新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月26日 その2 「秘書」って何

2017-06-26 16:31:38 | コラム
秘書に仕えて22年:

私はリタイヤーするまでの12年間をA子さんという極めて有能な秘書さんに仕えて過ごした。おかしな言い方だと思われるだろうが、この度の豊田真由子議員が政策秘書の方を怒鳴りつけている録音を聞かされて、国会議員の方々における「秘書」の概念とアメリカの会社組織におけるそれとは随分違うようだなと、あらためて痛感した。あれでは議員と秘書の間柄は殿様と足軽のようではないかと聞こえた。

あの豊田議員の例が特殊だったと思いたいが、河村建夫元官房長官が「男性議員にもあのような者がいる」と言われて直ぐに撤回されたところを見ると、豊田議員の場合は異常に特殊な例でもないのかも知れないと、一瞬思ってしまった。そこで、39歳にしてアメリカの会社に転じて、初めて秘書さんと仕事をするようになったことを思い出してみよう。

Oxfordにはsecretaryとは”A person who works in an office, working for another person, dealing with letters and telephone calls, typing, keeping records, arranging meetings with people, etc.”とある。Typingが入っている辺りは何となく時代遅れの感もあるが、大凡こんな所だろうと思わせる。しかし、アメリカ見聞したところでも実体験からも、主従関係については”working for”とあるから、上下関係ないしは雇用関係は示されていると思う。

英語では、秘書さんが付いているマネージャーなり副社長なりは「ボス」(=boss)とは呼ぶが、主従関係どころか対等であると言っても誤りではないほど、我が国のような年功や上下関係がないと思う。1972年8月に最初に秘書さんと出会って「さて、どうやって使うものか」と悩んだものだった。だが、秘書さんは使うものではないと解るまではそれほど時間はかからなかった。問題は「如何に使い、如何に使われるのか」が重要なのだった。

1972年8月に初めてM社の本社ビルに入って、最初に出会ったマネージャーは秘書さんにコーヒーを頼みに行くのに”Will you please?”と、言うなれば丁寧語で依頼したのだった。何故そういう言葉遣いになるのか良く訳が解らなかった。W社における我が事業部の部長さんも「済みませんがコピーを取って下さい」というような表現で依頼していた。そういう習慣という文化だと徐々に解っていった。

いきなり結論めいたことを言えば「ボスと秘書」の関係は言わばパートナーであって、お互いの立場を尊重し合って仕事をしていくべきものなのである。私はA子さんを信用し信頼してOxfordの定義にあったような事柄は全て任せ、私はマネージャーとしての外の仕事と、その判断業務を恙なく進行させることに専念した。言うなれば「内勤」の業務は信頼して全面的に任せた、というか任せて間違いないという信頼感で依存した。

特に、悪しきカタカナ語でいう「アポ」は全面的にお任せした。と言うよりは、私は任せた以上口出ししないようにした。時には私が直接取引先と話し合って決めることもあったが、その際は彼女の了解を取るという取り決めにしてあった。換言すれば、私の責任範囲内にないことを勝手に進めるのだから、担当者の了解を得るのは当然だろうと言うこと。即ち、責任範囲を明確に取り決めておいたのである。

私がリタイヤーする時に何人かの秘書さんに「貴方はこれから先の人生でA子さん無しでやっていけないでしょう」と揶揄されたほど、彼女に任せきっていたのだったし、それで事業部は上手くいっていたのだった。こういう間柄が理想的だろう。これは決して自慢話ではない。秘書さんに人を得ればこういう結果が出ると言いたいのだ。

こういう形でというか、女性と1対1で仕事するか、した経験がない方には簡単にピンとこないだろうが、このようなボスの至らざる点を補完して貰うような仕事をして貰った時の女性の仕事の的確さと正確さと記憶力が優れている点は、経験してみて初めて解ることかも知れない。A子さんとの共同での仕事が5~6年を過ぎた辺りからは、使われているのが自分で、ボスは彼女であると思うようになってきた。

