新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私と英語の関係

2019-12-27 15:42:55 | コラム
気が付けば英語論の道に迷い込んでいた:

私は戦後間もなくから学校での英語の勉強以外に「英語で話すこと」の道に入り込んで行かされていた。それは母親が「これからは英語が出来なければならない時代になるから」と言って、知人だったGHQの秘書の日系人の方に「英語が話せるようになるように」と、毎週のように土日に当時藤沢の鵠沼海岸の近くだった我が家に時に休息に来られた時に、私には英語だけで話すように依頼されたのだった。この言わば“direct oral method”方式が、学校での英語の勉強と同時進行で確か高校2年頃まで続いていた。これは幸運の第2号だったと思う。


私の湘南中学は英語教育が優れていることで知られていたと思う。これまでに何度も触れたが、旧制中学1年の時に初めて英語を教えられたのが今日で言うハーフの先生で、今にして思えば正確なアメリカンイングリッシュの発音を仕込まれたのだったが、これこそが私の英語についての第1号だった。それまで見たことも聞いたこともなかった英語の発音を唯々真似ていただけで、何時の間にか身に付いていたのだった。いや、訳も解らずに教えられた通りにしただけだったと言うべきかも知れない。

こういう次第で実際には高校1年くらいの頃には、もう何と言うことなくアメリカ人と普通に英語による意思の疎通が出来るようになっていた。即ち、英語で話している時は頭の中が英語に切り替わっていたということ。更に既にその頃には文法だの英文和訳などが面倒で、言うなれば「手抜き」で音読・暗記。暗唱だけでも英語だけは人並み以上の成績が残せるようになっていた。これは後からつけた理屈だが、「言葉が先にあって文法などは後からついてきたものだから、暗記・暗唱が出来れば自ずと解るようになるはず」と割り切っていた。事実、高校3年の頃には「文法の神」と豪語していた。

その間には、我が国で広く行われていたと思う単語帳や単語カード等による単語の勉強は一切せずに、英語で話すことと音読・暗記・暗唱の流れの中で「この言葉はこのように使う」という覚え方をしていた。この方法は後に「単語という部品をバラで覚えても正しい英文は構成できない。全て流れの中で使い方を学ぶべし」という理屈にしたのだった。では英語をどのように使っていたかと言えば、三越・銀座支店でのアメリカ兵相手の売り場での正味3年間のアルバイトと、大学2年の終わりに経験したアメリカ人の真珠のバイヤーの通訳をした1ヶ月間だった。

ここが幸運の第3号でアメリカの兵隊たちの文法も何もない汚い英語に接することが出来たので、「彼らのような言葉を使ってはならない」という教訓を得たのだった。更に幸運の特別号は上智大学の千葉勉教授に厳しく指導された「発音は正確であるべきで、文法を間違えたり、言葉を誤用したり、連結音を知らなかったりすれば、英語の世界では無教養や下層階級として蔑まれる」点だった。この階級論はアメリカの会社に転進してアメリカ独得のアッパーミドルの人たちと接して痛感させられた。何物にも代えられない教えだった。

遺憾なことは、我が国の学校教育ではこの千葉先生のような教え方はされていないとしか思えない点である。この辺りに私が英語教育改革論を唱えるようになった要因の一つがあると思う。それは如何なる意味かと言えば、我が国の中でも育ちや階層によって言葉が丁寧であるか乱暴であるかの違いがあるのと同様に、我が国以上に階層がハッキリと分かれているアメリかでは、我が国以上に話し言葉の品位が変わってくるのだ。解りやすく(もしかすると解り難いかも)言えば、下層に行けば行くほど“swearword”が多用されるし“you know”がやたらに挿入されるのだ。

