新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月25日 その2 kazk様のコメントに答えて

2018-06-25 13:46:15 | コラム
Kazk様

コメントに感謝致します。ご主張に異論は御座いませんが、私の見方を改めて申し述べてみます。

先ほど、昨夜のセネガル戦の回顧でも指摘しましたが、私は基本的に「ない実力など出る訳がない」と信じておりますので、あの引き分けは実力が十分に出た結果だと思って評価しております。大迫があの空振りをしたのも、乾の右上の角を外したシュートも、あそこまでが実力であり、あれを入れられれるほどの力はなかったと見ております。大迫は馬鹿マスコミの騒ぎすぎで、とても「半端ない」などという水準には至っていない、兵六玉程度の戦力だと認識しております。

コロンビアを徹底的に叩いて「二度と日本とはやりたくない」とギャフンと言わせようとの主張は、基本的に賛成です。これと同じことを実践されていたのが、1980年代後半の黄金時代を築いておられた故篠竹幹夫監督の指導でした。「春のシーズンには何処を相手に試合をしても一軍だけを出して10本でも何本でも取れるだけのTDを取って「二度とフェニックスとはやりたくない」と秋のシーズン前に恐怖感を植え付けておくというやり方でした。

私はあの試合は我が方にもう少し落ち着きがあれば、3~5点は取れていたと思って見ておりました。だが、残念ながら大迫や乾や衰えが目立ってきた本田では、そこまでのことが出来なかったのだと思っております。ロシアでの最初の試合だった所為もあって、未だ「自分たちが何処まで出来るか」と「コロンビアがどれほどのものか」の判断が選手たちにはあの場で判断がつかなかったのだろうと考えてやることにしました。仰せのように、明らかにマスコミどもの空騒ぎが相手を過大評価させていたと見ています。

私としてはやや我が代表を過小評価していたことを反省せねばなるまいかと考えております。自分では「サッカーでは経験がものを言う場合が多々ある」と思っていながら、香川、長友、本田、長谷部、岡崎を入れるべきか悩みますが、彼らの経験が有効だったと評価します。同時に、吉田、昌子、酒井宏樹に長友を加えたバックスは安定感がある守りをしていたのは、試合に大きな貢献をしたと評価します。但し、酒井は攻めに回った時に雑すぎるというかお粗末で、要改善でしょう。長友は信頼して良いでしょう。

残されたポーランド戦ですが、予選落ちした国が果たして名誉を挽回すべくシャカリキになってかかってくるのか、投げやりであるかで大きく変わってくるでしょう。そういう相手と何処まで平常心でやれるかが勝敗を左右すると思います。私はここでは大迫を下げて武藤を使ってみたい気がするのですが、高校から慶応という上品すぎる育ちが一寸気になります。慶応のOBたちの彼に対する評価は極めて高いので、西野監督に一度は使って見せて欲しいのです。

冷静なる評論家が見た対セネガル戦

2018-06-25 08:30:23 | コラム
「勝てた試合だった」と言うのは早計:

我が代表は非常に落ち着いていたように見え、言わば平常心でサッカーをしていたのは大いに良かったと思う。その結果として2度もリードされながらちゃんと追い付いて見せた辺りは長友、香川、長谷部、本田、岡崎といったW杯経験者たちが何とか持てる力を発揮したからだとは思う。だが、勝てそうに見せて勝ちきれなかったのは「実力は未だにあそこまで止まりだった」ということだ。「勝てる相手だった」というのは幻想に過ぎないと思う方が無難だ。

そうは言うが、あそこまで出来たのは立派だったと褒めて良いと思う。私は事前にセネガルのサッカーを見ていなかったので、どれほどのものかを知らなかった。承知していたのはマスコミの言う「強い」、「早い」、「高さがある」(奇妙な日本語だと非難する)程度だった。だが、試合が始まってみれば5分も経たない間に「単なる身体能力ショーを演じているだけの内容がないサッカーをやっているだけで、大したものではない」との評価になった。換言すれば「恐るるに足らず」ということ。