W社で一人のマネージャーが転職していった後に外部から転じてきた人が、前任者のやり手の秘書さんをそのまま引き継いで仕事をしていた。彼がある会合で「(秘書の)X子さんの下でマネージャーをやらせて頂いているPです」と自己紹介して大受けだったことがあった。言い得て妙だった。英語にすれば”Well put!”辺りだ。それほど、秘書さんの権限が大きいと言っているのと同じだった。

そんな関係で仕事をしているところで、秘書さんの身体的な欠陥をあからさまに罵るなどという技は、我々の秘書さん対ボスの間柄ではあり得ないだろう。誤解なきよう申し上げておくが、私は豊田議員の秘書の扱いがどうのと言いたいのではない。日米間の会社組織の中での「秘書」という文化の違いを述べて、ご参考にしたかっただけだ。豊田議員の振る舞いについての論評はマスコミにお任せしようと思っている。


カタカナ語排斥論者のつぶやき

2017-06-26 08:24:25 | コラム
25日はまたもテレビ観戦の一日だった:

受けないだろうと承知の上で言ってみよう。順序は前後するが、日が暮れてから大阪の長居競技場で開催された陸上日本選手権の最終日を見てしまった。ここでもサニブラウン・アブデル・ハキーム君が快走して200 mでも優勝してしまった。このガーナ人の父親を持つと聞く短距離走者の名字が「サニブラウン」だと、先ほどWikipediaに教えて貰った。今後とも我が国にはこういう血筋の優れた運動選手が出てくることだろうと思わせてくれた。

余談だが、ラグビーの全日本代表に「リーチ・マイケル」という元ニュージーランド人がいる。かれは帰化する前までは「マイケル・リーチ」だった。帰化した後は名字の「リーチ」を日本式に「ラストネーム・ファースト」で表示されるようになった。

同時に思ったことは、このようなカタカナだけの氏名が戸籍に登録できるらしいという点である。さらに何も昨夜の陸上だけではないが、近頃多くのスポーツの中継を見ていると、そこに登場する選手たちの氏名にはある傾向が明らかに見えるのだ。それは男子の場合に「~平」、「~太」、「~介か助」、「~翔」か「翔~」か単独で「翔」が圧倒的に多いのだ。勿論、判読不可能なキラキラ系もいる。その家系の伝統の一字を用いたのだろうと思わせてくれる名前は極めて少ない。時代は好ましくない方に変わったと思うのは、私の老化現象か。

女子の場合は勿論キラキラと輝く名前ばかりで「よくまー、そこまで語呂合わせをしたものだ」と感心させてくれる名前の花盛りだ。私には「よくもそこまで漢字を軽んじたものだ」と感心させてくれる素晴らしいものが圧倒的だ。だが、私には「何故そこまで外国人の名前を模する必要があるのか」と腹立たしいのだ。「サラ」だの「リサ」だの「アンナ」なの「ケイト」だのと、国籍不明者が多い。そんなに外国人に憧れたいのか。

名前の他で「困ったことだ」と嘆かせてくれるものに、日本語を無視したカタカナ語の濫用がある。最早「~選手の初登場」はすべて「デビュー」にされてしまった。言うまでもないが”debut”はフランス語で、英語の場合でも「デビュー」でも良いが、アメリカ式では「デイビュー」となり、アクセントは「ビュー」の方におかれているので要注意だ。素直に「初登場」と何故言わないのか。「メジャーデビュー」などと言う訳の分からぬ言葉まで創ったのは何処のどいつだ。

陸上日本選手権ではアナウンサーも選手たちも「自己ベスト」を乱発した。何故素直に「自己最高記録」と言わないのか。「シーズンベスト」などと言う日本語の発想の儘の造語まで聞こえた。NHKは何を考えているのか。国語を乱すつもりかと言いたい。言うまでもあるが、bestは形容詞の最上級であるのだが、カタカナ語の場合は名詞の如くに使われている。蛇足だが、bestの場合にはその前に必ず”the”を付けるのをお忘れなきよう。

