新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月6日 その2 カタカナ語の濫用を戒める #2

2018-06-06 17:29:19 | コラム
カタカナ語の意味を全国民が正しく解るのだろうか:

今朝ほどは深い慮りなしにカタカナ語の使用を戒めた。だが、今になって考えて見ると、果たして全国民乃至は全愛媛県民が「ガバナンス」や「コンプライアンス」といったような元は非常に難しくて堅苦しい文語的である governance や compliance のような言葉をスラスラと理解されるのだろうかと、極めて疑問にも思えてきた。と同時に、我が国の英語教育の特徴でもある「単語をバラバラに覚えさせること」と「高度の読解力を付ける」があれば、解ってしまうかとも考えた。

兎に角、カタカナ語製造を得意としておられる方々には「凄いな」と敬意を表したくなる。仕事上長い年月をアメリカ人の中で過ごしていた私などが聞いたことも使ったこともないような非日常的な言葉を事も無げにカタカナ語にしてしまう能力を備えておられるのだから堪らない。何度か指摘した言葉に「コラボレーション」(略式で「コラボ」なんてのまである点が凄い)がある。私如き浅学非才な者には「そう聞かされてみれば、そういう単語もあったかな」と、確認の為に辞書を引いたほどだった。

言うまでもないが、ガバナンス(=governance)とガバナビリテイー(=governability)の区別が付けられる英語力というか単語力乃至は語彙があるのは、嫌みでも何でもなく素晴らしいと思ってしまう。コンプライアンス(=compliance)だって同様だ。「命令、要求、規則に従う」という結構使い方が難しい単語の名詞形をいともアッサリとカタカナ語にしてしまう辺りは「全国民の英単語の語彙を信じ切っている」としか思えないのだ。

私はこのような日常的な会話の中で使われるのと使われない単語、専門語の部類に入れたいような単語、文語というか所謂“big word”をカタカナ語にしてしまう出鱈目なやり方は、それでなくとも乱れがちな我が国民の英語力向上に先ず貢献することはないと断言したいのだ。ろくに日常的な自己表現も出来ないものがいきなり collaboration などという単語を使ってしゃべり出せば、極めて不自然な形になってしまうのだ。

例えば「一緒にやりましょう」お言いたければ “Let’s collaborate on the project.”と言うよりも、“Let’s work together on the project.”の方が自然だろうと思うのだ。complyにしたところで、私は obey の方が簡単だと思うし、第一に字数が少ないではないか。言い出せばキリがないのでこの辺で止めておこう。


英語とカタカナ語の濫用を戒める

2018-06-06 08:29:42 | コラム
国語がドンドン乱されていく:

安室奈美恵という沖縄出身の歌手が40歳で引退するとかで、各テレビ局が「早過ぎる」と挙って惜しんで見せてくれている。歌謡曲に関心がない私にはどうでも良い話題だが、彼らはややもすると日大の悪質タックル問題を日本大学そのものの体質批判に置き換えて、安室奈美恵の引退興行とともに要視し特集しているのだから堪らない。

英語の話に戻そう。安室奈美恵の大ヒット曲らしいものに “Can you celebrate?”と題されたかの小室哲哉の作詞・作曲の曲がある。余談だが、私は小室が作ったと言われる曲をテレビが有り難がって流すのでつい聞かされるが、どれを聞かされても全くと言って良いほど同じメロディーであり、違うのは歌詞だけだと思っている。矢張りファンが絶賛する桑田佳祐の名曲も、どれを同じに聞こえるのと同じだ。一旦マスコミ的に名声を勝ち得れば、何を作っても当たるという良い(悪しき)例だと思う。

ところで英語である。Can you celebrate? を単純に日本語にすれば「貴方は祝福できますか」とでもなるだろう。そこでお得意の「アメリカの会社に在籍中に」から入れば、その間に日常の意思疎通の場でも、業務用の報告書でも、アメリカ人の会話を聞いても、celebrate という単語が使われたか、自分から使った記憶を呼び起こせないのである。確かに Celebrate ~’s 60th birthday などという表現を見たか聞いたことはある程度のことだ。