より具体的にいえば「乱暴な後からの当たりを多用する乱暴なサッカーであり、個人技というか個人のスピードが頼りの組織力がない攻めしか出来ない」となるだろう。全員が欧州のリーグ所属というマスコミの触れ込みだったが、所詮は欧州のリーグの二軍程度の者ばかりと見た。では我が方はどうかと正直に言えば「欧州のリーグ所属の者たちが主体だが、本当の意味での一本目をずっと張り続けたのは長谷部と長友だけとも言える、言わば欧州の二軍である点は同じかとも見ていた。

私はサッカーのような団体競技では所謂「アナ」と評価したいような者を出すと、その欠陥がここぞという時に致命的な失態を演じて敗因になる」と信じているし、そういうことで負けた経験もしてきた。何でこんな事をいうのかと言えば、毎度指摘して来た「何故ヘボなGKの川島を使うのか」で、あのパンチングの失敗で先取点を与えてしまったこと批判したいのだ。あれは西野監督の痛恨の選手起用の失敗である。何度も言ってきたが「川島の特長は『鬼面人を驚かす』という怖い顔だけ」に過ぎないのだ。

川島以外は概ね持てる力を相当以上発揮して、セネガルに「こんなはずじゃなかった」と思い込ませ焦らせていたと思う。彼らがあれほど後から無用な当たりをして反則を多発したのは、取りも直さず焦りの表れであり、懸念していた我が方の得意技であるデイフェンス陣間の横、横、後の消極的なパス回しをインターセプションを狙って前線から追いかけてこなかったのは、それほど警戒していたのだろう。セネガルは後半に多少ゲームプランを修正してきた感があったが、それもさほど効果がなかったと思う。

では何故引き分けに終わったかを考えて見よう。それは「半端ない」という下品な形容句がつく大迫君はオフエンスという点では中途半端で役に立っていなかったという点を先ず挙げておきたい。既に述べたが、私は大迫をそれほどの選手として評価していない。昨夜も右から入ったゴールエリアを横断する絶好のセンターリングにフリーで飛び込んで空振りをするという大失態を演じた。あのような逸機をすると言うことは往々にして敗戦の原因になると、居合わせたフットボールの専門家と語り合っていた。

そういう失敗を後半に乾も演じていた。それも左サイドからフリーでフワッと揚げた感じのシュートが反対側のバーとポストの角に当たって入らなかったという失態である。大迫とともには絶好の機会を逃したので危ないと言っていたら、案の定2点目を取られてしまった。嫌な流れだったが、我が選手たちは冷静だった。そこに何故か西野監督は私が嫌う交替で香川に変えて本田を入れてきた。後半になって香川に珠が回ってこなくなっていた起点になっていなかったのは確かで、岡田武史もそう指摘していた。

しかし、その本田の起用が当たったのだから勝負とは解らないものだ。ペナルティー・エリア内で左から乾が(後になって「誰かいてくれと思って戻した」と回顧した)折り返したパスが上がってきていた本田の真正面に来て綺麗に決めたのだった。しかも、セネガルのGKは判断が悪く飛び出して岡崎と重なって倒れていたので、ゴールは無人状態だった。点が取れる時はこんなものだということ。

私は持てる力を相当以上出せた良い試合振りだったと評価している。何度でも言うが「あそこまで出来ても勝ちきれなかったような大迫と乾の失敗があったのが、偽りのない実力だと評価するのが順当だ」ということ。残されたポーランド戦は相手が既に予選落ちが決まってしまった以上、どう出てくるか解らないので、昨夜以上の揺るがぬ精神状態で当たらないと「九仞の功を一簣にかく」ことになりかねない。兎に角、昨夜は「引き分けは残念だったが、良くやった」と褒めて終わる。


6月24日 その2 カタカナ語の濫用を嫌う

2018-06-24 13:47:32 | コラム
カタカナ語排斥論者は言う:

有り難いことに、私のカタカナ語論に賛同して下さる投稿が渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」にあったので、この際思いついたことを纏めてみた次第。カタカナ語の濫用は将に我が国の英語教育の至らなさを悲しいまでに表していると思う。

私のカタカナ語論を振り返ってみますと、話の中に英語を元のままの発音でカタカナ語化して使う旧三井物産出身の役員のキザっぽさが嫌らしいなと思った辺りが始まりでした。勿論彼だけではありませんが、昭和30年代初期にはそういう人が出始めていました。だが、実際にそのような批判めいたことを書いて活字になったのは1990年からでした。当時書いたのは「格好を付けて如何にも近代的でスマートだと思わせているような言葉遣いは採らない。そんな近代性やスマートさは不要だ」だったと思います。

