新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

紙媒体の衰退に思う

2018-06-28 10:11:00 | コラム
電車の中で新聞を読んでいる者がいない:

昨日もジムで何事にも精通しておられる論客と語り合った際に指摘されたのだが「最早、電車の中で新聞や本を読んでいる者を見かけなくなっただけではなく、網棚に読み終えた新聞や雑誌が放置されていることもなくなった」という点だった。私自身はラッシュアワーの電車に乗る機会もなくなったのだが、確かにスマートフォンをいじり続ける者だ大多数いても、紙に印刷された物に没頭している者は皆無と言って誤りでは無くなっている。

これ即ち、広告の面で考えれば紙(印刷)媒体の衰退に他ならないのだ。読書や読新聞がスマートフォンに置き換えられたとも思えないが、私が21世紀最悪の開発商品と罵ったこともあったスマートフォンは、既に「それなくしては生活が成り立たない」と言い出しそうな世代を完全に抑えてしまった。何れ我が国にも「何とかpay」というスマートフォンを使う決済の手段が急速に普及していくと予感している。

この紙媒体の衰退であるが、アメリカでは我がW社はその将来を見切ったのが2005年のことだった。アメリカにおける上質紙(我が国で一般的にいう模造紙のことで、コピー用紙などに使われている白い紙で、主たる用途は印刷である)のアメリカ即世界最大手のメーカーの1社だったのだが、今から13年前にその事業部を分離独立(spin-off)させていたのだった。この時点で、そこまでのことに踏み切るのかと驚かされた政策だった。

世界最大の製紙会社であるInternational Paperはそれに遅れること2年の2007年に勿論アメリカ最大級のにコート紙(表面がコーとされた印刷用紙)事業部を売却していた。この2社に続いては、コート紙の技術のライセンスを我が国に与えていたMead Corp.もこれに追随した。要するに、アメリカの大手メーカーはに21世紀初頭で印刷用紙の将来性に見切りを付けていたのだった。

事態はこれだけに止まらず、既に繰り返し指摘したように、新聞用紙の需要も急速に減少していた。即ち、広告媒体としての新聞の地位が低下していたことの他ならない。アメリカにおける需要は10年間に60%も減少し、新聞用紙の大手メーカー数社はその間に我が国の民事再生法に相当するChapter 11の保護を申請して崩壊していった、因みに、我が国おける新聞用紙の需要の減少は12年間に29%と、未だお手柔らな状態である。

ところが、今月に入って我が国の2大メーカーの1社である日本製紙は「第6次中期経営計画」を発表して、10基のマシンの停止を発表したのだった。その内訳を見れば、塗工と非塗工を含めて印刷用紙のマシンが6基、新聞用紙マシンが2基が入っている。ここで私が注目したのは「同社は我が国最大の発行部数を誇る新聞社に対する主力の用紙供給会社である」という点だった。ここまでで、私が何を言いたいかはお解り願えると思う。実は、同社は昨年秋まででアメリカに持っていたW社と合弁の新聞用紙会社を売却してあった。

上記の流れを見れば、通勤の車内で新聞を読む者が減少しただけではなく、我が国の若い世代は新聞を購読しないという時代の変化が如実に表れていると思っている。私はアメリカの印刷用紙と新聞用紙のメーカーが事業に見切りを付けた時点で「このような世の中の変化というか、インターネットに押されていく現象は何れは太平洋を渡って我が国でも押し寄せてくる」と予測していた。いや、「大手メーカーは覚悟しておくべきだ」と言いたかったのだった。そして、日本製紙はその対策を講じたのだと見ている。

このような時代の変化は我が国でも出版界の苦境にも現れているし、広告でも年間6兆円台は維持されているが、成長を続けている分野はインターネットのみと言っても過言ではないと思う。このように時代の変化は大きく且つ急速なのである。紙パルプ業界を離れてみれば、電気自動車が急速に普及していくことは間違いないようで、既に将来は在来型の車の製造を禁止する流れまででている。その点では我が国もアメリカも後手を踏んでいるかの如き感がある。

トヨタを始めとする我が国メーカーと、苦境から脱出できずにいるデトロイトが今後どのように対処していくかは重大な課題になって行くだろう。中国のBYDのように後発の新興勢力が有利な立場に立てるというように、新興勢力が紙パルプ業界でも急速に市場を拡張しつつある。多くの産業の分野での将来の予測は益々難しくなる時代の到来だと、私は考えている。でも、デイジタル・デイバイド世代を生き抜いてきた私は、今更スマートフォンに投資をする意欲はない。


6月27日 その2 また今日もカタカナ語論

2018-06-27 08:04:33 | コラム
ハプニングって何のこと:

実は、家内に「ハプニングって何のこと。テレビで始終使っているけれど。先ほども日本のW杯代表が負けていないのはハプニングだと言っていたが」と訊かれたのだった。そう言われて考えて見れば、この言葉はこれまでに批判していなかった。テレビというかマスコミは「(予期せぬ)出来事か、一寸した事件」のような意味で使っているとは考えていた。正直なところ、在職中には使った記憶もなく、深く考えずに見逃していたと思う。

だがしかし、なのである。この単語はジーニアス英和でもOxfordでも「通常は複数形で使う」となっている。この辺りが日本語と英語の相違点の中で最も厄介なところだだと認識している。即ち、我が国語には「複数形」の概念が一般的ではないので、英語とやらを勉強する時にどうしても等閑になってしまうのだ。例えば「お目出度う」は屡々「コングラチュレーション」として使われてしまっている。だが、英語では Congratulations! のように複数形で言う。同様に「弔意」を表す condolence も複数形にするのだ。

ハプニングも複数形で使うとあるように、Oxfordの例文は There have been strange happenings lately. とあって、単数形ではないものが出ていた。だが、カタカナ語製造業者は躊躇うことなく「ハプニング」と単数形にして「出来事か事件」を表すようにしてしまった。因みに、ジーニアス英和の例文は the happenings of the day で「その日の出来事」という訳まで付けてあった。

最早、何か批判めいたことを言う気力もないが、我が国の英語教育ではこういう微妙な点をキチンと教えておけば、こういうカタカナ語は生まれてこなかったのではないかと考えている。それよりも何によりも「何故、カタカナ語ではなく、素直に出来事という言葉を使わないのか」とテレビ局に訊いてみたい。


サッカーの報道に物申す

2018-06-27 07:35:10 | コラム
点を取る者が偉いのではない:

W杯サッカーも佳境に入り、各テレビ局はサッカーまたサッカーで忙しいようだ。サッカー経験者としては大いに結構だとは思うが、どうしても気に入らない偏向報道振りがある。それは「点を取ったか乃至はゴールを決めた者が偉いのだ」というような報道の仕方で、ストライカーか点を取るポジションに配置された者が偉いかのように過剰に賞賛することだ。かかる姿勢は偏見とまでは言わないが、組み立て役の者に対してはやや不公平だと思う。

現時点では何処で誰が選んだか知らないが、柴崎岳が2試合の実績で優れた選手として選ばれたようだ。その根拠が「セネガル戦で1点目を取った時の左前方を走っていた長友に出したパスが良かったことが示すように、組み立てが優れている点」にあったようだ。テレビ的にはあの後にシュートを決めた乾が英雄扱いだったが、あのパスは素晴らしかったし、それを脚を伸ばしてインステップでトラッピングした長友の技術も素晴らしかった。即ち、柴崎と長友が組み立てた得点なのである。

私が主張したことは「中盤だろうと何処だろうと、ボールを持った瞬間に相手デイフェンスの何処か空いているか、または味方の誰が何処でフリーになっているかまたは走っているかを見極めて、如何なる種類のパスを蹴れば得点に直結するか、または絶好の機会になるかの役目を担当する者の存在を忘れられては困る」なのである。例えば、大迫のような者は最初から「決めること」が役目であるのだから、決めたことを特に賞賛する必要などないとすら考えている。

サッカーでそういうポジションを経験された方はお解りだと思うが、自分が判断して出したパスが上手く行って、ストライカーとして期待されている者が決めてくれた時の快感は何物にも代えがたいのである。その局面で如何なる種類のキックでどの辺りを目指すかを瞬時に決めねばならぬ難しさはあるが、その辺りにゲームを組み立てる醍醐味があると思っている。と言うのも、かく申す私は40歳台になってから四十雀のクラブに入ってからは、その組み立て役に専念していたのだから言うのだ。

勿論、サッカーでは相手のデイフェンスをかわして豪快にシュートを蹴り込んで得点するのも快感である。これも経験して見ないことには味わえない楽しみである。会社組織でもそうだが、何かを成し遂げる為には構成員全員に割り当てられた任務がある。柴崎はパスを出して点を取る組み立て役であり、大迫はシュートを決める役目を担当しているという具合だ。それぞれの役割を果たして結果が出るというの世界だ。

放送するか報道する側は、上記のような視点からサッカーを見た上で偏ることなく報道して貰いたいと思っている。その意味では柴崎が選ばれたことは素晴らしいと評価したい。念の為に申し添えておけば、我がご贔屓の香川真司も組み立て役だと認識しているのだが。


カタカナ語排斥論者の嘆き

2018-06-26 15:04:53 | コラム
カタカナ語を排斥する:

畏メル友RS氏は当方の「パワハラ」を批判したことに賛同されて、

<私には「ぱわはら」も「せくはら」も米国から持ち込まれた危険外来種として駆除すべき対象と考えています。こんな考え方自体が日本にそぐわないものですから。>

との意見を述べて下さった。有り難いことと感謝している。

私からは下記のような新たなカタカナ語批判の意見を送った次第である。ご一読賜りたい。

>引用開始
今朝ほどもテレ朝でパシフィックの元盗塁王だった片岡治大(何と読むかご承知でしょうか)がベッキーとやらと交際がどうのと報道した際に、彼が「スピードスター」(英語の綴りは speedsterである)、即ち「俊足のスター」であるとしていた。私は豊富な?カタカナ語の知識を活かして「足が速い選手」と言いたかったのだろうと察してやった。

だが、悲しいかな私が知る限りの speedster にはそのような意味はないので、直ちにテレ朝が speedstar か speed star だとでも考えたのではないかと閃いた。勿論、かかる単語は英語にはない。Oxfordにはspeedsterとは a person who drives a vehicle very fast とあり、次に a machine or vehicle that works well at high speed となっている。「スピード狂」として使われている言葉だ。

ジーニアス英和にも同じような意味しか載っていないが、Webster’s にはone that speeds or is capable of great speedとある。これでも盗塁王が足が速い人だったと形容するのはおかしいと思う。少し長いこと引っ張ったが、言いたいことは「テレビ局の連中は原稿を書く時に辞書くらいは見て確認しないのか」という点である。こうしておかしなカタカナ語が造成されていくらしい。

ここまでの結びとしては、矢張り「世の英語教師たちよ、恥を知れ。貴方たちが教えた英語擬きからはこのような珍妙な造語しか生まれ出てこないのだ。何か言いたいことがあったら言って見ろ」辺りになるかと思う。
<引用終わる

別な言い方をすれば、カタカナ語の製造業者は素晴らしい造語の才能をお持ちだと思うのだ。だが、遺憾ながら、英語の辞書を引く知恵も知識もないらしい。だが、単語重視の英語教育が如何に無用の長物かを悲しいまでに表していると言って締めて終わる


6月25日 その3 カタカナ語の批判

2018-06-25 19:56:12 | コラム
「パワーハラスメント」というカタカナ語を考える:

何年前だったか不思議に思ったのが、豊田真由子議員の罵詈雑言騒動の際に「パワーハラスメント」(=パワハラ)なるカタカナ語を誰でもが理解しているかの如くに使われたことだった。お気付きの向きもあると希望的に考えているが、こんな言葉は本当の英語にはない。マスメディアというかテレビに登場する連中は「力」という意味で「パワー」を使いたがるが、少なくともそれは英語の世界では日常的な用法ではないと思うし、不肖私はそういう意味で使った記憶すらない。カタカナ語排斥論者としては、こうのような誤った使い方を採り上げて非難しておきたい。

パワーハラスメントは広辞苑には和製語として「職場で上司がその地位や権威を利用して部下に行ういじめや嫌がらせ」とある。即ち、「パワー」を「上司」乃至は「権威」のつもりで使っているようだが、英語の powerにはそういう意味はない。これも、我が国の学校教育における英語の輝かしくない成果で、単語の知識だけを大切に教え込んだ為に生じたおかしなことだと思っている。言葉はバラバラに覚えるのではなく「流れの中でその意味を把握して記憶せよ」と繰り返して指摘して来た。

“power”をジーニアス英和で見ると「・・・に対する権力、勢力、(法的)権限、支配力(to do、政権)」が出てくる。しかも通常は複数形ともある。故に「パワハラ」のようにカタカナ語化するのには一寸違和感がある。Oxfordには先ず”CONTROL”が出てきており、the ability to control people or thingsとある。次はABILITYでthe ability or opportunity to do ~とある。この辺で十分だろうが、パワハラとは意味が違うようだ。

考えてみれば、上司がハラスメントをするのであれば、その意味の単語には「上司」を表す”superior”があるが、発音も意味も難しすぎて「パワハラ」の発案者には思いつかなかったのだろう。superiorを無理矢理にカタカナ表記してみれば「スピアリアー」辺りになるかも知れない。日常的な言葉では”boss”と言えば上司を表しているし、通常はこれを使ってきた。bossyなんていう単語もある。であれば、”boss harassment”の方が無理がないと思う。即ち、「ボスハラ」だ。欲を言えば、bossでもsuperiorでも所有格にしておきたい気もするのだが、多少違和感も残る。

何れにせよ、何でもかんでもカタカナ語化してしまう何処かの誰かの才能には敬意を表する気はないが、脅威は感じている。兎に角、こういう言葉が次から次へと出てくるのは、私は英語教育の至らなさの悲しい表れであると断じたい。英語教育に携わっておられる方は如何お考えになるだろうか。