そういう種類の言葉を日頃から英語力を誇示した小室君が使って見せたのではないかと疑っている。この辺りに、私は「無闇矢鱈に実用性などを考慮せずに単語を覚えされたがる我が国の英語教育の成果を見る気がする」のだ。固いことを言えば celebrate という単語というか動詞は、ジーニアス英和を見ても SVO という形で目的語を伴う使い方をするのが普通なのである。即ち、「誰の何を祝福するのか」なのだ。その点に注意して上記の例文をご覧あれ。

大体からして「貴方は祝福できますか」との誰かの能力を問う疑問文は奇怪である。とは言ってみたが、何分にも流行歌のことだ。どうでも良いじゃないか、目くじらを立てるような問題でもないかと割り切ろう。

次はカタカナ語だ。私はドンドン漢字と使った熟語が公式の場でもカタカナ語に置き換えられていくのが悲しくもあり、同時に腹立たしいのだ。例を挙げてみよう。先日、熱心に安倍内閣打倒の言辞を弄しておられる?としか思えない愛媛県の中村知事が、加計学園の事務長だったかが知事不在の県庁を訪れたことを非難して「ガバナンス」と「コンプライアンス」がどうのと言われた。三菱商事ご出身としては英語力をお示しになりたかったのだろうかと思って拝聴した。

私が不思議に思えてならないのが、最早我が国では「統治能力」という四文字の熟語はほぼ完全に「ガバナンス」に置き換えられてしまった。この珍現象の発端は何処かのそそっかしい議員が英語力不足を露呈して「ガバナビリテイー」を過て使ったことにあった。不肖私は余りにも縁が薄い単語だったので、governability とは「被統治性、乃至は治めやすさ」とは考えて見たこともなかった。誤用した方に同情すれば、語尾に“~ability”とあったので「統治能力」のことだと思われたのだろう。

だが、私が言いたいのは何が故に誤解か誤認識しやすい英語の言葉を「ガバナンス」などというカタカナ語に置き換える根拠か正当性があるのかという点だ。「統治能力」という漢字を使えば、自分たちの支持者であろう低層に属する方々には理解して貰えないとでも怖れているのか。恰も、トランプ大統領が岩盤の38%と我が国の新聞は言いたがるが、アメリカ本土では既に50%に達した支持者向けには、支配階層向けの表現をお使いにならないのと同様に。

「コンプライアンス」も気に入らない。ここは日本の国だ。何の理由と根拠があって「法令順守(遵守)」と言わずに格好を付けて「コンプライアンス」というのか。そういう言葉を使う方が何となく自らを「権威付けられる」とでも思っているのか。「どうだ、英語力があるぞ」と誇示したいのか。何とも情けない根性だと笑いたい。何故「まともな漢字の熟語を普及させようとは考えないのか」と、中村知事にも議員さんたちにもマスコミにも問いかけたい。

因みに、Oxfordで compliance を見ると the practice of obeying rules or requests made by people in authority とある。これなどは未だ所謂難しい単語の部類に入るだろうが、そういう言葉を手もなくカタカナ語にしてしまう単語力には敬意を表したい。中には最早「挑戦」はほぼ完全に「チャレンジ」の置き換えられたし、client は誤記されて「クライアント」になってしまった。カタカナ語製造業者は英和辞典すらお使いではないようだ。

これらのおかしなかたかなごを当たり前のように使う連中は、中学→高校→大学で英語の何処を教えられてきたのだろう。奇々怪々な現象だと思う。どうやら安室奈美恵論がここまで飛び火してしまった。私は彼女には何の罪もないと思っている。非難されるべきは「我が国における学校教育の英語」である。おかしな英語の教育の仕方をするだけではなく、国語まで乱していく結果になっているのだから。