また、1975年にW社に転じてから言わば支配階層の英語を厳しく教えられた12歳年下のワシントン大学出身のMBAには「話し言葉の中に英語の発音そのままにして入れるのは最低だ。ここが日本である以上、嫌でもカタカナ語化した発音で入れるべきだ」と、日系カナダ人の副社長秘書を批判したのを聞いて「なるほど」と納得させられました。

私の当初のカタカナ語論の元は「英語の方から考えてその使い方はおかしい」という発想だったと思います。そこから探求していく間に、余りにも言葉の誤用や誤った読み方やおかしな造語が多いことに気が付いたという次第です。これらの誤りは英和辞典を引けば直ぐに解る程度の単純な例が多いのが、我が国の好ましくない英語教育の情けない産物だと決めつけてきました。

そこにマスコミ、特にテレビで使いまくっている奇妙なカタカナ語が増え続け、それを罪なき大衆が真似るので益々増えてきたと思っております。例に挙げられた「レガシー」などは誤用ではないだけでも未だマシですが、マスコミの連中の程度が低いのには呆れるだけです。

気に入らない例は沢山採り上げてきましたが、今まで本格的に批判しなかった例に「アップ」と「ダウン」の濫用があります。ダウンはそれほどでもないのですが、アップは酷すぎます。「イメージアップ」、「レベルアップ」、「パワーアップ」等々は完全に日本語としての戸籍を得てしまいました。イメージアップなどは和英辞書を見るとチャンと英語の評点が出て来る始末です。更に言えば、何故「パワー」とカタカナ語を使う必要があるのかとなります。

お断りするまでもなく up も downも動詞ではなく前置詞か副詞です。それを日本語が持つ高い融通性が災いして、恰も動詞であるが如き複合語を作ってしまったのです。英語にすれば improve か grade upか up-gradeのような意味に使うのが恐ろしいのです。Downの例は少ないと言いましたが「プライスダウン」などという表示は小売店で平気で使われています。「値下げ」は discountか精々 price reductionでしょうが。これなどは「単語重視」の教育が全く役に立っていない悲しい例だと思います。

私はこれだけの例では不足かも知れませんが、この世の英語教師たちと文部科学省の担当部署に心の底からの反省を求めたいと思っております。英語を正しく教えておけば、乃至はキチンと勉強してあれば、奇妙なカタカナ語は生まれなかったはずです。それにも拘わらず、大学入試センターの試験をTOEIC等で代用すると言い出すのですから救いがありません。


トランプ大統領に思う

2018-06-24 10:39:28 | コラム
アメリカには職業の流動性がある:

何のことかと思われるだろうが、アメリカでは大統領になるまでに我が国のように(議員内閣制ではないから)先ずは地方議員から始めて国会議員となってという類いの累進出世(で良いのかな)方式がないから、故レーガン大統領のように映画俳優から就任された例があるし、オバマ前大統領に僅か1期だけ上院議員を務めた弁護士が大統領になれた例があると思っている。即ち、文化の違いである。

トランプ大統領は今更言うまでもなく言わば大手の不動産業者から一気に大統領になられた方だ。凄い流動性ではないか。我が国の歴代の総理大臣と比較するのが適切かどうか知らぬが、政治以外の分野を長年経験されてきた非職業政治家だった。この辺りに私は「職業の流動性」を見る気がするのだ。その点では手っ取り早くW社の例を挙げれば、数人の元大学教授のマネージャーもいれば、その辺りの地位か副社長からリタイヤー後に大学強に転じていった者は多かった。

悪く言えば、我が国の政治家の在り方は「体育会制度の下に一つの競技しか深く極めていない者が多い」のである。例に挙げては非礼かも知れないが、レスリング界の栄和人氏のような事態が生じるのだと思う。言うなれば、レスリングという競技を深く極める間に「広く世間を見る機会を自動的に失ってしまった」ことがコインの裏面で、天上天下唯我独尊の如くになってしまったことが不幸だったという例だと思っている。

