伝聞を聞きに5,000マイルを飛んで来たのではない:
アメリカの企業社会では何をさて措いても「自分の意見を表明すること」が肝要なのである。即ち、「上司に伝聞(“second hand information”)を伝えるな」という世界なのである。この点は私は身を以て経験していた。未だアメリカ式思考体系に不慣れな頃に、出張してきた副社長に先ずホテルでのブレックファスト・ミーティングでの現況報告で、得意先の何方がこう言っていたという件から入ってしまった。すると、直ちに制止されて見出しのように叱責され「君が自分で纏めた報告が聞きたいのだ」と言われた。即ち、「私の“firsthand information”を聞かせろ」と言っているのだ。
この点は私がアメリカのビジネスの世界に入って学ぶことになった思考体系というか、物の考え方の大きな相違点だった。1975年には、我が東京事務所には屡々引用してきたワシントン大学のMBAで副社長補佐だった日系人のJ氏がいて、特に私にはその違いを厳しく指導して貰えたのだった。その辺りについては別途触れたことがあったように、我が国では得意先のご意見を十分に承って上司に報告するのは当然なのだが、アメリカ人の世界では「得意先の意見を代弁する奴」として評価されないのだ。兎に角、「自分がどう考えるかを報告せよ」となる世界なのだ。
そうであれば、我が国の英語教育に登場する皆様がご存じの“It ~ that ~”の構文や、“They say that ~.”や、“It is reported that ~.”や、“I was told that ~.”というような主語が誰だか明確ではない表現や「受け身」を報告に使っても褒められないというか、評価されないのである。それは、彼らの考え方からすれば「伝聞を伝えているに過ぎない」からなのだ。では、どう言えば良いのかだが、私がJ氏に叩き込まれたのが「兎に角、君の意見を言うのだから“I”を主語にした文章にせよ」という点だった。彼は“we”では不十分だと指摘していた。
この点の他に注意しておく必要がある物の考え方の違いがある。彼等は「人はそれぞれに異なる物の考え方をしているので、皆が同じ意見を述べることなどあり得ないと認識している」のだから、各人が恐れることなく自分の意見が全体の流れと異なっていても臆することなく堂々と展開するのである。自分の意見が違うからといって遠慮する者などいないと思っていて良い世界だ。別な見方をすれば「自分の意見を披露しない者などは、その場にいないと同様に軽視される世界」なのである。
J氏が強調したことは「自分の意見や報告が正しいとか誤っているとかは問題ではなく、自分の意見を自分を主語にして上司に報告することが肝腎なのだ」だったのだ。この辺りが何処まで行っても個人が主体であり、個性の世界であるアメリカ式の物の考え方が表れているのだと認識している。私はその「私」を表す報告をするように心掛けてきた為に、リタイア後26年も経ってしまった現在でも「私はこう思う」という形の「私」から入る文章を書く習慣から離れられないのだ。と言うよりも、未だにアメリカ式思考体系を引き摺っているのかも知れない。
このようにして、私はJ氏に言わば“OJT”(=on the job training)のように教しえられなければ、アメリカ式の報告の仕方や、自分の意見を“firsthand informationで報告すべきで、伝聞(second hand)では通用しないとは知り得なかっただろと言うこと。矢張り、我が国の学校教育では何も英語の授業に限ったことではなく、何度でも同じ事を言うのだが、何処かで日本語と英語の思考体系と文化の違いを教えておくべきだと主張したくなるのだ。
重ねて強調して置きたいことは、「彼等アメリカのビジネスマンは当人の意見ではなく、伝聞を伝えているような内容の文章は、仮令文法的に正しくても『伝聞では意味がない』と批判するだけでなく、評価することは先ずない」という考え方の相違点なのだ。この違いには一朝一夕には馴染めないが、兎に角「物の考え方が異なる人たちと交渉しているのだ」ということを忘れてはならないのだ。念の為に強調しておくと、この重要な相違点を、必ずしもアメリカのビジネスマンたちが認識している訳ではないのだ。
しかしながら、私はこのような「“firsthand information”尊重で、“second hand”は駄目よ」との文化比較論は、一般的な所謂「日常会話」の中で問題にされることがないのは言うまでもないので、遍く万人にまで教える必要はないのではないかとも認識している。
視点を変えれば、アメリカでは「個人の主体性」がどれほど重要で、どれほど尊重されるかは大いなる我が国との文化の違いであることは教えておくべきだということ。また、彼らには「皆が一丸となって」であるとか、「テイーム全体が一塊になって」とか「全員野球で」といったような思想は先ずないと思っていて誤りではないということでもある。因みに、我が生涯最高の上司だった副社長兼事業部長は “team effort”とは言ったが、「テイ―ムワーク」にはついぞ触れたことはなかった。
