何故外来語(英語擬き)を使いたがるのか:
1992年11月のことだった。生涯でたった一度訪れたフランスはパリで某船社の駐在員とその秘書(当然かも知れないがフランスの女性)と昼食会で語り合ったことがあった。念の為に申し添えておけば「フランス人は英語を話したがらない」と良く言われるがそれは嘘であって、彼女も勿論のこと何処に行っても先ず英語で不自由することなどなかった。私はあの俗説は、ただ単にアメリカ嫌いのフランス人がアメリカ人を相手にした時に英語を使わないということかと解釈している。
全くの余談だが、この会社の海外駐在員の方はこのほかにシアトルに駐在された方も、後に常務に昇進されていた。それだけ海外に出る方々はなるほど矢張り優秀だったのだと、後になって解ったのだった。これも余談のうちだが、「アンケート」も誤用されているが、これはフランス語だし、「ビュッフェ」(=buffet)だってフランス語で、英語の発音は「バフェイ」で良いだろう。
その際に私はその秘書さんに「フランスでは国が外来語の使用を禁じたと聞いたが、貴女はどうお考えか」と尋ねてみた。彼女の意見は明解で「これは明らかに政府の失策。フランス語は語彙が不足している言語で(記憶が正確かどうかは保証できないが)50~60万語しかない。それと比較すれば英語にはその倍以上あるので、フランス語の言葉不足を補う為には英語の単語の使用で補っていくのは当然である」と答えてくれた。正解か否かは別として、実に立派な解りやすい見解だと思って感心した。
ところで日本語である。ここには漢字、平仮名、片仮名とがあって、それらを上手く組み合わせていけば語彙が不足することなどあり得ず、何も無理をして英語の単語をカタカナ語化してまで組み込む必要などないのではと、私は考えている。しかも、そのカタカナ語なる代物は我が国の輝かしき英語教育の負の効果で「元の英語にはそんな使い方はないぜ」と嘆きたくなるような誤用と誤解ばかりなのであるから堪らない。
私は1990年辺りから発表し続けてきたのだが、カタカナ語を交えて語る連中は「自らの英語の素養のほどを示してというか、ひけらかして見せている情けない根性の似非インテリか、そもそも自らの無教養さを英語擬きを使ってみせることで誤魔化そうとする精神的な下層階級に属する者たちであろう」とまで決めつけたい思いに囚われていた。そういう根拠は「正常に国語を学び、漢字を如何に巧みに組み合わせれば多種多様な表現が可能であることを知らないからこそ、カタカナ語の使用で誤魔化そうとするのだ」という辺りにある。
ところが、近年テレビが普及し、学校で十分に勉強してこなかった者たちがその働き場所をテレビに求め、またテレビ局がそういう手合いを経済的な費用で雇えると解ったので、無闇矢鱈に元は漫才師であるとか所謂「コンビ」崩れを重用する傾向が著しくなってきた。その連中が良く解らなかった英語の単語を部分的に覚えていたので、同じテレビに登場する所謂有識者や専門家どもが好んで使うカタカナ語を何の判断も出来ぬままに無批判に受け入れて真似て使うようになってしまったのだと、私は考えている。実に唾棄すべき現象であると苦々しく思っている。
そういうおかしなカタカナ語とは如何なる言葉を指すかはこれまでに繰り返して指摘してきたので、敢えてここで羅列するまでもないと思う。だが、私はこのままに放置すれば、本来の英語の意味と使い方から遊離した奇妙なカタカナ語が日本語を支配するようになってしまうだろうと、本気で心配している。また、テレビでそのような言葉の誤用をされれば、聞く方の視聴者には判断力がない方々が多いようで、「テレビ局が使っていたから」とばかりに真似てしまう傾向があるのも問題にすべきだ。
兎に角、最近のテレビ局というかアナウンサーでも芸人でもタレントでも良いが、聞くに堪えないほどのカタカナ語の羅列である。何でもかんでも「シンプルにやれば」であり、何事にも「チャレンジする」のであり、車でも列車でも故障すれば「トラブル」であり、ご近所と揉めれば、それも「トラブル」なのである。何度か指摘したが。私がアメリカ人の中で暮らして、そういう言葉もあると承知していた程度の「コラボレーション」は、日常的に使うだけで飽き足らず「コラボ」なんていう短縮形まで作ってしまう凄さだ。