私はアメリカの会社に転じて、予めそういう社会だとは承知ていたが、職業の流動性の実態に接してあらためて文化の違いをマザマザと思い知らされた。その辺りを「貿易」という業務がアメリカの会社の文化ではどのように扱われているかを述べていこう。我が国では多くの業界で「外国部」、「海外部」、「貿易部」という組織があると思っている。そこには英語の能力も要求されるし、受け渡しから始まって輸出入のドキュメントというか事務処理の能力が必須であると思っている。言うなれば、国内市場担当とは異なる一種の「特殊技能」が求められていると言えば良いか。

ところが、1972年にアメリカの会社に転じてみてある意味で驚愕だったのは、アメリカ国内の営業の担当者がごく当たり前のように国内と国外の得意先を担当していることだった。当時は未だL/C(信用状のこと、念の為)の開設が必須の時代だったし、ドキュメントが読めなければ仕事にならないし、貿易相手国の市場にもある程度以上通じている(勉強してある)ことは当然だった。

そこで、大胆にも新参者の私は内勤の事務方の責任者に「それで成り立つのか」と切り込んでみた。答えは割りに簡単で「事務処理は我々が担当しているから、営業担当者は国内であろうと外国だろうと営業の仕事である事は同じだから何の問題もない」と何らの屈託もなく割り切っていた。一寸した驚きの文化の違いだった。そう言われて考えてみれば、私自身がMeadのオウナーにインタービューされた際に「紙という製品の販売から原料のパルプ販売に移ることに不安はないか」と訊かれて「どちらでも営業であるという根本原理は同じだと思うから不安はない」と答えていた。

ここまでで言いたいことは「ある分野である程度の経験を積み、実績を残せるだけの実力が備わっていれば、業界が変わっても通用するのだ」という点である。であるから、アメリカの大手製造業界では躊躇うことなく異業種から即戦力となる者を採用していく文化で成り立っているのだ。そこでは、当然のように「君は以前はどういう業界にいたのか」というような、当時の我が国の感覚では「失礼な」と思うことを平気で尋ねてくるのだった。

私はこれまでに再三再四「トランプ大統領はものを知らないのか、知っていながら知らん振りをしているのかが解らない点が怖い」と指摘してきた。そう言う訳は、唱えられた公約や就任後に打ち出された政策の中に「本当にそのことについて十分な知識と経験があり裏と表の事情を承知であれば、とても言い出せない案件が多過ぎる」からだった。そこでは「ある業種で蓄えた知識と経験があれば他業種でも通用する」という原則は不動産業者からアメリカの大統領という転進には当て嵌まらないのではないかと考えていたからだった。

しかし、トランプ氏は当選され、彼以前の大統領が手がけるというか考えてもいなかっただろうような大胆不敵な政策を次から次へと打ち出していった。その辺りを未だに「知らないから出来た」のか「本当に知らないのかどうかが解らない」と疑問に感じている勢力はあると思っている。私は今となってはメキシコ等の南アメリカからの移民を制限するし送還するというような政策は支持したいと思うに至っている。

だが、トランプ大統領の「アメリカファースト」を基調に置く政策は貿易赤字を削減する為に横紙破りというか、世界の貿易の実績がマイナス成長となるのではないかとエコノミストや一部の学者が懸念するような中国等の対アメリカ貿易黒字国を相手にする関税の賦課という政策に突き進んでいったのだった。私はこういう政策を採られる背景に「何もかも承知か」か「知らないからこそ打って出た」のか「これまでの知識と経験はここでも通用する」という信念に裏打ちされているのかとも考えたが、現時点では何とも判断のしようもない強引さであると思っている。

トランプ大統領のような手法に対する批判は極端に言えば二つに別れると思う。それは「これまでの因習的な決め事と習慣に囚われることなく『アメリカを再び偉大にする為』に世界を変えてみせる」という強固な信念の表れか「誰が何と言おうと形振り構わずに公約した通りに邁進するのだ」ではないかと考えている。後者にはこれまでに通用してきた手法が通じるのだと信じている「世界における貿易とは何かを知らないが故の強さ」があるようにも見えるのだ。

私の議論は何処まで行っても自分で経験したことに基づいている。それは「アメリカという国は飽くまでも基本的には輸出依存の経済ではなく、内需で成長してきたのである」ということが重要だと思っている。中国からの輸入が多いのは、乱暴に言えば非耐久消費財のような物は産業界を空洞化させて低労働コストの国で生産するようにしたのである以上当然であり、それを今更非難するのは手遅れだとしか思えないのだ。更に、そこにはアメリカ国内の労務費と労働力の質にも問題があったことは、私も経験上も心得ているし、再三述べてきたように嘗てのUSTR代表のカーラ・ヒルズ大使も認めておられたのだ。

