新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日本語と英語では物の考え方が違う

2020-06-28 11:48:46 | コラム
伝聞を聞きに5,000マイルを飛んで来たのではない:

アメリカの企業社会では何をさて措いても「自分の意見を表明すること」が肝要なのである。即ち、「上司に伝聞(“second hand information”)を伝えるな」という世界なのである。この点は私は身を以て経験していた。未だアメリカ式思考体系に不慣れな頃に、出張してきた副社長に先ずホテルでのブレックファスト・ミーティングでの現況報告で、得意先の何方がこう言っていたという件から入ってしまった。すると、直ちに制止されて見出しのように叱責され「君が自分で纏めた報告が聞きたいのだ」と言われた。即ち、「私の“firsthand information”を聞かせろ」と言っているのだ。

この点は私がアメリカのビジネスの世界に入って学ぶことになった思考体系というか、物の考え方の大きな相違点だった。1975年には、我が東京事務所には屡々引用してきたワシントン大学のMBAで副社長補佐だった日系人のJ氏がいて、特に私にはその違いを厳しく指導して貰えたのだった。その辺りについては別途触れたことがあったように、我が国では得意先のご意見を十分に承って上司に報告するのは当然なのだが、アメリカ人の世界では「得意先の意見を代弁する奴」として評価されないのだ。兎に角、「自分がどう考えるかを報告せよ」となる世界なのだ。

そうであれば、我が国の英語教育に登場する皆様がご存じの“It ~ that ~”の構文や、“They say that ~.”や、“It is reported that ~.”や、“I was told that ~.”というような主語が誰だか明確ではない表現や「受け身」を報告に使っても褒められないというか、評価されないのである。それは、彼らの考え方からすれば「伝聞を伝えているに過ぎない」からなのだ。では、どう言えば良いのかだが、私がJ氏に叩き込まれたのが「兎に角、君の意見を言うのだから“I”を主語にした文章にせよ」という点だった。彼は“we”では不十分だと指摘していた。

この点の他に注意しておく必要がある物の考え方の違いがある。彼等は「人はそれぞれに異なる物の考え方をしているので、皆が同じ意見を述べることなどあり得ないと認識している」のだから、各人が恐れることなく自分の意見が全体の流れと異なっていても臆することなく堂々と展開するのである。自分の意見が違うからといって遠慮する者などいないと思っていて良い世界だ。別な見方をすれば「自分の意見を披露しない者などは、その場にいないと同様に軽視される世界」なのである。

J氏が強調したことは「自分の意見や報告が正しいとか誤っているとかは問題ではなく、自分の意見を自分を主語にして上司に報告することが肝腎なのだ」だったのだ。この辺りが何処まで行っても個人が主体であり、個性の世界であるアメリカ式の物の考え方が表れているのだと認識している。私はその「私」を表す報告をするように心掛けてきた為に、リタイア後26年も経ってしまった現在でも「私はこう思う」という形の「私」から入る文章を書く習慣から離れられないのだ。と言うよりも、未だにアメリカ式思考体系を引き摺っているのかも知れない。

このようにして、私はJ氏に言わば“OJT”(=on the job training)のように教しえられなければ、アメリカ式の報告の仕方や、自分の意見を“firsthand informationで報告すべきで、伝聞(second hand)では通用しないとは知り得なかっただろと言うこと。矢張り、我が国の学校教育では何も英語の授業に限ったことではなく、何度でも同じ事を言うのだが、何処かで日本語と英語の思考体系と文化の違いを教えておくべきだと主張したくなるのだ。

重ねて強調して置きたいことは、「彼等アメリカのビジネスマンは当人の意見ではなく、伝聞を伝えているような内容の文章は、仮令文法的に正しくても『伝聞では意味がない』と批判するだけでなく、評価することは先ずない」という考え方の相違点なのだ。この違いには一朝一夕には馴染めないが、兎に角「物の考え方が異なる人たちと交渉しているのだ」ということを忘れてはならないのだ。念の為に強調しておくと、この重要な相違点を、必ずしもアメリカのビジネスマンたちが認識している訳ではないのだ。

しかしながら、私はこのような「“firsthand information”尊重で、“second hand”は駄目よ」との文化比較論は、一般的な所謂「日常会話」の中で問題にされることがないのは言うまでもないので、遍く万人にまで教える必要はないのではないかとも認識している。