ラグビーにも造語が多いが、英語の基本である連結音(liaison)を忘れたか知らない言葉が使われている。「そこまで言うことはないじゃないか」との批判されたことがあるが、「ターンオーバー」=”turnover”は正式には「ターンノウヴァー」に近い発音だ。カタカナ語排斥論者の私には「ターンオーバー」は聞き辛いのだ。でも、日本語として戸籍を得ているから仕方がないと思う。

(相手の)のパスをカットした」も誤りだと思う。アナウンサーがそう言った場合は全て「相手のパスを横取りした」のである。”cut”には「奪い取る」という意味はないが、「短縮する」か「切断する」はある。ここでは難しい言葉の”interception”を使うべきだと思う。なお、これには「インターセプト」というカタカナ語が準備されているが、これは動詞形。実態は名詞の「インターセプション」が正しいと思う。

「難しいことばかり言うなよ」と言われそうだが、正しい英語を覚えて国際人になろうと思えば、これくらいは心得ておくべきではないか。なお、フットボールでも使われている「インターフェア」というのがある。これも”interfere”は動詞形であり、”interference”が正解だろうと思う。我が国では単語の知識が豊富であるが如き方が多いが、名詞と動詞の混同と言うか誤用が多いのが難点だ。

昨夜だったか「足が凄く速いニューヒーローが現れた」と言いたくて「スピードスター」と誰かが言った気がした。”speedster”は「スピード狂」のことである、念の為。「ニューヒーロー」だっておかしい。「新しい英雄が現れた」とでも言えば局内で叱られるのだろうか。ここは日本であることを忘れないこと。


6月25日 その2 これぞConspiracyだ

2017-06-25 16:21:10 | コラム
近頃気になること:

先ずは第三者委員会と有識者会議の乱発を挙げたい:
経営者、政治家、議員、教育委員会等々の方々は、自らの意思決定によほど自信がないと見えて、何かと言えば直接その事案に関係していないような外部の人々を集めては調査・研究・原因の究明・最善の解決案の審議を依頼するようだ。時には、外部の人の目や判断力が必要な場合があるとは思うが、私には責任回避としか見えない。「卑怯ですね」「卑怯だろう」と言っている何かのCMを想起させられる。教育委員会が常に「いじめなし」という結論を出させるのも、この種類の委員会だ。典型的な責任回避に見える。

パワーハラスメント:
次に不思議に思ったのが、豊田真由子議員の罵詈雑言で大きく取り上げられた「パワーハラスメント」(=パワハラ)なるカタカナ語。お気づきの向きもあると希望的に考えているが、こんな英語はない。マスメディアというかテレビに登場する連中は「力」という意味で「パワー」を使いたがるが、少なくともそれは英語の世界では日常的な用法ではないと思うし、不肖私はそういう意味で使った記憶はない。カタカナ語排斥論者としては、これを採り上げておきたい。

パワーハラスメントは広辞苑には和製語として「職場で上司がその地位や権威を利用して部下に行ういじめや嫌がらせ」とある。即ち、「パワー」を「上司」乃至は「権威」のつもりで使っているようだが、英語にはそういう意味はない。これも、我が国の学校教育における英語の輝かしくない成果で単語の知識だけを大切に教え込んだ為に生じたことだと思っている。

“power”をジーニアス英和で見ると「・・・に対する権力、勢力、(法的)権限、支配力(to do、政権)」が出てくる。しかも通常は複数形ともある。一寸違和感がある。Oxfordには先ず”CONTROL”が出てきており、the ability to control people or thingsとある。次はABILITYでthe ability or opportunity to do ~とある。この辺で十分だろうが、パワハラとは違うようだ。