私は大学卒業前にはある程度以上に英語で話せるようになっていたが、英語を使って仕事をした経験があったので就職は普通の日本の会社に採用して頂いた。そして17年近くもの間は国内市場の営業を担当していた。それが何度も述べてきたように本当に偶然の積み重ねで、思ってもいなかったというか、英語を使う仕事はしたくなかったにも拘わらず、アメリカの紙パルプ産業界の大手メーカーに転進してしまった。そして、転進の2社目になったのがW社だった。これらの2社で22年半も過ごしたのだった。

これまでに何度も触れたので詳細は省くが、そこでぶつかった壁は先ず日常的に使ってきた英語と企業社会での英語との違いだった。この点は日本の企業社会でも同じだと思うが、一流の企業では、社員はそれに相応しい品格がある言葉遣いが求められるという意味だ。次は企業社会における文化の相違である。この壁の方が厚くて高かったと思う。これを乗り越えるのには相当の英語力が必要だったと思う。ここでの教訓は「自国の文化を知らないと、他国の文化は見えてこない」ということだった。把握するまでには15年近くを要した。

更なる教訓というか実感は「私のようなnative speakerの中に入って、彼らの一員として徹底的に働く必要がある場合にはかなり深く広く突っ込んで英語を勉強し、文化の違いまで把握する必要があるが、普通に日本で企業社かに身を置かれているような方々には、ここまでの次元の英語を習得する必要などないだろう」という辺りだ。これも何度も指摘して来たことだが「普通に日本で暮らす方が、アメリカのIvy league等でMBAなり何なりの学位を取っていたアッパーミドルかそれ以上の人たちと対座し、意見交換か議論をする機会など先ずあるまい」と思う。即ち、その次元までの英語力習得を目指すことは不要ではないかという意味だ。

ここで何が言いたいのかなのだが、我が国の英語教育では何処までの英語力をつけさせることを目指して教えるべきかという点だ。私は繰り返して「万人に強制すべきではない」と言ってきた。「外国に行って買い物が出来たり道を尋ねることが出来るだけが英会話ではない」とも指摘して来た。実は私は新卒で就職した後は「これからは英語は趣味にすれば良い」と思っていた。しかし、W社の技術サービスマネージャーが高校3年の英語の教科書を見て驚愕したように「英語学者を養成する」必要もまたないと思う。

では、我が国の英語教育を改革するのであれば、少なくとも単語と文法重視は再検討する必要があると思う。次は英語教師の外国人離れした発音を矯正すべきだと思う。それに加えて連結音や千葉先生が言われたr-linkingも教えるべきだ。言葉の分類も品詞だけではなく、slangもidiomも、極端なことも言えばswearwordが存在することにも触れても良いだろう。揚げ足を取れば「この単語のアクセントが来る場所に印をつけよ」というような試験問題は出さないことだ。これは音読に徹底すれば自然に解るものだ。枝葉末節に拘るなという意味だ。そして「音読・暗記・暗唱」は徹底的にやるべしだ、

私はこの方法で何名かは育ててきたし、自分がそうやって来て、アメリカ人の世界で何不自由なく子供の頃からW社内まで過ごしてきた。こういう教え方で何名かの特殊学級でも設けてやってみて、結果が出るかどうかだと思う。ここでは事発音に関しては、アメリカとUKの何れを選ぶかは慎重に考えるべきだと思う。私はアメリカとUKのほぼ中間を採ってきたと思っている。アメリカ式では矢張り西海岸の癖の無い発音が良いと思う。但し、native speakerに教えて貰うのは危険だ。彼らの英語の品格を判断できる人が我が国にどれほどいるかという問題があるから。

私はアメリカの大手紙パルプメーカーの一員として終わったはずだったが、リタイア後には色々と文化比較論やアメリカからの輸入やアメリカの経済等を語ったり書いたりする機会を与えて頂いた結果で、何時の間にか学者でも何でもない単なるアメリカの会社の一員だった者が、英語論や英語教育改革論の道に迷い込んでいたのだった。


12月26日 その2 我が国の英語教育を考えると

2019-12-26 14:20:06 | コラム
何が故に万人に英語を教えようとするのか:

「英語で話せるようにしたいのか」という題名でも良いかと思う。私は日本全国津々浦々に英語学の権威者や英会話の達人がいる必要などないと思っている。そこで、私は本26日の産経新聞に掲載された「時評論壇」の「大学入試改革迷走を憂える」と題した論説委員・岡部伸氏の英語の学習についての記述を興味深く読んで、私の英語教育改革論にも少し触れてみようと思うに至った。

日本マイクロソフトの社長だった成毛真氏も言われたと記憶するが、誰も彼もが英語で話せるようにする必要もないと論じておられた。元新日鉄副社長の古賀憲介氏は「小学校から英語教育をと決まった」と嬉々として語った教育審議会(と言う名称だったか)の委員の発表を聞かれた後で、個人的に私に「万人に強制するべきことではない」と呟かれたのだった。この「小学校から」は愚かであると何度も何度も述べて来た。それは「現在の教育法をそのまま小学校に降ろしだのでは効果が挙がる訳がない」と思うからだ。

議論でも主張でもないが、私は1945年の旧制中学の1年生だった私に「英語だけで考えなさい。日本語に訳そうとしたり、言いたいことを先に日本語で考えてから英語にしようとしては駄目。英語ではこう言う時にはこう言えば良いのだと思って覚えておきなさい」と、何度でも英語だけで語りかけて下さったGHQの秘書で日系人だった方のような能力がある方が、基礎から教えていけば、我が国における英語力は変わって行くかも知れないと信じている。因みに、この秘書の方は完璧な日本語を話され、書道ではどのような書体でも書いておられたほど、日本人以上に日本人だった。

その方に教えられて未だに覚えている、ごく簡単な日常的な言い方を紹介しよう。「そこのタオルを持ってきて」が“Get me the towel over there, for me.”だったり、「この傘を一寸持っててくれる」が“Hold this umbrella for me a minute. Will you?”だった。これらは「タオル」と「傘」を他の言葉に入れ替えれば、応用範囲が広がるのだ。このような勉強法は何も会話だけに使えるだけではないと思って頂きたい。何度でも言ってみて暗記すれば効果は必ず上がってくる。

このような例文で注意すべき点は、“for me”を必ず言わないと「自分の為にと言うか、代わりに」という点が明確にならないという英語独特のしつこさというか、日本語とは違う理屈っぽさだ。私はこのような点を叩き込まれたお陰で、今日があるのだと思っている。

例えば、「貴方の奥様に宜しくお伝え下さい」は、我が国では一般的に“Please give my best regards to your wife, Helen.”のように教えられているようだ。これでは通用しないとまでは決めつけない。だが、ここには“for me”が抜けているので、何処の誰が宜しくと言っているのか表現されていないと看做すのが英語なのである。この言い方は如何にも学校英語風で一寸堅苦しいので、一般的には“Say hello to Helen for me. Thanks.”というような形がごく当たり前のように使われている。これでは丁寧ではないと思う方は、頭に“please”を付ければ良いだろう。

誰かそう言ったかは記憶が定かではないが、「我が国の英語教育を本気で改革したければ、現在の英語教員を総入れ替えすれば良い」という議論があった。尤もであると思わせる点がある。だが、この世には入れ替えるべき能力を備えた教員がどれほどいるのだろうか。嘗て、私の英語教育改革論を渡部亮次郎氏が「頂門の一針」に掲載されたところ、同氏の友人で英語教師のグループを主宰しておられる方に「こんな理想論は非現実的で使えない。第一に、こういう英語を解って教えられる教員はいない」という批判が返ってきたことがあった。