視点を変えれば、アメリカでは「個人の主体性」がどれほど重要で、どれほど尊重されるかは大いなる我が国との文化の違いであることは教えておくべきだということ。また、彼らには「皆が一丸となって」であるとか、「テイーム全体が一塊になって」とか「全員野球で」といったような思想は先ずないと思っていて誤りではないということでもある。因みに、我が生涯最高の上司だった副社長兼事業部長は “team effort”とは言ったが、「テイ―ムワーク」にはついぞ触れたことはなかった。


6月27日 その2 シアトル市の思いで

2020-06-27 15:21:23 | コラム
初めてMLBの野球を見る機会を得たプロスポーツの都市シアトル:

MLBの野球:

1970年代の末だったと記憶する。もう老朽化したとのことで取り壊されてしまった、ドーム球場という構造のプロのフットボールの試合も出来る球技場で、シアトルの南の外れにあったKing Domeで初めてアメリカのメージャーリーグの野球を見せて貰えた。やや興奮していたので記憶は確かではないが、事業部が持っていた内野の年間指定席で誰か同僚に案内して貰ったようだった。MLBの野球を見るのも初めてなら、ドームの球技場に入るのも初体験だった。地元もテイームは言うまでもなくシアトル・マリナーズである。

試合が始まって先ず痛感したことは選手たちの体格の良さというか大きいことで、内野のフィールドが狭く見えたのだった。この頃は未だMLBには南アメリカから来た者が少なく、現在のような私が「身体能力ショー」と揶揄するような身体能力任せで質が低くなった野球ではなく、「これぞアメリカ大リーグの野球か」と感動させてくれるような鮮やかで華麗で緻密な野球が展開されていた。その時の試合で最も感動したのが、オールスター戦にも選ばれていたと聞いた2塁手(確かアフリカ系)の華麗にして軽妙な守備だった。「流石」と唸らせられたものだった。

80年代に入ってからは副社長兼事業部長がホームベースの真上(真後ろ?)になるボックス席を取っていたので、投手が投げる球種までが見える特等席で観戦することが出来るようになった。その席には何度か日本からのお客様もご案内して「アメリカの文化である大リーグの野球」を堪能して頂いたものだった。当時で記憶に残っている名手は結局はヤンキースに出ていってしまったアレックス・ロドリゲスの強打や、華麗という以外に形容する言葉を知らない親子でメージャーリーガーだったケン・グリフィーJR.の守備だった。

念の為に申し上げておけば、大魔神こと佐々木主浩は2000年からシアトルマリナーズで活躍し始めたので、同年の4月に今や名前が変わってしまったSafeco Fieldで見たのが初めてで最後だった。かのイチロー君は2001年からのマリナーズ加入なので、2007年に矢張り最初で最後にセーフコフィールドで見たのだが、その試合では外野フライを落球したとのおまけ付きだった。この時は2階席からの観戦だったが、180 cmという身長のイチロー君が現れたときには「何と小さなな選手が出てきたことか」と痛感させられたのは意外と言えば意外だった。

NFLのフットボール:
次はアメリカの三大スポーツの一つである「フットボール」を語ろう。Seattle Seahawksは何故か「シアトルシーホークス」とカタカナ表記されているが、私は「スイホークス」であるべきだと思っている。このNFLのゲームも初めて見る機会を得たときは大感激だった。野球と同様に感謝感激でスイホークスが何処テイームを相手に試合をしたかも、NFLのフットボールがどれほど凄くて素晴らしかの記憶は全く残っていない。広大なキングドームを埋め尽くしたスイホークスファンが興奮したのだけは鮮明に覚えているが。

フットボールには何回か日本からのお客様もご案内したが、俗に言う「ルールが良く解らないので」ということで、MLBの野球ほどには受けていなかったのは残念だった。正直に言えば、「ルールも何もかも理解するようになれば、フットボールほど面白く見る者を感動させ興奮させるスポーツはない」と固く信じている。だから、私はフットボールのシーズンに入ってから本部出張があれば、副社長の秘書に「何とか観戦できるような日程を組んで欲しい」と頼み込んでいたし、ご案内するお客様がおられるときにも無理矢理に観戦に引っ張り込んでいたものだった。

念の為に確認しておくとアメリカには「アメリカン・コーヒー」がないのと同様に「アメリカンフットボール」という呼称はない。フットボールといえば“football”のことである。