思うに、トランプ大統領は70歳までの他業種での経験というか成功と失敗に裏打ちされた知識と経験に自信を持たれ、新しいアメリカを構築されて「アメリカを再び偉大にする為」に「アメリカファースト」の精神で突き進むと固く決められたのだろう。それを支えているのが好調な国内の景気と、プーアホワイト以下に加えて知識階層にも支持者が増えているという事実があるのだと思って見ている。

私如きにはトランプ政治の結果がどう出るかなどの予測は不可能だ。当面の間は我が国を始めとして、EUの諸国、中国、ロシア、DPRK、アジアの諸国等が如何に対応していくかを見守っているしかないと考えている。


ドナルド・トランプ大統領の考察

2018-06-23 15:26:59 | コラム
>Unpredictableとは言われているが:

トランプ大統領に対する評価があの「6.12」とまで呼ばれる時もある対金正恩との歴史的会談以来あらゆる場面というか機会を捉えて論議され、将に毀誉褒貶相半ばするかの感が濃厚だ。あの会談は「大成功だった」、「トランプ大統領は所期の目的を達し、アメリカにDPRKからICBMが飛来することがないように押さえ込んだ」、「金正恩がトランプ氏よりも熟練している外交経験を活かして予期した以上の成果をDPRKにもたらした」等々の議論が飛び交い、何れが勝者だったかの判定は下されていない。

私はたった一度の初顔合わせの会談で、非核化にせよ、ICBM等の兵器の処分案やIAEAまで動員するのだろうDPRKの核兵器の保管か在庫場所のリストを提出させ、それに従ってどのように調査し、国外に搬出するとか破壊する等の具体案が審議乃至は細部にわたって討論するはずはないと予め考えていた。両者が相互に相手側に何を求めるかを全項目にわたって机上に並べ、各個撃破的に論じ会うことは時間的にもあり得ないだろうと思っていた。故に「お見知り置きを」程度が実態になるのではとすら考えた。

あれから間もなく2週間になるが、未だに甲論乙駁でトランプ大統領も金正恩委員長も意図した通りに事が運んだのか否かという議論が続いていると思う。私は何れが優勢に有利に事を運んだかを論じるよりも、これから先に如何にして朝鮮半島の何処の非核化を図るのかの具体論や、何を以てCVIDが達成できたと決めるのか等の詳細な具体論にどのようにして入っていくかが問題だろうと思っている。

アメリカだろうとIAEAだろうとUNだろうと、如何にしてDPRKに誑かされずに事を運ぶかを慎重に検討すべきだとすら考えている。換言すれば、何処までDPRKを信じるかが重要な鍵を握るのだが、忘れてならないことは最早UN加盟の国の中でDPRKと国交を結んでいないのは19ヵ国にまで減少してしまった厳然たる事実だ。アメリカも我が国もその極少数派に入ってしまったということ。トランプ大統領は安倍総理だけが道案内役で安心していられるのかという疑問すら感じてしまう。

少しトランプ大統領と金正恩委員長の首脳会談から離れよう。トランプ大統領は最近になって大胆不敵とも思わせられるほど強気で「貿易赤字削減」、「雇用(特に彼の支持層であるプーアホワイト以下)の増加と確保」、「安全保障上」と称して従来の貿易相手国に対して高率の関税を課する保護貿易政策を大胆に講じ始めている。私は一国の大統領として貿易赤字削減を図ることに何ら不思議はないと思うし、unpredictableでも何でもないとすら見ている。しかし、トランプ方式が適切か否かは別の問題だろうとは考えている。

私はドナルド・トランプ氏が共和党の候補に名乗りを上げてきた頃から「彼は無知なのか、あるいは無知を装っているだけで実態は何もかもご承知で知らん顔で強引としか思えない公約を掲げているのかも知れない」と論じてきたし、我がW社の上司や同僚たちもほぼ同意見だった。中には「本当に知らないのか否かが解らない点が困るのだ」という意見すらあった。今になって言えることは「彼には詳細な部類に至るまでのことをご存じではない事柄の方が多いのではないのか」なのだ。

