読めない名前:
昨日は男性の名前だけ採り上げたので、本日は公平を期して女性編を。
私は実は「キラキラネーム」なるものは女性の名前に限定されているのかと思っていた時期があった。それほど近頃(でもないのかも知れないが)の若い女性の名前にはどう足掻いても判読できないものが多いのだ。因みに、Wikipediaによればキラキラネームとは「一般常識から著しく外れているとされる珍しい名前(本名)に対する表現」とある。即ち、必ずしも女性の名前だけのことではないようだ。
では、女性の名前の例を挙げて見よと言われて直ちに思い浮かぶのは、女子プロゴルファーの「穴井詩(アナイ・ララ)」と「木戸愛(キド・メグミ)」に、女優の「武井咲(タケイ・エミ)」くらいのものだが、この辺りは未だお手柔らかな方である。その多くは昔懐かしき「子」を使わずに、徹頭徹尾当て字で3文字のものが圧倒的に多い。余程柔軟に頭を働かせないと判読は不可能である。
何十年も前のことだったか、精々「結佳」だの「絵里花」程度の名前が出始めた頃に、当時は未だ漫才師だったビートたけし(北野武である、念の為)が「何という名前を付けるのか。今はうら若い女子だから良いが、70~80歳にもなった頃に『結花ばーちゃん』だの『絵里花御婆様』では格好がつかないだろう」と皮肉ったことがあった。如何にもたけしらしい皮肉だった。だが、今となっては皆が同じようなキラキラネーム系ばかりとなっていては、皮肉にもならないし、何の毒もない一言になってしまった。
ここでは、私が感じる限りでは「愛」と「美」の字を使った名前が多いようだ。「愛」という字を「マナ」と読ませるのは「愛娘」などという熟語があるので、未だ何とか判読できるが「メグミ」と読ませるのには思いが至らなかった。面白いと思う現象は「茉里奈」の「茉」という字を使う名前が多いことで、不勉強な私にはこう言う字があるとは知らず、勉強になったものだった。
何れにせよ、私はこれらのような想像を逞しゅうしなければ読めないような名前や当て字を連発する名前は、現代の親御さんたちが新機軸の名前を付けて古き時代の因習を破ろうとする意図があるのだと善意で解釈するようにしてはいる。だが、それとても国語力の劣化の一つの表れとしか思えない名前が多過ぎるのが気懸かりだ。何も昔に戻って「子」を使うようにしなさいとまでは言わないが、素直に読めるようなその漢字本来の読み方の範囲内に収まるような命名をして貰いたいと願っている。
文科省の官僚たちはこういう命名の傾向をどのようにお考えなのだろうか。以前に「悪魔君」は役所が拒否したと記憶するが、これなどは未だ常識で読める。矢張り、常識の範囲内で読めるような名前にせよというような規制を設けても良いような気がするのだ。だが、それは不当な規制になってしまうのだろうか。
昨日は男性の名前だけ採り上げたので、本日は公平を期して女性編を。
私は実は「キラキラネーム」なるものは女性の名前に限定されているのかと思っていた時期があった。それほど近頃(でもないのかも知れないが)の若い女性の名前にはどう足掻いても判読できないものが多いのだ。因みに、Wikipediaによればキラキラネームとは「一般常識から著しく外れているとされる珍しい名前(本名)に対する表現」とある。即ち、必ずしも女性の名前だけのことではないようだ。
では、女性の名前の例を挙げて見よと言われて直ちに思い浮かぶのは、女子プロゴルファーの「穴井詩(アナイ・ララ)」と「木戸愛(キド・メグミ)」に、女優の「武井咲(タケイ・エミ)」くらいのものだが、この辺りは未だお手柔らかな方である。その多くは昔懐かしき「子」を使わずに、徹頭徹尾当て字で3文字のものが圧倒的に多い。余程柔軟に頭を働かせないと判読は不可能である。
何十年も前のことだったか、精々「結佳」だの「絵里花」程度の名前が出始めた頃に、当時は未だ漫才師だったビートたけし(北野武である、念の為)が「何という名前を付けるのか。今はうら若い女子だから良いが、70~80歳にもなった頃に『結花ばーちゃん』だの『絵里花御婆様』では格好がつかないだろう」と皮肉ったことがあった。如何にもたけしらしい皮肉だった。だが、今となっては皆が同じようなキラキラネーム系ばかりとなっていては、皮肉にもならないし、何の毒もない一言になってしまった。
ここでは、私が感じる限りでは「愛」と「美」の字を使った名前が多いようだ。「愛」という字を「マナ」と読ませるのは「愛娘」などという熟語があるので、未だ何とか判読できるが「メグミ」と読ませるのには思いが至らなかった。面白いと思う現象は「茉里奈」の「茉」という字を使う名前が多いことで、不勉強な私にはこう言う字があるとは知らず、勉強になったものだった。
何れにせよ、私はこれらのような想像を逞しゅうしなければ読めないような名前や当て字を連発する名前は、現代の親御さんたちが新機軸の名前を付けて古き時代の因習を破ろうとする意図があるのだと善意で解釈するようにしてはいる。だが、それとても国語力の劣化の一つの表れとしか思えない名前が多過ぎるのが気懸かりだ。何も昔に戻って「子」を使うようにしなさいとまでは言わないが、素直に読めるようなその漢字本来の読み方の範囲内に収まるような命名をして貰いたいと願っている。
文科省の官僚たちはこういう命名の傾向をどのようにお考えなのだろうか。以前に「悪魔君」は役所が拒否したと記憶するが、これなどは未だ常識で読める。矢張り、常識の範囲内で読めるような名前にせよというような規制を設けても良いような気がするのだ。だが、それは不当な規制になってしまうのだろうか。