NBAのバスケットボール:
最後は八村塁君が加入したNBAのバスケットボールだ。往年のシアトルには“Seattle SuperSonics“(通称「ソニックス」)という有力なテイームがあった。我が事業部も年間指定席を持っていたので、何試合か見る機会を得ていた。バスケットボール場は都心からそれほど遠くないシアトルセンターという施設の中にあるので、気軽に観に行けたのだった。NBAのバスケットボールもそれこそ身体能力の塊のようなアフリカ系の選手が主体なので、その凄さは十分に堪能できるのだ。だが、見る者にとっては一つだけ難点があった。

それは、あの狭いバスケットボールのコート内では「今のダンクシュートは凄かったな」とか「あのポイントガードのノールックパスは流石だな」と感激している間に、もう次のプレーが始まっていて、またまた凄いプレーが展開されてしまうのだ。その為に、直前のシュートやパスの凄さや上手さに浸っている暇を与えてくれないのだ。ましてや現場で観ていれば、テレビ観戦とは違って「ビデオテープでもう一度」という具合に再生して貰えないのだ。それほどのスピード感と技術と彼らの瞬発力を観て楽しむ競技だという事。

これらの三大スポーツのテイームがあのどちらかと言えば、アメリカの都市としては小さな部類に入るのではと危惧するシアトルには全部揃っていたのは大いに有り難がった。何と言っても本場の試合を年間指定席で観戦できる贅沢さを味わえたのは、当時はアメリか第2位の紙パルプ林産物メーカーであり、地元の有力企業だったウエアーハウザーの有り難さかと思って感謝していた。だが、ソニックスは2008年からオクラホマ州に移転して、“Oklahoma Thunder“になってしまったのは残念である。


新型コロナウイルスに感染しない為の防御策

2020-06-27 09:43:46 | コラム
結局は人混みを避ける事か:

昨26日は前立腺肥大の経過観察と診断があって、国立国際医療研究センターの泌尿器科に出掛けた。先月とは異なって入り口と出口が別けられて、入り口では看護師さんが検温するのではなくサーモグラフィーカメラの前に立って検温する形に変わっていた。これで相当な数の看護師さんが節約できたようだった。今回も明らかに患者の数が少ないようで、会計の窓口に会計票を提出した時点で「計算は出来ていますから、このまま自動支払機にどうぞ」と言われてしまった。矢張り多くの人は病院には感染の危険があると思っているようだと感じた。

泌尿器科の主治医の先生とも短い会話をして気が付いた事は「新型コロナウイルスの感染を如何にして防ぐか」には余り複雑な策を講じる必要はないようだという事。テレビには連日多くの権威ある大学教授や著名な先生方登場されて色々と教えて下さってはいるが、それらを全て注意深く聞いて事細かに守っていては、気楽に生活も出来ないようになってしまうのではないかと感じる事すらある。そこで、そういう先生方の指示ではなく、私が方々の病院やクリニックで診て頂いた際に、現実に毎日患者さんを診察しておられる先生方の仰った事を纏めてみた。

それは「満員電車で感染したという症例は聞かないが、バスの中ではあったようだ」という辺りから始まって、結局は「人混みを避ける事が肝要だ。手は小まめに洗う事。マスクの着用は必要だが誰も歩いていない場所では外していても構わない。確かに“ソーシャル・デイスタンス”(アメリかでは“safe distance”という表現もある)は守るべきだが、2 mは必ずしも厳守せずとも良い場合もあるのでは」のようになった。

「人混みを避ける事」は私のように最早引退生活である高齢者には可能だが、現職で仕事上も動き回っている人たちにはそうは行くまいと思う。だが、そこに現れたのが「テレウワーキング」である。聞くところでは、ある程度以上の規模の会社では予想以上の速度で普及していて、今や敢えて先方に出向くとか会いに行かないでも事が済む仕掛けになってきているそうだ。これ即ち、「人混みを避ける」が、実施段階に入っている事だと思って聞いた。それどころか、事務所のスペースが不要になって行くという貸しビル業界にとっての危機すら取り沙汰されているとも聞いた。

この例から考えても、新型コロナウイルス感染の防御策を推し進めていくと、会社の運営方針や事務所そのものの在り方が変わっていくかも知れないという、所謂(私の好みの言い方ではないが)「社会にはコロナ後には如何なる変化生じているだろうか」との問い掛けに対する答えの一部が顕在化しているように思えてならない。現に、私は昨日の朝は病院までバスで10分の距離を安全策を採ってタクシーに乗っていった。安全だとは思うが、それは運転手さんは感染していないという前提である。帰路は偶々都合が良かったバスを利用したが、危険だっただろうか。