アメリカの企業社会では何をさて措いても「自分の意見を表明すること」が肝要なのである。即ち、「上司に伝聞(“second hand information”)を伝えるな」という世界なのである。この点は私は身を以て経験していた。未だアメリカ式思考体系に不慣れな頃に、出張してきた副社長に先ずホテルでのブレックファスト・ミーティングでの現況報告で、得意先の何方がこう言っていたという件から入ってしまった。すると、直ちに制止されて見出しのように叱責され「君が自分で纏めた報告が聞きたいのだ」と言われた。即ち、「私の“firsthand information”を聞かせろ」と言っているのだ。
この点は私がアメリカのビジネスの世界に入って学ぶことになった思考体系というか、物の考え方の大きな相違点だった。1975年には、我が東京事務所には屡々引用してきたワシントン大学のMBAで副社長補佐だった日系人のJ氏がいて、特に私にはその違いを厳しく指導して貰えたのだった。その辺りについては別途触れたことがあったように、我が国では得意先のご意見を十分に承って上司に報告するのは当然なのだが、アメリカ人の世界では「得意先の意見を代弁する奴」として評価されないのだ。兎に角、「自分がどう考えるかを報告せよ」となる世界なのだ。
そうであれば、我が国の英語教育に登場する皆様がご存じの“It ~ that ~”の構文や、“They say that ~.”や、“It is reported that ~.”や、“I was told that ~.”というような主語が誰だか明確ではない表現や「受け身」を報告に使っても褒められないというか、評価されないのである。それは、彼らの考え方からすれば「伝聞を伝えているに過ぎない」からなのだ。では、どう言えば良いのかだが、私がJ氏に叩き込まれたのが「兎に角、君の意見を言うのだから“I”を主語にした文章にせよ」という点だった。彼は“we”では不十分だと指摘していた。
この点の他に注意しておく必要がある物の考え方の違いがある。彼等は「人はそれぞれに異なる物の考え方をしているので、皆が同じ意見を述べることなどあり得ないと認識している」のだから、各人が恐れることなく自分の意見が全体の流れと異なっていても臆することなく堂々と展開するのである。自分の意見が違うからといって遠慮する者などいないと思っていて良い世界だ。別な見方をすれば「自分の意見を披露しない者などは、その場にいないと同様に軽視される世界」なのである。
J氏が強調したことは「自分の意見や報告が正しいとか誤っているとかは問題ではなく、自分の意見を自分を主語にして上司に報告することが肝腎なのだ」だったのだ。この辺りが何処まで行っても個人が主体であり、個性の世界であるアメリカ式の物の考え方が表れているのだと認識している。私はその「私」を表す報告をするように心掛けてきた為に、リタイア後26年も経ってしまった現在でも「私はこう思う」という形の「私」から入る文章を書く習慣から離れられないのだ。と言うよりも、未だにアメリカ式思考体系を引き摺っているのかも知れない。
このようにして、私はJ氏に言わば“OJT”(=on the job training)のように教しえられなければ、アメリカ式の報告の仕方や、自分の意見を“firsthand informationで報告すべきで、伝聞(second hand)では通用しないとは知り得なかっただろと言うこと。矢張り、我が国の学校教育では何も英語の授業に限ったことではなく、何度でも同じ事を言うのだが、何処かで日本語と英語の思考体系と文化の違いを教えておくべきだと主張したくなるのだ。
重ねて強調して置きたいことは、「彼等アメリカのビジネスマンは当人の意見ではなく、伝聞を伝えているような内容の文章は、仮令文法的に正しくても『伝聞では意味がない』と批判するだけでなく、評価することは先ずない」という考え方の相違点なのだ。この違いには一朝一夕には馴染めないが、兎に角「物の考え方が異なる人たちと交渉しているのだ」ということを忘れてはならないのだ。念の為に強調しておくと、この重要な相違点を、必ずしもアメリカのビジネスマンたちが認識している訳ではないのだ。
しかしながら、私はこのような「“firsthand information”尊重で、“second hand”は駄目よ」との文化比較論は、一般的な所謂「日常会話」の中で問題にされることがないのは言うまでもないので、遍く万人にまで教える必要はないのではないかとも認識している。
視点を変えれば、アメリカでは「個人の主体性」がどれほど重要で、どれほど尊重されるかは大いなる我が国との文化の違いであることは教えておくべきだということ。また、彼らには「皆が一丸となって」であるとか、「テイーム全体が一塊になって」とか「全員野球で」といったような思想は先ずないと思っていて誤りではないということでもある。因みに、我が生涯最高の上司だった副社長兼事業部長は “team effort”とは言ったが、「テイ―ムワーク」にはついぞ触れたことはなかった。