新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

予想通りだった日韓首脳会談

2019-12-25 08:10:00 | コラム
会ったことに意義があったそうだ;

私は先ず何の具体的な結果が出るとは予測していなかった安倍総理対文大統領の会談は、予定時間を15分も延長して終わったと報じられた。延長しようと何だろうと、当初予定の30分では一寸厳しい儀礼的な会談になることくらいは、誰にでも解ることではなかったか。最初からそのような予定を組んだということには、双方に何か結果を出そうという気がなく、単なる従来通りの主張を述べ合う為の会談にする気だったかと疑う。ここで、結論めいたことを言ってしまえば「文在寅大統領の頭の中には来たるべき選挙対策で占められていた」だと思う。

安倍総理は中国に向かわれる前から会談で言うべき事を記者団に述べておられ、実際にその通りを文在寅大統領に突きつけられたと思う。文在寅大統領の言い分も誰にでも予測できる範囲を出ていなかった。だが、私には一つだけ気になった点があった。それは我が国が採った我が国の側で決めるべき事柄である貿易管理の強化とホワイト国外しの件に矢張り拘泥して、飽くまでも「撤廃」を言い出していた点である。しかも文大統領は「この件を両国の当局が協議している」とまで言ってのけたようだった。

「協議」は完全な事実誤認で、経産省は最初から「説明会」と題して韓国の担当部門のかた2名と接していた。細川昌彦氏はテレビで繰り返して「この問題は協議する性質ではなく、それぞれの国が決めることだ。事前に先方と相談する案件ではない」指摘しておられたし、韓国の担当者にも十分説明してあったと聞いている。だが、面子というか体面を重んじ、局面を糊塗して何とか国民に「どうだ、我が国は日本に撤回させるべく話し合いに応じさせている」と言うしかないので、大統領まで「協議」と言ったのではないか。さもなくば通訳の誤訳だろう。総理が協議に応じられる訳がない。

しかも、現実的には3品目の輸出はチャンと進んでおり、それに加えて我が国は「レジスト」の管理を少し緩和までしていたのである。韓国がそれを「日本側が誠意を示した」と見下したようなことを言う姿勢も何かを取り違えていると思った。私には輸出の実体は解らないが、韓国側が原材料不足で操業が停止したなどという報道はない。サムソンだって苦情を言っていないとも聞いている、。

思うに文大統領は何としても経産省に全面的に撤回させて、選挙対策の目玉に出もしようと画策しているのだろう。韓国の担当部署からは「我が国と対話して帰って来たのではなく、自国の主張を貫いて撤回させるべく協議してきた」とでもいう報告が上がっていたではないのか。文大統領も「対話」を認めたくないのだろう。要するに、韓国に対しては何を言っても正直には上に上げないということらしい。

このように自国の主張を貫こうとするのが国際的な交渉事であり、実務担当者間では余程の事というか、何かその場で決めて良いという権限が与えられていることはないと思う。であれば、首脳同士の会談となるのだが、韓国のように正直に相手国の主張を上司に報告しないような国(ハッキリいえば虚偽の報告をするのでは)を相手にしているのでは、何度首脳会談を繰り返しても我が国が目指すような結末には至らないと危惧している。「反日種族主義」には韓国人は嘘を言うとあったではないか。


12月24日 その2 何時まで?

2019-12-24 16:31:06 | コラム
後何年墓参りに来られるか:

本24日は亡き父の祥月命日で巣鴨の染井霊園まで家内と共に、寒風吹きすさぶ中山道を歩いてお墓参りに出掛けた。思い起こせば、自動車の貰い事故で亡くなったのは昭和12年で、私が4歳の時であるから、何と82年目だった。染井霊園はJR巣鴨駅からかなりの距離を歩くので、家内がふと漏らしたのが掲題の台詞である。墓参を終えてから丁度消耗していた室内履きの靴下と下着を買いに折悪しくトゲ抜き様の縁日で大混雑の巣鴨の地蔵通りにまた歩いて行ったのだった。後期高齢者には一寸厳しい距離だった。

無事に大多数の人混みを掻き分けて買い物は出来たので、帰りには都営地下鉄を利用して新宿駅西口まで出て、銀行に寄って来年のカレンダーを貰い、漸く約4時間の強行軍を終えて帰宅した。朝から一寸不調だったので善くぞ耐え抜いたと自分を褒めてやって、ソファーに倒れ込んで休憩した。

