感があって暗いという印象がある場所でプロ野球を見たことは一度しかない。あそこに行くのはフットボールを見に行くだけになってしまった。その理由の一つはあの観客席全体を埋め尽くした巨人ファンが鳴り物入りで応援する騒がしさでは、冷静な評論家は落ち着いて鑑賞し論評していられないからだということもある。入場券の入手が難しいことは別問題だ。

このように、私はどうしても「プロの選手たちの技量の争い」を見ることを楽しんでいるのであって、特定の球団や特定の選手が好きで見に行くとか自宅デレレビ観戦するということは一切ない。だが、嫌いな球団があることは認めておかねばなるまいが、それが何処であるかは今更言う必要もないだろう。

一方アメリカではどうかという点にも触れておきたい。我が社の本社がシアトルに近いところにあったので、嘗てイチロー君が名を挙げたシアトル・マリナーズの本拠地だったキングドームと現在のセーフコフィールドではかなりの数の試合も見てきたし、MLBの優れた技術を見る機会を得たのは幸運だったと思う。

アメリカの野球ファンの質の我が国との大きな違いはある。だが、地元のテイ―ムを熱狂的に応援することは広島のカープファンに似てはいると思う。多くのファンは「地元のテイ―ムが好きだから応援する」以外に、熱心にその技術を楽しむべく観戦に来ているという点を挙げられると思う。彼ら同士の会話を聞くともなく聞いていれば、その深い野球についての理解度が解るし、例えば我が国の解説者の話を聞くよりもよほど確かな評論になっている。

我が社の熱心なファンの一人はチャンとグローブを持参して「万一ファウルボール飛んでが来た時に備えているので当然のこと」と言ったし、佐々木大魔神の初登板の日には「この投手のフォークボールは確かに威力はあると思うが、アメリカの打者に対しては有利なカウントに持ち込まない限り空振り取れないだろう」と予言した。その直後に佐々木はホームランを打たれたのだった。

このようなファンの知識が豊富なことはフットボールの観戦でも十分に認識させられた。やや専門的なことかも知れないが、フットボールには選択したプレーが成功するし失敗することもる。その失敗で崩れたプレーを巧みに活かしてゲインすることもある。そういう点を慧眼にも見抜いた観客は「今の失敗は誰の責任か」であるとか「今のはプレー崩れであって初めからそうデザインされていた訳ではない」等々を語り合うのだが、「なるほど、そうだったのか」と、感心して聞いていたものだった。

さて、ファン投票である。私には我が国のファンの方々はご贔屓のテイ―ムの、そのまた選手を熱心に応援し投票されるのであって、大谷に投票された方々は一刻も早いお歌にも復帰とファイターズが上昇機運に乗るようにと希望的観測を込めたのだと解釈している。大谷の回復にあれほど要らざる?時間を費やした球団の担当者たちの不手際などは眼中にないのだろう。こういうことを、私は「贔屓の引き倒し」と言うのではないかと密かに恐れているのだが。

その他にも何でこの選手が選ばれたのかと疑いたくなる者がいるが、概ね人気球団の選手である。私はそこまで論評する気はない。それは、ファン投票とは多かれ少なかれ「人気投票」の色合いが濃く、選手の技術を基準にして選んでいる性質ではないからだ。ファンの方々はそれぞれのお好みの選手たちの活躍を見たいのだろうから、余計な論評は野暮だろう。


6月28日 その2 電子計算機の進歩と時代の変化

2017-06-28 17:10:25 | コラム
AIの進歩発展と普及に思う:

かの将棋界の新星というのか新たな英雄、藤井颯太四段はその進歩の過程で、AI(人工知能=artificial intelligence)を活用していると、お師匠さんが語っておられた。マスコミはコンピュータの将棋ソフトというのかAIの棋士?が、次から次へと対戦した生身の棋士を破って行くのを嬉々として報じている。何処かで読んだことは「大型コンピュータの処理能力では極めて短い時間に700万回もの将棋を指せるので、人に勝てるのに不思議はない」とあった。

私は1960年代にはお世話になっていた日本の会社で「情報用紙」(=ビジネス・フォーム用紙)を担当していた時期がながあったので、電子計算機について何らの具体的な知識もないままにその業界との接触があった。それは電子計算機の「アウトプット」用の用紙なのだが、紙に対する要求が非常に厳しく、後に知るようになったのだが、そういう紙を使う機械類は「紙という木材繊維で出来ている物の物理的な品質の限界などには全く何の配慮もしていなかった」のだった。イヤ、紙がこちらの要求を理解して即刻対応すべきだと頭から決めつけているといった方が正確だったかも知れない。