更に、私が例を挙げれば、藤井厳喜氏が指摘したように「我が国にマスメディアはアメリカの反トランプ派の(地方紙に過ぎないといっては語弊があるかも知れぬが)有力紙が垂れ流すfake news を躊躇うことなくそのまま報じているので、恰もトランプ大統領の政治手腕に問題があるが如くに見做されている」というのも真実であると思っている。換言すれば、我が国の偏向しているマスコミの報道などを安易に信じないことだとなるのだ。

現に何度か採り上げたが、アメリカで引退生活を楽しんでおられる日本人のアメリカの銀行のOBの方はトランプ大統領の経済政策は成功しており、それ故に知識階層における支持率も上昇しつつあるという現地からの報告もあると強調しておきたいのだ。即ち、私の好む表現である「全てのコインには両面がある」ということだ。一頃「現在のアメリカの好景気がオバマ大統領の置き土産だ」というまことしやかな説が流布されていたが、今やそれはトランプ政権の功績だと見るのが普通だ。

私はドナルド・トランプ氏という方は、ある意味で私がずっと言い続けてきた「人は自らの弱点を意識すればするほど、その点を隠しておこうとその弱点の反対の言動に走る傾向が強い」との説に適合すると思っている。その典型的な例として同期の石原慎太郎を挙げてきた。彼は公共の場面でも敢えてベランメー調で聞きようによっては大言壮語し、他人を真っ向から批判してみせることが多い。我々同期の間では「あれこそが彼の神経の細かい気の小さい面を補うべく(隠す為に)あのような語り口になるのだ」と理解している。

ここで言いたいことは「トランプ大統領は決して強気一点張りの方ではなく、弱みを見せまいとしてTwitterなどでは乱暴な表現を用いて「強気」を演じておられるのではないかという推理である。弱みは見せまいという自己防衛本能が常に働いていると言えば過剰な表現になるか。


貿易赤字削減に話を戻してみよう。私はトランプ大統領自身とその新たに任命されたマイク・ポンペオ(Pompeoであるから、ポンペイオという表記はおかしいと思う)国務長官もボルトン補佐官も、私にはどうしても貿易の経験者でも専門家でもないとしか思えない。そういう側近を従えて赤字削減に打って出られ、その最善(と思われたのだろう)の策として貿易摩擦が生じることを怖れずに、極論的にいえば関税の賦課で輸入を減らしていく方向に進まれたのだと解釈している。

貿易に長年携わってきていれば、この対策などは危なくておいそれと打って出ていける作戦ではないと思うだろう。だが、これらのお三方は上記の三項目の大命題があればこそ、「やろうじゃないか」と多少のの摩擦を怖れず、最大の赤字を生じさせられている中国と対峙することを敢えて辞さなかったのだと思う。私の持論は「この対策は自国が基本的に輸出に依存する国ではないことを無視している点に些か無理がある」ということなのだ。だが、トランプ大統領は「承知の上で打って出られたのか」あるいは「貿易の実務の実態を知らないから強気に出たのか」または「百も承知で強攻策に出られたのか」は外部、それも我が国のアメリカの会社の一OBには計り知れないのだ。

トランプ大統領が打って出られた国内向けの経済面の政策や、パリ協定からの脱退や、イランとの協定からに脱出や、UNの人権委員会の脱会等々に加えて横紙破りとでも形容したい保護貿易政策等を現時点で批判し、非難することには余り意味がないとすら思うことがある。それは、彼が打って出られる新機軸の政策にはほとんど前例がないので、如何なる形で決着するかの予想を禁じているからだ。トランプ大統領は飽くまでも強気を装っておられるが、案外内心では「何とか上手く行ってくれ」と祈っておられるのかも知れないと思うと気もある。それほど、私には「イチかバチか」に見える強引さが見える点が怖いのだ。

最後に私流に英語の講釈で結べば強引な政策の結果は It remains to be seen.か Let’s wait and see what will happen.辺りしかないのだと思う。まさか、トランプ大統領もそう見做しておられるのではあるまいな。何れにせよ、「アメリカファースト」に徹しておられるのは間違いないところだろうし、結果的には中間選挙も視野には入れておられるだろうが、支持層は揺らいでいないと確信しておられるのだと思う。