考えてみれば、上司がハラスメントをするのであれば、その意味の単語には「上司」を表す”superior”があるが、難しすぎて「パワハラ」の発案者には思いつかなかったのだろう。日常的な言葉では”boss”と言えば上司を表しているし、通常はこれを使ってきた。であれば”boss harassment”の方が無理がないと思う。即ち、「ボスハラ」だ。欲を言えば、bossでもsuperiorでも所有格にしておきたいのだ。

加計問題:
最後は前川ぜん文科省事務次官。私にはこの方が色々と安倍内閣に難癖を付けて「行政を歪めた」などと言って、反安倍のメディアと野党を喜ばせているのを見て「この方は一体何がやりたいのか、またはやり遂げたいのか」と単純に疑問に感じていた。

しかし、先頃のプレスセンターでの記者会見で彼が「安倍内閣を打倒する気はないが」と言ったのを聞いて、漸くこの人物の正体が見えたと思った。彼がやって来たことは、何処の誰と組んでいるのか知る由もないが、安倍内閣打倒の試み以外の何物でもないと思うのだ。畏友尾形氏は「その辺りは今月発行の雑誌”HANADA”が明らかにしている」と教えて下さった。

先頃の籠池氏の安倍総理夫妻への100万円返還の上京の大芝居と言い、何と言い、安倍総理には「あれやこれやと、ご苦労のタネが多いものだ」と思って眺めている。これら一連の騒動は野党とマスコミ連合の安倍内閣を貶める狙いの”conspiracy”だと思うと解りやすい気がする。


24日のスポーツ

2017-06-25 08:11:54 | コラム
桐生祥秀君が4位だった

私は何の根拠も理由もなく桐生君は9秒台を出せないと思っている。だが、密かにその閃きが裏切られることを希望的に観測して、夜の8時半まで待っていた。24日は折角の好天だったが、前日の動きすぎを反省して何処に出ていかなかった。不思議なもので、ジムでは20分のストレッチ、20~30分のウオーキング、時には10~15分程度のエアロバイクという運動(workoutで良いと思うが)に加えて15分のマッサージチェアには体が慣れきっているのか何の疲れも出ない。

思うに、高校までの全国制覇を本気で狙っていた頃の練習は確かに厳しかっただろうが、体がその決まったことをやっている練習に慣れたのか、兎に角疲れは感じたが、来る日も来る日も何と言うことなく過ごしていた。筋肉痛を起こしたなどという記憶もないが。私などは良く言われる「練習名人」だったのかも知れないと思う時もある。

ラグビー:
その間に午後2時半からは日本代表対アイルランド代表(擬き?)のラグビーの試合も観戦した。17日に既に22対50と負けていたのを後半だけ見たので、勝敗の行方よりも2回目はどうかなという程度の関心しかなかった。結果は「なるほど、世界の第3位だけのことがあり、言わば一軍半でも強いのだ」と思わせてくれただけだった。

私が見た限りでは、あの顔触れでは目を奪うような技術がある訳でもなく、ただひたすら攻め続けて相手の一寸した失策を利用して得点してしまうだけの強さがあるというのが印象的だった。その辺りが「強いか、弱いか」の分かれ目だっただろう。言葉を換えれば「我が代表はメンバーを入れ替えただけ今回は点差を狭めた善戦だった」と言って良いかと思う。

私は以前から大畑大介は解説者としては全く不適任だと指摘してきた。昨日も日テレは私の忠告も聞かずに(?)大畑を使った。彼は日本代表の応援団に過ぎず、やれ「良いタックルをした」だの「ここをこうすれば良い」といったようなことばかり言っているので、ラグビー経験者ではない私にはアイルランド代表の何処が優れ、我が代表の何処に至らざる点があるのかなどはサパッパリ解らなかった。