私は現在の教え方が悪いとは指摘していない。それは教えている趣旨が実用的にしようという点にはないので、目指すところが会話能力にはないからだ。そうかと言って、誰も彼もが「英語ペラペラにしよう」と言うのもおかしな話なのだ。英語を極めてそれを活かす研究なり学問の道に進もうという人とか、外国の企業に進出して世界に羽ばたこうかとか、アメリカで弁護士になろうとか言うような明確な目的を持つ人たちが、懸命にnative speaker並みになろうと勉強すれば良いだけのこと。そこには理性も知性も教養も求められるし、当然のことで文化比較論の理解も必要になる。

そこまでの英語教育をしようとなれば、そこまでのとが出来る英語の教員が何処にどれほどいるのかという問題も生じるのだ。私は外国の会社にはこういう条件に適合する人物がおられるという経験をしてきたが、遺憾ながらそういう能力がある方々には、先ず高校以下の教員の資格がないのだ。かく申す私だって教職課程は取っていなかった。

20年以上も前のことだが、ある公開の席で「生徒たちに優劣の差をつける1から5までの段階の評価をする為に英語を教えているのだ。話せるようにしようとして教えていない」と言い切った女性の教師は偉いと思っている。そのような教育方針で育てられて、海外に出て「英語が通じなかった」と嘆き、学校教育を非難するのは筋が違うのだ。私はそう嘆いていた駐在員の人たちに「日本の学校教育を経てnative speakerと同様に話せたら、それは奇跡であり、その方は化け物でしょう」と言ってきた。「話せるように教えていないのだから、当たり前のこと」と解説した。

そういう教育法を小学校にまで下げていっても結果は変わらないだろうと保証する。また、外国人を連れてきて教えさせるのもほとんど無意味だ。彼らには「我々日本人が英語のどういう点で悩見且つ苦しんでいるかなど解る訳がない」のだから。これ以上は長くなるので別の機会に譲るが、要するに「何処の馬の骨かも解らない食い詰め者の外国人しかここまで来ない」と知って貰いたいのだ。トランプ大統領の支持層のような人たちの程度の英語を覚えては笑いものになるだけだ。財力も能力も教養もあるMBAやPh.D.が英語教師になろうと日本まで来るかということだ。


秋元司議員の逮捕に思う

2019-12-26 13:17:11 | コラム
野党はその逮捕を聞いてIR法案を葬ろうと言い出した:

私にはこの逮捕の一件で初めてその存在を知った秋元司議員を論じようとは考えていない。だが、我が国にIRなるものが果たして馴染むのかという方が気になるのだ。ましてや立憲民主党の安住某がこの機会に廃案に持ち込もうと得々として語っていた方が、その何でも機会があれば安倍内閣に反対という間抜け振りの方が面白かった。話の筋が違うと思う。仮に秋本議員が収賄していたとしても、そのこととIR法案が悪いか否かとは別のことではないのか。


私はかのカジノの聖地・ラスベガスには1994年2月に言わばアルバイトで、2005年11月にパック旅行で行ったことがある。そこでそれなりに如何なる場所であるかは解っている。念の為にお断りしておけば、在職中にはついぞこういう所に出張する機会には恵まれなかった。ニュージャージー州アトランテイック・シテイには1976年に出張で訪れる機会があったが、その頃にはここにカジノが設けられるという程度のことだった。

そこでラスベガスである。あの場所をカジノ(casino)だけで成り立っていると思われたら誤りであろう。2度の訪問の間には11年の開きがあるが、2005年に2泊したラスベガスは大きく変貌して、平面的に大成長していたのには驚かされた。ストリップ(Strip)と称されている言わばメインストリートの両側にも、ラスベガス空港の近くにも確かにカジノ付きのホテルは増えていた。だが、その目抜き通りには我が国で言うブランドショップが建ち並び、ショッピングセンターも出来ていたのだった。明らかにカジノだけが売りではないという印象だった。