その当時でも、我が友・YM氏は電算機に通暁していて「如何にして大量の情報を機械に入れるかが肝腎で、入れた情報が少なければ吐き出される結果も限定されると知るべきである」と言って、如何にして短時間に大量の情報を入力して演算させるかが重要なのであると説いていた。こちらの理解力は「そんなものかな」と受け止める程度で、何とか早くクレームにならない紙が出来ればと願っていた。

話変わって、1987年にW社の他の事業部の日本市場進出のお手伝いをしていた頃に、その事業部のマネージャーと打ち合わせをしようと営業所を訪れたことがあった。その時に彼はパソコンに向かってゴルフのゲームをやる余裕を見せなから、私を出迎えてくれた。この頃には確か電子計算機はコンピュータというカタカナ語の名称に変わっていたが、アメリカでは”personal”なものまで出来していたとは不覚にも知らなかった。

そのまま私は仕事用にpersonal computerなどを使うことなく1994年1月末で引退となったのだが、秘書さんは既にPCを使っていたし、1987年に就職した愚息などは入社前にワープロは使いこなせるように準備することを求められていたと記憶する。そして、私が退職後間もなくW社ジャパンでは全マネージャーがPCを持つ(持たされる?)ようになったと聞いた。時代の変化であろう。

私は引退後にも物書きの真似事は続けていたが、何れは年金生活に入っていく身では分不相応な投資をしてPCを使って原稿を書こうとは全く思っていなかった。それが、私の運命は偶然に支配される要素があるので、2003年の70歳の秋から、偶然の積み重ねで導入せざるを得なくなって今日に至っている。

その便利さは十分に認識してはいるが、ワープロを使っていた頃にその道に詳しい某メーカーの部長さんに「貴方はワープロが持つ機能の10%も使っていない」と揶揄されたが、甘んじて受けた。現在でも「PCの機能の中では1%ほども活用していない」と、胸を張らずに言える自信はある。

27日には我が国最大の店舗数を持つに至ったと報じられた回転寿司のHを何回目かで訪れてみた。前回の時には未だ完全に受付業務がAI化(は大袈裟かな)されていなかったが、昨日はロボットに何名かとテーブル席かカウンターを望むかを入力して、吐き出される座席の感熱紙の番号札を持って#63に向かった。ここではタッチパネルで注文し、食べ終わってから会計を要求する方法にも慣れた。成田でのタッチパネルでのチェックインで戸惑いは十分に経験済みだったから。国立国際医療研究センター病院でも外来の受付から会計までのAI化は著しく進んでしまっている。

このようにAIによる合理化(人減らし)が今後とも何処まで進んでいくかは超後期高齢者の私には想像も付かない。だが、経済性の追及や合理化はその道の専門家によって、恐らく限界まで行くことになるだろうことは容易に想像できる。だが、その限界が何処で如何なる形になるかを老化して時代遅れになった頭脳で考えても解る訳がない。そこには空恐ろしいものがある。

私は自動車の自動運転のシステムの進歩(よく考えればおかしな言い方で、そもそもautomobileではないか)などは危険極まりないのではないかと、密かに恐れている。それは、これほど嘗ての電子計算機が進歩してAIになっても常に何処かで不具合が発生しているし、ハッカーなどという不逞の輩が続出する時代にもなってしまった。将棋用のAIが人間に勝っている程度で収めておけば良いのではないかと思うが、その道の研究者は追及を止めるとは思えない。世の中は常に進歩と発展を求めている限り。


目下減量に努力中

2017-06-28 08:20:09 | コラム
主治医に注意されて:

5月16日の国際医療研究センター病院での定期検診で主治医に体重が58 kgに迫りつつあると申告した際に、57 kg以下を維持するよう警告された。体調が良くなれば、栄養分を吸収する力が付いてきたと勝手に考えて、余り考慮していなかったようだ。そこで、それ以降懸命に減量に努めているところだ。思い起こせば、2006年1月16日に1度目の心筋梗塞に襲われた時に救命処置後に病院で測った体重は何と62 kgで、我ながら「それほどあったのか」と驚いたものだった。

ご存じの方は多いと思うが、体格に比して多過ぎる体重は心臓に病を抱える者にとっては、過剰な負担がかかるのであってはならないことである。そこで(僅か?)19日後に退院を許されたので、そこから本当に一生懸命の減量に入っていった。カタカナ語排斥論者としては「ダイエット」などとは言わないよ。