大畑もアナウンサーも好い加減に気付いて欲しいことは「良い守りをする」とか「凄いタックルをして止めた」ことなどは「我が代表が押され続けていた」ことを示しているだけだを言っているのだと。サッカーとは違って、引いて守ってカウンターの機会を待っている戦法はラグビーにはないと思うよ。アナウンサーは「ラグビーは陣取りゲーム」と言っていたではないか。

100 m決勝:
さて、桐生君である。3人しか世界陸上に行かれないのに、山縣、多田、サニブラウン、ケンブリッジ飛鳥と強敵ばかりだった。しかも、何の因果か雨期を選んで開催した試合であれば、あの雨降りだった。雨は関係ないとしても、3位までに2人も父親が外国人である者が入り、真ん中に突如として現れた関学の学生が入ってしまった。陸連はこの一本勝負で代表を決めるのだろうが、桐生君の実力は未だしという残酷な結果だった。今後に期待したい。

プロ野球:
なお、その間に読売が無残に中日に負けるのも部分的に見ていた。先取点をされると20連敗とアナウンサーに教えられた。その1点を陽岱鋼の粗雑な守備で献上してしまったので、それもそうかと思って見放した。陽岱鋼は7回だったかにも粗雑な返球をしていた。私が高橋由伸だったならば、あの粗雑な後逸をした時点で引っ込めていた。他にもあの程度の打者ならベンチにいるではないか。甘い監督だ。何を遠慮しているのだ。

女子のゴルフ:
多くは語らないが、イボミが不調を脱しつつあるのは”bad news”だ。私は感性だけの愛国者として彼女のファンクラブに入っている我が同胞たちの性根を非難したい。本日の所はこの点を最も強調したかったのだが。昨日まででは、幸いにも1位も2位も日本の女性だった。そのまま行って欲しいものだ。

テレビでのスポーツ中継の見過ぎは矢張り目には良くないようで、PCには余り時間を割けなかった。そして10時過ぎには早寝にしてしまった。


6月24日 その2 労働分配率の低下の問題

2017-06-24 17:17:21 | コラム
経営者の質の劣化か?

畏友尾形美明氏が日経新聞から下記のように引用されて

<今回の景気拡大は55カ月目を迎える。企業の経常利益は史上最高を更新し、産業界は好況を享受しているが、雇用者報酬はほぼ横ばいで、民の暮らしは豊かになっていない。労働分配率は過去20年間、6%前後で推移して来たが、今回の景気回復局面で急低下し、今年1~3月時点で58%と26年ぶりの低水準に落ち込んでいる。尚、労働分配率の低下は先進国共通の現象だ。熟練工の職場が激減した一方、増えた仕事の多くは女性やアルバイトで十分な仕事でしょう。>

のように労働分配率の低下を論じておられた。これに対しての私の考え方は、

”上記にに加えるに、所謂非正規雇用が増えたこともあると思います。私はリタイヤー後に多くの業種で当時の団塊の世代よりも若い世代と話をする機会が常にありました。そこで彼らが激しく非難したのが「団塊の世代」でした。「こういう何もしない自己保身だけの連中が我が社の経営の中枢を担う時代が来れば、我が社は衰退するか息絶えるかの何れかだ」と言って。

こういうことを述べれば、既に引退されたあの世代の方々から反発が来るでしょうが、私は当時の若手の意見を代弁しているに過ぎません、念の為。

私はあの年代が非正規雇用を増やすような政策を採ったことことが、現在の労働事情を招いたと思っております。長期的な展望に欠けた姑息な手段ではなかったかと思うのです。私と同学年の世代で某大手製紙会社の社長だった切れ者の方は引退後に「経営者の劣化だ」と鋭い批判をされたそうです。。

私はその世代の経営者かまたは上司を頂く時代に育った現代の幹部たちが、一向に非正規社員を減らそうとしないのは、彼らはそのような手法を上司から学んだからかと疑っております。それでも「内部留保」は増えたと報じられています。何のことはない、従業員の犠牲において成り立っているのかも知れないとすら疑いたくなります。


であった。