そこで聞こえてきたのが、懸案の安倍総理と文大統領の会談は発表されたスケジュールでは30分間で、通訳の時間を考えれば両首脳の発言は7分半であるとの日テレの報道だった。それだけで何が言えるのかとやや落胆して、ドッと疲れが戻ってきた。長い一日になりそうだ。

自国を知らずして外国は語れない

2019-12-24 16:01:52 | コラム
我が国ほど良い国はない:

長年のつきあいがある商社マンと語り合った時に、彼はしみじみと「外国から帰ってくると、何時も我が国ほど良い国はないと痛感する」と言っていた。私からは「誠に同感でその通りである」と応じた。彼は中近東駐在の経験がある他に輸出入を担当して北アメリカ、東南アジア、中国等々と年中海外を回っていた国際派である。彼と更に意見が一致したことは「多くの外国にはそれぞれ良い点があって捨てがたいし、外国を経験すればするほど、我が国の良い点が見えてくるものなのだ」だったのだ。

私も1970年に初めて東南アジアの諸国を回って以来、アメリカの会社に転出してアメリカだけでも2012年までに恐らく60回以上は往復していたと思う。それに加えてアメリカ以外では確か19ヶ国を回っていたと思う。アメリカとは色々な意味で普通の方よりは幅広く深く慣れ親しんでいたと自負しているし、我が国との文化比較論などは数多く語り且つ書き物にもしてきた。だが、在職中には本部に出張してシアトル空港に降り立った時には「また何もかも違う国に来たのだ」と自らを引き締めて、これから起こるだろう事に備えていた。

それはどういうことを意味するのかと言えば「海外訪問の経験を積んで、あるいは一度でも良いから外国に出掛けて、我が国との違いを経験しておくことで、見聞が広まって我が国の良さが見えてくるものである」という点だ。別の表現をすれば「自国の文化を知らない事には(自分の足下を先ず見極めること)、諸外国の文化は見えてこない」なのである。「その外国が如何なる異文化を持っているかは一度だけ訪れても、その気になって観察すれば、必ず何かが見えてくるものだ」ということでもある。勿論、何度も繰り返して訪れるに越したことはないが。

私もアメリカの会社に転出してから数年後までは「何でこうなるのだろうか」とか「何という分からず屋ばかりの国なのだろうか」と悩まされ、苦しめられたものだった。いや、寧ろ「外国と我が国との間の文化と思考体系の相違があるなどは全く考えもせずに入って行った」とする方が正確かも知れない。物事は我が国とアメリかでは同じように起きるものだと無意識に考えていた。だが、アメリカ人たちも同じように軽く考えていたようで、“Things happen the same way in Japan as in the U.S.”と思っていたようだった。

以前にも回顧したが、「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」(英語の題名は“Japan Insight”だった)と題したプリゼンテーションを本部で全員に集まって貰って行ったのは、何とW社入社の15年も経った後だった。勿論、アメリカは魅力に溢れた良い国であって、初めて1972年8月にM社にトレーニングという顔見せで25日間も出張した時には、このまま永住しても良いなと真剣に考えたほど魅了されたのだった。だが、アメリカを知れば知るほど、同時に我が国の良さが見えてくるようになって、掲題の「我が国ほど良い国はない」に行き着いたのだった。

ここまで縷々述べてきたことは「兎に角、色々な意味で何処でも良いから外国を訪れて、出来る限り観察してくることだ」と言いたかったのだ。即ち、「外国を見てくれば、そこで何かを学ぶか知り得れば、それが貴方の視野と見識を広げることに繋がっていくのだ」なのである。古い言い方に「百聞は一見にしかず」(=“Seeing is believing.”)というのがあるではないか。「兎に角見聞を広めようではないか」が私の主張である。


12月23日 その2 イチロー君の訓話に思う

2019-12-23 15:56:52 | コラム
実際にその場に行ってみなければ:

かのMLBの大選手・イチローこと鈴木一朗君が、その主催する少年野球大会の終了に当たって訓示をしたそうだ。その内容を簡単に纏めてみれば「現代では何事も調べてみれば知ることが出来るので、解った気になれる。だが、物事の実態はその場に行ってみなければ解らないものである」となるだろうか。彼の訓話の前後から判断すれば「MLBの野球選手に誰でもなりたいだろうと思う。だが、実際にその場に行ってみなければ、MLBとは如何なる存在かは知り得ないのだ」と言っていたと思って聞いた。