この時はパック旅行だったので、現地でついたガイドは日本人で話が解りやすかった。彼が語ったことは「今や年間3,000万人もの人々が世界から訪れてくる。だが、そのうちの精々10%がカジノを目当てにしているだけだ。残りの圧倒的大多数は買い物とグランドキャニオン観光の中継基地としてやって来ているのだ」だった。現に我々お上りさんの団体はLAX(ロスアンジェルス空港)から一気にラスベガスを抜けて直ぐ近くのホテルに泊まり、翌朝のご来光に備えたのだった。そしてグランドキャニオン観光を終えてからラスベガスに宿泊すべく下山した。

我々夫婦は勿論折角泊まったホテルのカジノには目もくれずに、自由時間を活かして観光と僅かばかりの買い物を楽しんだのだった。94年の訪問の時は請け負った仕事でカジノで遊ぶどころではなかった。だが、アルバイト先の若き社長がカードのゲームでしてやられてい行く場面をゆっくりと観察させて貰った。これは大変勉強になって、如何にカジノでは損をするようになっているかが解ったのだった。元々賭け事には弱い私には不向きだと確認できたという意味だ。

ラスベガスにはストリップを中心に、高価なデザイナーブランドの品物を我が国で買うよりも経済的な値段で買える店が驚くほど数多くある。だが、多くの観光と買い物の客を惹き付けているのは繁華街と、言わば郊外にあるアウトレットモールなのである。郊外の方が我が国のアウトレットモールに近くデザイナーブランド店が多いが、もう一方はアメリカンブランドの宣伝の為の店が多いという印象だった。郊外の方は市内を縦横に張り巡らされているバス路線を上手く乗り継げば当時は4ドルで行けたし、6ドルの一日乗車券を買えば、より経済的に見に行けたのだった。

ここまでで何を言いたかったかと言えば、そもそも砂漠の中に設けられているラスベガスは、限りなく広い土地を活かしてカジノ付きのホテルと言うべきか、カジノに宿泊設備をつけたのか知らないが、土地の広さが有効活用されているのだと思った。特に、アウトレットモールにはその土地広さが活かされているのだ。勿論繁華街には各種のレストランがあって、日本食の「浜田」(といったか)も繁盛していた。その土地の広さがカジノに加えて買い物と食事を楽しませるように変貌していったと私は見た。

その土地の広さは我が国では如何なる事をしても真似が出来ないのだと思う。例えば横浜市が計画しているあの山下公園付近では、一体何軒のカジノが建設できるのか。仮令複数出来たとしても、その敷地内に魅力ある買い物街が敷設できるのか。カジノで勝った人たちが敷地内のホテルでは満足できずに中華街や伊勢崎町や元町に出て買い物をされたら何にもならないのではないだろか。更には中華街から地下鉄に乗れば原宿でも渋谷でも行けてしまうのだ。言い方を変えれば「買い物の魅力がないカジノ中心の街作りをして何になるのか」という疑問である。

要するに、私は空いている膨大な面積がある土地を有効活用しようというのであれば、意味があるかなと思っている。宿泊設備にしたところで、ラスベガスのホテルはそのブランドの割りには低価格で泊めてくれるのは「その分をカジノで使って下さい」という意志の表現だと聞いた。その為か、客室内はぶっきらぼうで、所謂アメニテイーグッズなどは十分に備えられていなかった。しかし、94年に滞在したMirage(蜃気楼、幻想、幻覚の意味)という名称も面白かったが、真夜中に開催されたジークフリートのマジックショーなどは素晴らしい出し物で魅了された、我が国でそういうアトラクションまで出せるのだろうか。

IR法案を出した方たちは、こういうラスベガスのような所を何処まで視察し、学んでこられたのだろうか。誘致しようという都市は(空いている)「土地の広さ」という武器を持っているのかなとかなと考えてしまう。例えば、横浜がどうしても誘致するというのであれば、副都心線の一日乗車券でも用意するか、江ノ島や鎌倉の観光コースでも考えないと、何処にも多額の金が落ちないことになりはしないか。他にも言いたくもないが、外国人を呼びたいのであれば「言葉の問題」も出てくるのではないのか。