その方法はOxfordでdietを見ると”a low-fat, salt-free diet”というのが出てくるが、将にそれだったのだが、私の場合にはそれに”low carbohydrate”、即ち、炭水化物を減らすことを加えたのだった。これは簡単に言えば、米飯と麺類を可能な限り遠ざけること。塩分は看護師さんからも指導されて1日6~8 gとなったが、この量を実際に量って見てその少なさに驚愕した。尤も、病院内での食事にはほとんど味がなかったので、その少なさの見当は付いていた。また、間食は絶対に近いほど止めることにしていた。

この食事療法は家内にも苦労と迷惑をかけることになったが、極端に言えばほとんど塩味がなく脂っ気がない食事をすることで、何を選んでどのように調理するかは容易ではなかったと思う。また、食べる方は「それが生き残る為に残された数少ない手段である」と思えば、それほど苦とは思えなかったので、対策の結果が出るまでじっと我慢して続けようと思っていた。

結果は6ヶ月で8 kg減量の54 kgとなって、そこから先は徐々に、本当に徐々に脂肪分、塩分、炭水化物を増やしていって見た。私はそもそもが戦時中の育ちなので、戦後の物がない時代では「ある物を食べる」という食生活を経てきたので、何でも食べるのには慣れていた。当時をご存じでない向きには「お米」などは貴重品だったので、米飯には執着がなかったのは助けになった。

また、1972年以降はアメリカでの食事と、アメリカ人と日本国内を行脚する生活に入ったので、益々米飯から遠ざかって行った。そこでは、戦時中と戦後の食生活に慣れていたお陰で、お米を食べないか食べる機会がない生活に何らの抵抗感もなかった。ここでお断りしておくべきことは「ライスですかパンですか」の選択を迫られるのは我が国だけの現象で、アメリカではパンそのものが選択制だと認識している。

換言すれば、あの不味くて直ぐ胸焼けがするアメリカのパンなどは、何日でも食べないでいられるのだ。「ライス」などは勿論選択肢にはないし、我が国のような米飯などは日本食レストランにでも行かない限り出てくる訳がないのだ。なお、確認しておけば、私は日本駐在員であってアメリカには出張で行っていただけで、留学も駐在も経験していなかった、念の為。

ところで、今回の減量作戦である。今回は脂肪分抜きや減塩はさて措いて、炭水化物を極限までに減らすと共に、米飯は言うなれば週に一度程度に止め麺類も極力遠ざけて、食事の量も楽しみの外食も週に1回とするなど大きく減らしてみたが、1ヶ月以上たった今でも特に体力と気力に支障はないと思う。なお、私はアルコールは体質に合わないのでもう20年以上もビール1杯すら飲んでいないし、喫煙は生まれてから経験していない。

もう一言追加しておくと、在職中には後に心筋梗塞の原因となったのではと当時の主治医に指摘されたアメリカでの食事による体重の増加を防ぐ為に「良く噛む減量法」とでも言えば良いことを1ヶ月ほど続けて1 kgほど減らせたことがあった。これは「良く噛むことで時間がかかり、体が自然に満腹感を覚えて沢山食べられなくなる」のだそうだ。しかし、減量できた後にアメリカ出張があって、減らした以上に増えて帰って来たことがあった。

今回はこの「良く噛む方式」も加えてみている。昨日までの成果では、5月17日の瞬間風速?58.20 kgから6月27日の時点で56.50 kgと1.7 kgの減量となっていた。2006年8月には54 kgまで下がっていたことを考えると、未だ未だ努力を続ける必要があるのかも知れない。だが、「減量し過ぎで寿命に影響するのでは何にもならない」との懸念もあるにはある。


6月27日 その2 益々悪質化したテレビ局と新聞社

2017-06-27 13:49:20 | コラム
26日夜にMXの「ニュース女子」で:

近頃、まっとうな論客として目立ってきたアメリカ人の弁護士、ケント・ギルバートは下記のように指摘していたと「頂門の一針」の第4396号にあったので、あらためて引用してみる。

引用開始
<最近、日本メディアの情報操作は悪質さを増している。沖縄の反米軍基地運動家の暴力性や、左派団体が「国連」の権威を利用して日本を貶めてきたカラクリは、前衆院議員の杉田水脈(みお)氏や、キャスターの我那覇(がなは)真子氏、テキサス親父日本事務局の藤木俊一氏らのおかげで白日の下にさらされた。だが、積極的に報じるのは夕刊フジと産経新聞くらいだ。>
>引用終わる