その通りだと思う。事野球だけに絞ってイチロー君の言ったことを考えて見れば、ダルビッシュがアメリカに渡って2ヶ月もしない後でアメリカの野球を称して「何か異種の競技をやっているのかと思った」と喝破したのは正しいと思っている。即ち、「アメリカに行っても、我が国と同じような文化の下にbaseballがあるのではない」ということだ。私は幾度もMLBの野球を見る機会があったが、時を経るにつれてドンドンと異種の球技になって行ったと思って見てきた。

私は日本の会社で17年半ほど育てて頂いた後にアメリカの会社に、夢想だにしなかった偶然の積み重ねで転進してしまった。しかしながら、転進する前も実際に初めてアメリカ本土に渡ってアメリカの会社の実態に触れても、文化や仕来りの違いがあるだろうなどとは全く考えていなかった。いや、異文化の世界に入ったのかとか、そんなことまで観察しようとかなどということを考えている暇も余裕もなかった。唯々新しい世界にどうやって溶け込んでいって、期待されただろう実績を挙げるかだけしか考えていなかった。しかし、英語についてだけは全く心配していなかった。

ところがである。それまでは仲間や友人たちの間では全く何の問題もなく意思の疎通が出来ていた(あるいはそう勝手に信じていただけかも知れないが)英語ですら、ビジネスの世界ではかなり違っていたし、実際にアメリカ人たちが身内というか社内で使っている言葉には慣用句と口語体が多かったし、社内の報告書で使われている言葉にも一定の決まりがあるようだと解ってきた。しかし、そういうことは全て承知しているはずだと思って雇われた以上、知らないことでも知っている振りをして、言わばOJTで学んでいくしかなかった。容易ではなかった。

即ち、ダルビッシュがいみじくも言った「異種のビジネスの世界に入っていた」と気付くのには数年を要したと思う。言ってみれば、イチロー君が訓示した「そこに行ってみなければ知り得ないこと」という壁が現れたということだった。しかも、その壁とはどのような素材で組み立てられているものかなどは、2~3年では到底知り得る性質ではなかったのだった。兎に角、自分の頭の上の蠅を追うだけで精一杯だった。イチロー君は「行ってみなければ」と言ったが、行っただけで知り尽くせる違いではなかった。勿論、そこには言葉の能力は必須である。

私が得意とする「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い論」などは人前で語れるようになるほど解ってきたのは、実にW社に転身後の15年近くも経ってからだった。それまでは「何故アメリカの管理職以下の者はこれほど物解りが悪いのか」であるとか「彼らは何故自分の担当分野以外の事柄には絶対に手を出さないのか(のは当然なのだが)」等々、イライラさせられたことがアメリカの会社では多かった。アメリカ人たちは皆のろまだと心に中で呪っていたことすらあった。

そのような悩みを全て「文化の違い」に収斂させると綺麗に割り切れると解り始めたのは、10年も経った後だった。我が国の会社が「アメリカの会社とは全く異なる文化と哲学とシステムと主義主張等々で動いている全く異なる存在だ」とということなのだ。後難を恐れて言えば、そういうことだと承知しておられた駐在員の方は希であり、私の拙い解説を聞かれて「それほど違うとは知らなかった」と驚かれた。留学の経験がある方でも同じような反応だった。勿論、アメリカ人たちも「日本の会社も自分たちと同じような会社」と信じているのが普通の現象だった。

「文化の違い」とはそういうものだと心得ている方は、我が国でもアメリカでもそう多くはなかった。それは別に驚くべき事でも何でもないと私は考えている。そう言う根拠は「私のように仮令東京駐在であっても単身アメリカの会社に乗り込んでしまったので、その文化と歴史の違いの中に身を置いてしまった方が沢山おられるとも思えないし、私のようにその比較論を語り且つ書き物にした人が少ない」という点にある。即ち、イチロー君の指摘は正しいが、実際にその世界に身を投じて、文化の違いに出会って初めて知る得るのだと言いたいのだ。

だが、何もアメリカ人の会社に入っていかずとも、アメリカ等の外国を見てくるだけでも視野は自ずと広がっていくのだと思う。ましてや駐在でも留学でも経験すれば見聞は大いに広まるのは間違いないと思う。私は転身後1年も経たなかった後で、元の会社の言わば上司の方と語り合う機会があった時に「えらい視野が広まって、高い視点から物事を論じるようになったな」と感心されたことがあった。だが、自分には全くそういう意識はなかったので「そういうものかな」と思った程度だった。矢張り、結論は「海外を経験せよ」辺りになるのだろう。