レストランに行けば「本日は閉店」を平気で “CLOSE”という看板を出してしまう文法の知識の欠落を堂々と披瀝する始末だ。これと同類なのが「リニューアルオープン」であり、「グランドオープン」なのだ。もしも間違っていた御免だが、ここでは、閉店では CLOSED でなければ意味を為さないし、「開店」は OPENING とすべきだくらいは学校がチャンと教えていれば間違える訳がないと断言する。「リニューアル」も誤用だが、そこまで「何処がと言って聞かせる必要はない」と思う。
私はかかる誤用と濫用が蔓延る背景には学校での英語の教え方に問題があるのだと思うが、同時に国語の重要な部分である「漢字の教育」がなっていないのではないかと疑っている。漢字の使い方が良く解らないので、「それに似たような意味だと思う英語の単語を使ってみよう。その方が格好がよく見えるかも知れない」といったような浅ましい思い違いがあると思っている。またその背景には「沢山の単語を覚えよう」とさせる誤った英語の教え方もあると思う。
今日までに何度も指摘したが「単語は単なる部品にすぎない。その部品をバラバラに並べただけでは製品は出来ないと同様で、前後の脈絡を考えて単語を文章が構成できるように流れの中で覚えることが肝腎な点」なのである。これも何度も言ってきたことで、一度カタカナ語化されている単語の意味を英和と和英の両方の辞書で調べてみるか良い。カタカナ語製造業者(概ねマスコミだが)が如何に出鱈目かが解るはずだ。
これくらい「ドラスティック」にやってみることも必要だ。実は、長年アメリカ人の中で過ごしてきた私は、彼らが drastic という言葉を使うのを聞いた記憶もないし、自分でも使おうかと思ったこともない。強いて似ている言葉を挙げてみれば dramatic 辺りになるかと思う程度だ。「徹底的」という意味で思い浮かぶのは downright が出てきたが、completely なんていうの他の単語と組み合わせても使えそうだ。
1992年11月のことだった。生涯でたった一度訪れたフランスはパリで某船社の駐在員とその秘書(当然かも知れないがフランスの女性)と昼食会で語り合ったことがあった。念の為に申し添えておけば「フランス人は英語を話したがらない」と良く言われるがそれは嘘であって、彼女も勿論のこと何処に行っても先ず英語で不自由することなどなかった。私はあの俗説は、ただ単にアメリカ嫌いのフランス人がアメリカ人を相手にした時に英語を使わないということかと解釈している。
全くの余談だが、この会社の海外駐在員の方はこのほかにシアトルに駐在された方も、後に常務に昇進されていた。それだけ海外に出る方々はなるほど矢張り優秀だったのだと、後になって解ったのだった。これも余談のうちだが、「アンケート」も誤用されているが、これはフランス語だし、「ビュッフェ」(=buffet)だってフランス語で、英語の発音は「バフェイ」で良いだろう。
その際に私はその秘書さんに「フランスでは国が外来語の使用を禁じたと聞いたが、貴女はどうお考えか」と尋ねてみた。彼女の意見は明解で「これは明らかに政府の失策。フランス語は語彙が不足している言語で(記憶が正確かどうかは保証できないが)50~60万語しかない。それと比較すれば英語にはその倍以上あるので、フランス語の言葉不足を補う為には英語の単語の使用で補っていくのは当然である」と答えてくれた。正解か否かは別として、実に立派な解りやすい見解だと思って感心した。
ところで日本語である。ここには漢字、平仮名、片仮名とがあって、それらを上手く組み合わせていけば語彙が不足することなどあり得ず、何も無理をして英語の単語をカタカナ語化してまで組み込む必要などないのではと、私は考えている。しかも、そのカタカナ語なる代物は我が国の輝かしき英語教育の負の効果で「元の英語にはそんな使い方はないぜ」と嘆きたくなるような誤用と誤解ばかりなのであるから堪らない。