その通りだと思う。その悪質さは特に加計文書騒動では際立ってきたと思う。以前にも指摘したが、彼らは占領中にGHQに洗脳されたと聞く「時の政権を悪し様に言って批判すること」を恰も天職の如くに心得ているのではないかと疑っている。その辺りを「MXだからこそ言えるのだ」と、正統派(と言うか保守派とするのか)の論客が集まるMXの番組で、嘉悦大学教授の高橋洋一氏がそれこそ完膚なきまでに元文科省事務次官の前川某氏をこき下ろしていた。俗な表現を使えば「胸がスーッとする思い」で聞いていた。

記憶を辿って採録してみれば(記憶違いがあれば御免だが)、高橋教授は「第一次安倍内閣では官邸内にいたので、加計学園グループから獣医学部新設の願いは出ていたのは承知していた。だが、安倍総理は見向きもしなかった。この申請はそれ以前から何度となく出ていたものであるから、もしも総理が友人関係とやらを尊重されたのであれば、何も今日に至る前に認可されていたはずだ。故に、総理が今回が私情を挟んで規制を排除されたなどとはあり得ないのだ。それこそマスコミと野党の『操作』である。

だが、それでは話が面白くないのでマスコミは野党と組んで、たかが文科省内部のレクチャーの資料でしかない文書を、如何にも重大な文書であるが如くに騒ぎ立てて、総理と内閣の非難と批判の材料に仕立ててしまった。これは岩盤規制を如何にしては除するかという問題を、彼らが矮小化したのに過ぎないのだ。

また、文科省が頑迷に何十年もの間規制を解かず、獣医学部新設の願いを聞き入れずにいたという事実は、彼ら自身が行政を歪めていたのであり前川前時間の詭弁だ。総理や内閣府の問題ではない。何処かで誰かが前事務次官を『官僚のKUZU』とか表現したが、将にその通りであろう」と主張し、同席していた須田慎一郎と岸博幸他が賛同の意を表していた。森永卓郎は記憶が正しければ前川支持派だった。

司会者はかのリベラル派・東京新聞の長谷川某だが、あの新聞社の論説とも思えない論調で裁いているのも、この番組の特徴である。番組中で誰かが言っていたように「産経を除く新聞を読んでテレビを見ていれば、“安倍内閣は怪しからん”となるだろうとの論調も面白かった。確かにキー局のテレビだけを見ていれば、そのように誘導されてしまう罪なき視聴者が多いだろうと思って聞いていた。


イヤな日本語

2017-06-27 08:15:46 | コラム
テレビ局の軽佻浮薄さの象徴だ:

テレビを見ていると(見過ぎると)否応なしにおかしな表現を聞かされてしまう。私のような昭和一桁生まれには到底受け入れがたいイヤな言葉が乱発・濫用されている。私には戦後間もなく若者が衒って使っていたバンドマンの言葉に似たような感覚で捉えている。真似をして使うと格好が良いような響きがあった。それらは今でも芸人たちが使っている言葉をひっくり返しにしているものや、音符を数字のように使った「ツエー万ゲー千」の類いである。

屡々聞こえてくる例を挙げてみれば「野菜がゴロッと入ったカレー」は所謂「食レポ」などで使われるが、私には下卑ているとしか聞こえない。「~さんが完食」というのは珍しくも漢字が使われているが「全部食べました」ではいけないのかと思ってしまう。「マジっすか」、「ガチで」等は芸人が多用している。日本中の誰でもが解ると思って使っているのか、それとも下品でイヤだと思う当方が老化しただけか。

スポーツ関連で気に入らないのが、身長が高いか跳躍力に優れている選手の動きを形容して「高さがあります」との表現だ。「身長が高いことを活かして」とか「素晴らしい跳躍力を見せた」と具体的に伝えるのがアナウンサーか説明者(解説者とも言うが)の使命ではないのか。ヴァレーボールやサッカーで何人かの選手が並んで防御の態勢を取ることを何人と言わずに「~枚」とアナウンサーが言うのも気に入らない。人間を紙のように言うな。あれはその業界の専門語で、それを彼らがしたり顔で真似る必要などないと思うが。

政治の面では以前にも取り上げて批判したが、英語の”bilateral”(=2国間の)という意味の言葉を政治家どもが「バイで」などと短縮して言うのは未だ仕方がないとしても、メデイアまでが図に乗って「バイ」と言うことはないと思う。二国間交渉であれば正しくそう言えば良いことだ。これなどは政界の俗語か隠語で”slang”であるから、公共の電波を使って言って欲しくない。「知ったかぶりするな」と言いたくなる。事の序でに言っておくが、「一方だけ」か「単独の」は”unilateral”と言う。

こういう種類の俗語か隠語に属する言葉は他にも沢山使われていると思うが、今回は思いついただけを取り上げて論じた。テレビ局も芸人も政治家もこういう種類の言葉を広める努力をして貰う必要は余りないと思う。