「忘年会スルー」の考察:

2019-12-23 14:39:01 | コラム
時代と世代の変化を感じた:

近頃しきりにこの「忘年会スルー」という、厳密に言えば意味不明でしかない言葉を聞かされるようになった。勿論カタカナ語交じりとして立派に通用しているようなのである。それだけに止まらず、私には現代人のものの考え方というか、感受性乃至は文化の違いを感じさせてくれる言葉のように聞こえる。

私は幸か不幸か39歳にしてアメリカの会社に転じてしまったので、日本の会社のような忘年会などという我が国独得の「何でも皆でやろう」という文化というかものの考え方をしない世界に入っていたので、そういうスルーするもしないもない会社暮らしをしていた。しかも、私は体質的にもアルコール飲料を受け付けないので、忘年かどころか所謂飲み会は言うに及ばず、接待での飲酒は苦痛に近いものがあった。それだけに、最早50年近くも離れていたそういう世界のことが、その「スルー」という話を聞いて寧ろ懐かしく思い出されたのだった。

確かに、その当時でも上司と飲みに出掛けることや、忘年会か新年会等々は出来ることならば回避したい方だった。だが、あの時代では「私は行きません」などとは到底言い出せるものではなかった。それが時移り人変わり「堂々とスルーする人たち」が出てきたという話は、陳腐な言い方をすれば「将に時代が変わったのか」と受け止めるのだった。従って私にも5時を過ぎてからの自分の自由を奪われることなど受け入れられないという気持ちは解らないでもない。

若かりし頃はそういう金の使い方が会社乃至は部門の予算内なのか、あるいは上司の胸先三寸にあるのかなど解らなかった。だが、何時の日か自分がそういう地位に立たされたらどうすれば良いのかななどと考えたこともなかった。しかし、再び「幸か不幸か」と言うが、そういう心配を全くする必要もない異文化の世界に何も知らずに移っていったので、そういう懸念があったことすら忘れていた。個人の主体性に依存し尚且つ車社会のアメリカの本社では、部乃至は課員全体が集まって飲食をすることなどあり得ないのだった。

では「日本(と言うか東京)の事務所では話が違うのではないのか」と訊かれそうだが、本社の各事業部を代表する駐在員の集合体であれば、全員の都合が揃って社外に飲食に出向くなどという機会などは、余程強制しない限り先ず起こりえなかったのだ。という次第で、我々にとっては「スルーするもしない」もなかったのだった。何とか記憶をたぐってみると、そう言えばクリスマスの日だったか24日には全員が放課後に会議室に集まって、一寸したおつまみで乾杯して終わりということはあったと思う。終了後には仕事に戻った者もいたと記憶する。

だが、よく考えてみれば何でも「皆で一緒にやろう」とか「一丸となって」という基本的な精神がある我が国で、5時以降の自分の時間を取られたくないという考え方をする世代が現れたということは、矢張り「時移り人変わり」なのだろうと思わせてくれる。私は飽くまでも個人の能力を基本にしているアメリカ式と、我が国のテイームワークかまたは皆が一丸となってという企業社会の文化を破壊してまで、個人の自由を優先するのもどうなのかなとは思っている。

上記のように考えて見れば、W社ジャパンが採用していたような方式で軽く済ませて「今年はご苦労様でした」と上司が全員の労を労って済ませる妥協点もありはしないかと思うのだが。その後で自費ででも飲みたい者たちが集まって繰り出せば良いのでは。だが、この考え方も「一丸とはならない」アメリカ式だと批判されそうだ。

ここで矢張りカタカナ語批判をしておくと「スルー」即ち“through”は「副詞」であり、それを恰も動詞のように使っているのは「単語の知識偏重」の我が国の英語教育の問題点を浮き彫りにしていると思う。ジーニアス英和辞典には「・・・を通り抜けて」が真っ先にあり、次は「・・・を貫いて」と出てきている。「忘年会をパスする」との意味で使うのは無理があると思う。因みに、Oxfordには“from one end or side of ~ to other”とある。思うにサッカーでいう「スルーパス」辺りの応用編だと思って製造業者が編み出したのではないのかな。