何れにせよ、私には縁がないことだから、四の五の言うことではないとは思う。だが、ラスベガスだけを見てきた僅かな経験から言えば、我が国には秋元司議員の事件があろうとなかろうと、カジノは余り馴染まないことのように思えるだがね。私は1994年に試しに遊んでみたスロットマシンに投じるコインの枚数を見誤って折角7が並んだのに1ドルにもならず、結果として30ドルを失って終わっただけでだった。




12月25日 その2 格闘技2話話

2019-12-25 14:54:25 | コラム
興味深いものだった:

ボクシング:
先ずは先日の村田諒太(33歳)対カナダのバトラー(24歳)のミドル級のタイトルマッチ。挑戦者のバトラーというのが若いだけに、どれほど年齢の利点を活かして村田に向かっていくかとやや不安感があった。しかもアナウンサーが彼の30戦で1敗だけというのを強調し過ぎるのもイヤな感じだった。だが、当方は村田のKO勝ちを信じて観戦していた。確かに若さを誇るバトラーの右ストレートだかは強烈だったようで、試合後のインタビューでは村田の左目の周りは紫色になっていた。

しかし、村田は5ラウンドの45秒しか残っていなかったところで右からの連打に次ぐ左の強烈な一発をバトラーの顎に見舞って「ドカーン」というような音が聞こえたと思ったほどの倒れ方でバトラーをTKOで倒してくれた。見事な勝利で胸がすく思いだった。私はどうしても刺青の文化が広まっていない国に育ったので、あのバトラーのような背中に大きな彫り物があるような選手には嫌悪感を覚えて、我が国にその筋の者たちのお仲間かと思ってしまう。それはそれとして、村田諒太を褒めて良いと思う。

ここで話題を得意の分野である英語に持っていこう。以前にゴルフの(と断るまでもないか)石川遼がアメリカに渡って“ryo”と綴る名前はアメリカ人にはどうしても「リオ」としか発音できないのだと聞いたことがあった。私の経験の範囲内ではそういう問題が起きたことがなかったので、あの村田の試合に呼んだアメリカの著名なリングアナウンサー氏が“Ryota Murata“をどう発音するかに一寸興味があった。実際には何度も何度も「リオタ」としか言えていなかった。なぜそうなってしまうかは未だ調査も研究もしていない。

空手の組み手:
これも、つい先日偶々チャンネルが合って観戦した極真空手の選手権試合の組み手の決勝戦でのことだった。延長戦まで行っても旗判定では決着がつかずに板割りで決めようとなった。だが、これも確か両者が同じ20枚を割って再再再度の延長戦になった。門外漢の私にはあれほど強烈に突き合い蹴り合ったのに、よく痛みに耐えて戦えるものだとひたすら感心していた。「痛くないのか、耐えられるのか」という意味である。

そこでジムで知り合った空手をやっておられると聞いた礼儀正しい武道家に尋ねてみた。答えは「それは組み手で突きが当たれば痛いが、それを痛くないような顔をして耐えている。しかし、数多く当てられれば前半身が内出血していて試合後には耐えられないほど痛いもの。時には重傷でそのまま病院直行ということすらある。特に上段の蹴りなどがもろに当たれば失神しそうなことすらある。また板割りは流派によっても割り方に違いがある。また、板には目があるのでその重ね方で目が不揃いだと割りにくい場合もあるもの」となっていた。

武道である空手をボクシングと比較するのは適切な見方ではないかも知れない。だが、かたや上半身裸で革製のグラブを嵌めて打ち合う方にはノックダウンがあるのに、道着を着用して素手で打ち合う空手では「痛さに耐えて突き合い蹴り合っていると負傷者が出てしまうこともある」という辺りが武道の特徴であると思って承っていた。同時に感じたことは、空手の方には我が国(琉球と言うべきか?)の精神主義が良い意味で濃厚に現れているという点である。礼に始まり礼に終わるという点もその特徴であろうか。