6月26日 その2 シアトル市の余談

2020-06-26 16:59:32 | コラム
西海岸1位の料理人とUW:

“Shiro-san”:
先ほどシアトルでは海鮮料理が美味いと言ったが、そこには西海岸の料理人の人気投票で第1位だったと聞く、樫葉四郎さんがいた。彼の地では“Shiro-san”で通っていた。私が70年代に彼の和食料理店の“Nikko”(=「日光」)を教えられた頃は町外れにあったが、その名声の高まりと共に市内に移転して、中々予約が取れない大人気店となっていた。特にShiro-sanの英語での巧みなギャグというか寿司を握る合間のユーモアに溢れた語りには、アメリカ人のお客も魅せられていた。勿論、駐在員の間でも圧倒的な人気があった。

だが、Nikkoは出店していたホテルとの話し合いが不調となって、四郎さんは一時はケータリングサービス、即ち、出張サービスだけの時期があった。その当時は我が事業部も日本からのお客様の接待に大いに活用して「何も日本からアメリカに来られた最初の夕食に寿司でもあるまい」などと言いつつも、太平洋で取れた新鮮なネタが大歓迎されていたのだった。その後、樫葉氏は復活されて市内に“Shiro’s”を開店されたので、2000年にも2007年にも訪れて、彼独特のユーモアを寿司と共に楽しんだのだった。

UW:
次に採り上げたいのが“UW”、即ち University of Washingtonである。現地では“UW”を「ユーダブ」と発音している。シアトル市の北部にあるワシントン大学(州立)のこと。これまでに何度か採り上げた事で、アメリカの大学の格付けではIvy Leagueに代表されるような私立大学の評価が高く、州立大学は一格下のように見られている。私が知る限りでは、UWは全アメリカでも評価は高い方である。特にフットボールでは、アメリカ中でも強豪大学の一角にランクされている。

私が採り上げたいのはそのUWの“Husky”(ハスキー犬、即ちエスキモー犬)のニックネームで有名な強豪のフットボール・テイームであり、7万人収容の“Husky Stadium”である。私が驚かされたのは、そのスタジアムの規模である。我が国に野球場は数あれど、7万人収容というのは聞いた事がない。それがアメリカに行くと州立大学のフットボール専用の球技場が7万人の能力があり、それが常に満員の観客を呼んでいるのだ。初めて連れて行かれたときには、その大きさに度肝を抜かれた。

話はそれだけでは終わらなかった。スタジアムは湖畔に建っている格好で、そこに自家用のクルーザーでやってくる観客が数多くいるのだった。「なるほど、アメリかでは何事もスケールが大きいのだ」と感心し且つ圧倒された。初めての時は、ハスキース対UCLAブルーインズという大変な人気校の対戦だった。だが、UCLAがフィールドに現れるや否や、観客全員が大ブーイングで出迎えるのだ。と言えば嘘で、スタンドの片隅にはUCLAのファンもいるのだが、それには気付かないほどに地元テイームが歓迎されるのだ。

私は2010年1月にカリフォルニア州で9万人収容のRose Bowl Stadiumでも観戦の機会を与えられたが、ここでは試合終了後に駐車場から出られるまでに30分を要した。同様に、ハスキースタジアムでも脱出までにかなりの時間を費やしたものだった。アメリカの大学ではこのような巨大なスタジアムで開催する試合が有力な収入源になっていると聞いているが、その商業主義というか何というか知らないが、規模の大きさには感じ入るだけだ。矢張り「これぞアメリカ」と思わせられるので、樫葉氏と共に採り上げた次第。



我が懐かしのシアトル市

2020-06-26 14:24:42 | コラム
My dear old Seattleを回顧する:

アメリカ全土に人種差別反対の“Black Lives Matter”のデモが広がって行ったという状態にも、私は少なからず驚かされていた。そこに我が懐かしのシアトル市に「自治区」なものが出来て、銃撃戦まで展開されたとあってはことの意外さと驚きは倍加した。私にとっては1974年から慣れ親しんできた静かで綺麗で安全なシアトルと、そういう騒擾とはどうしても結びつかないのだ。