私は1990年辺りから発表し続けてきたのだが、カタカナ語を交えて語る連中は「自らの英語の素養のほどを示してというか、ひけらかして見せている情けない根性の似非インテリか、そもそも自らの無教養さを英語擬きを使ってみせることで誤魔化そうとする精神的な下層階級に属する者たちであろう」とまで決めつけたい思いに囚われていた。そういう根拠は「正常に国語を学び、漢字を如何に巧みに組み合わせれば多種多様な表現が可能であることを知らないからこそ、カタカナ語の使用で誤魔化そうとするのだ」という辺りにある。
ところが、近年テレビが普及し、学校で十分に勉強してこなかった者たちがその働き場所をテレビに求め、またテレビ局がそういう手合いを経済的な費用で雇えると解ったので、無闇矢鱈に元は漫才師であるとか所謂「コンビ」崩れを重用する傾向が著しくなってきた。その連中が良く解らなかった英語の単語を部分的に覚えていたので、同じテレビに登場する所謂有識者や専門家どもが好んで使うカタカナ語を何の判断も出来ぬままに無批判に受け入れて真似て使うようになってしまったのだと、私は考えている。実に唾棄すべき現象であると苦々しく思っている。
そういうおかしなカタカナ語とは如何なる言葉を指すかはこれまでに繰り返して指摘してきたので、敢えてここで羅列するまでもないと思う。だが、私はこのままに放置すれば、本来の英語の意味と使い方から遊離した奇妙なカタカナ語が日本語を支配するようになってしまうだろうと、本気で心配している。また、テレビでそのような言葉の誤用をされれば、聞く方の視聴者には判断力がない方々が多いようで、「テレビ局が使っていたから」とばかりに真似てしまう傾向があるのも問題にすべきだ。
兎に角、最近のテレビ局というかアナウンサーでも芸人でもタレントでも良いが、聞くに堪えないほどのカタカナ語の羅列である。何でもかんでも「シンプルにやれば」であり、何事にも「チャレンジする」のであり、車でも列車でも故障すれば「トラブル」であり、ご近所と揉めれば、それも「トラブル」なのである。何度か指摘したが。私がアメリカ人の中で暮らして、そういう言葉もあると承知していた程度の「コラボレーション」は、日常的に使うだけで飽き足らず「コラボ」なんていう短縮形まで作ってしまう凄さだ。
レストランに行けば「本日は閉店」を平気で “CLOSE”という看板を出してしまう文法の知識の欠落を堂々と披瀝する始末だ。これと同類なのが「リニューアルオープン」であり、「グランドオープン」なのだ。もしも間違っていた御免だが、ここでは、閉店では CLOSED でなければ意味を為さないし、「開店」は OPENING とすべきだくらいは学校がチャンと教えていれば間違える訳がないと断言する。「リニューアル」も誤用だが、そこまで「何処がと言って聞かせる必要はない」と思う。
私はかかる誤用と濫用が蔓延る背景には学校での英語の教え方に問題があるのだと思うが、同時に国語の重要な部分である「漢字の教育」がなっていないのではないかと疑っている。漢字の使い方が良く解らないので、「それに似たような意味だと思う英語の単語を使ってみよう。その方が格好がよく見えるかも知れない」といったような浅ましい思い違いがあると思っている。またその背景には「沢山の単語を覚えよう」とさせる誤った英語の教え方もあると思う。
今日までに何度も指摘したが「単語は単なる部品にすぎない。その部品をバラバラに並べただけでは製品は出来ないと同様で、前後の脈絡を考えて単語を文章が構成できるように流れの中で覚えることが肝腎な点」なのである。これも何度も言ってきたことで、一度カタカナ語化されている単語の意味を英和と和英の両方の辞書で調べてみるか良い。カタカナ語製造業者(概ねマスコミだが)が如何に出鱈目かが解るはずだ。
これくらい「ドラスティック」にやってみることも必要だ。実は、長年アメリカ人の中で過ごしてきた私は、彼らが drastic という言葉を使うのを聞いた記憶もないし、自分でも使おうかと思ったこともない。強いて似ている言葉を挙げてみれば dramatic 辺りになるかと思う程度だ。「徹底的」という意味で思い浮かぶのは downright が出てきたが、completely なんていうの他の単語と組み合わせても使えそうだ。