そこで、我が懐かしのシアトル市を振り返ってみようと思うに至った。シアトル市(Seattle)はアメリカ西北部のワシントン州の海沿いにある言わば小さな都市である。私がW社に在籍していた1994年頃まではその人口が50万人で、周辺の市内への通勤区域となる都市等を加えて、「グレーター・シアトル」と呼ばれていた地域の人口が100万程度だった。しかしながら、シアトル市はその環境の良さ、安定した治安、整った教育環境、優れた住宅事情、美味な海鮮料理等々のお陰で、長い間アメリカ全土で最も住みたい街の人気投票で1位の座を維持してきていた。

事実、その治安の良さは私が知る限りのアメリカ国内でも群を抜いていて、家内に昼間では単独で中心街というか繁華街(何故か“down town”と言うが)を歩き回っても大丈夫だと許可していたほどだった。しかしながら、1990年代でもシアトル市民たちは人気投票が1位であることを迷惑がっていた。それは、その人気に惹かれて必ずしも歓迎する訳ではない人たちまでが移り住んでくる傾向が止まらなくなってきたから。実際に、私が2007年に最後に訪れたときには、グレーター・シアトルの人口は300万人に膨れ上がってしまったと聞かされたし街の風景も大きく変化していた。

即ち、語弊があるかも知れない表現になるが、1990年台までとは異なって市内には少数民族が著しく増えていたのだった。また、90年代でも既に渋滞気味だった空港から市内への交通は著しく悪化して、以前は20分もあれば到着した空港バスが1時間もかかってしまうほどになっていたのだった。2000年の4月でも既に酷い渋滞で、私は余裕を見てあった夕食の約束の時刻に遅れそうになったほどだった。

上述のように、以前は少数民族もアフリカ系アメリカ人も極めて少ない街で、そういう人口構成と治安が安定等々に加えて、ボーイング社と我が社が地域の2大雇用主(“employer”という表現になるが、“job”を提供する会社とお考え願いたい)して評価され、職が安定した働きやすい都市だったのである。当時はボーイング社は本社を構えており、我が社は市内から40 kmほど南のTacoma(現在はFederal Way)に本社を置いていた。

ところが、私として生涯最後になるだろう2007年に訪れた際に、市内を歩いて最も驚かされたことがあった。それは、街中で見かける者たちの階層が大きく広がっていた事だった。既に触れた事で、以前よりも少数民族が急増していたのだった。その為だとまでは言えないが、市内を歩く際には十分に注意せねばなるまいかと感じさせられた。また、何軒かの有名なブランド店が消えていたのも不安な材料だった。我が定宿だったFour SeasonsもFairmont Hotelに変わっていた。

住宅地にも触れておこう。市の郊外の湖畔にはビル・ゲイツ氏の数万坪の有名な豪邸があり、その湖に浮かぶMercer Islandと言う島には、有名な超高級住宅地があり、かのイチロー君も豪邸を持っていると言われている。私の元上司夫妻もここの住人だった。また、シアトル市の郊外には日本からの駐在員の方たちが多く住んでいると聞く、治安も良い高級住宅地帯もあって、とても住みやすい都市だと聞かされていた。

そのどちらかと言えば中産階級の人たちの街だという印象しかなかったシアトルで、デモが盛んになり「自治区」とやらまでが出来上がったというニュースには違和感こそあれど、私が慣れ親しんできたシアトルとはどうしても結びつかなかったのだ。アメリカ人たちがごく普通に拳銃を所持しているとは承知しているが、銃撃戦とまで報じられては「どうなってしまったのだろうか」と感じるだけだ。しかも、我が社は8代目のCEOだったジョージはパパブッシュ大統領とはYale大学で同期の親友で、バリバリの共和党支持の会社なのだ。

私には今となっては想像するしか出来ないが、古くからの市民が嘆いていた「人気投票のお陰で方々から多種多様な者たちがが移住してきて、街の雰囲気を変えたのでは・・・」くらいしか、“Black Lives Matter”のデモが行われる訳が思い当たらないのだ。因みに、ボーイング社は本社をシカゴに移してしまったし、我が社は3年前に紙パルプ事業部門を整理し有名な本社ビルをも売却して、1900年に創業した当時の木材会社に戻って、シアトル市内の貸しビルに入っているそうだ。矢張り「時代が変化した」ようなのだと痛感している。