新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月25日 その2 日本語とは異なる英語の発想

2020-06-25 15:22:33 | コラム
英語は日本語とは考え方が違う点に注意:

私はこれまでに繰り返して我が国の英語教育の至らなさを指摘し批判して来た。最大の問題点だと思うところは「英語を科学か数学のような教科として扱って、児童か生徒か学生に優劣の差を付ける為に教えている」点にあると思っている。そのように取り扱えば、自然に実用性に乏しくなってしまうのは仕方がないのである。

その上に、今や小学校から等という愚かな体制を組んでしまったが、往年は中学から始まって大学の教養課程までの8年間に「単語」、「文法」、「英文和訳」、「英作文」のようにバラバラにして教えているのだから、纏まりがつかなくなってしまうのだ。更に、我が国と英語圏の諸国との間に厳然として存在する文化(言語・風俗・習慣・思考体系)の違いを、何れの段階でも全く教えていないという欠陥まであるのだ。重ねて言えば、日本語と英語の諸々の違いを弁えておくことは英語力の向上の他にも、実用性の点からも必要なのである。

私はそのような教え方をしながら、TOEICだのTOEFLだの英検などという試験制度を持ち込んで、益々実用性から遠ざかって行ってしまっているのが我が国の英語教育の実情だと考えている。

そこで、彼等“native speaker”たちが使う英語の表現が屡々我が国の学校教育の英語と異なる思考体系と発想に基づいているので、どのように違うかの例を幾つか挙げてみよう。

“I will buy you a drink.”
1972年8月に生まれて初めてのアメリカ出張で、今はなきPANAMでサンフランシスコ(SFO)に向かった時の経験から。その機内で隣の席に座ったアメリカ人に、アトランタへの乗り継ぎ便を4時間も待たされてSFOの構内を彷徨っていた間に偶然に再会した。彼は“I will buy you a drink.”と言ったのだが、意味が解らなかった。と言うのも、“buy you ~”は初めて聞く表現だった。多分「何かを誘っているのだろう」と想像して、“Thank you.”と言ってついて行く事にした。到着したのはバーだった。

そこで解ったことは、“buy you a drink”は「一杯奢るよ」という意味だったのだ。私の語彙には「奢る」は“treat”くらいしかなかったので、彼等はこのように言うのかと、いきなり勉強させられた。私はアメリカ人たちの中で長い間過ごしたが、“treat”が「奢る」という意味で使われた事などなかった。

“as far as you can go”:
これは少し衝撃的な発想の違いだった。1970年代後半の冬だった。ワシントン州シアトル空港の前のホテルに泊まっていた時の経験。前夜からこの地方には珍しい大雪が降った為に、朝6時半頃にホテルの建物の外側に付けられていた全面ガラス張りのエレベータが凍り付いて、動けなくなってしまった。偶々早めに1階に降りて朝食を摂った私は寒さの中での宙づりになる難を免れたが、部屋に戻れなくなってしまった。

エレベーターホールには「“service elevator”(荷物等の運送用)を使って下さい」との掲示板が案内図とともに出ていたが、その図が極めて解り難かった。それを見た宿泊客の1人が女性の掃除夫に「サービスエレベーターは何処か」と尋ねた。その説明は我が国の学校教育からすれば、言わば想定外の表現ばかりだったのが忘れられなかった。それは、

“Go down the hall way as far as you can go and take a left. The elevator is on your left-hand side. You will never miss it.”
だったのだ。

即ち、「この廊下を突き当たりまで行って左に曲がって下さい。エレベータは左側にあります。間違いなく解りますよ」と言っていたのだ。そこには私が思い知らされたのが「発想の違い」だった。即ち、「突き当たり」ならば“go straight on to the end of this corridor”となるだろうと思ったのに、“as far as you can go”と言って「行けるところまで行く」となっていた点だった。しかも「廊下」は“hall way”だった。

更に「左に曲がる」が“turn to the left”ではなく“take a left”だったことに加えて、“You will never miss it.”で結ばれていたことに見える日本語と英語、更に我が国で教えられている英語とnative speakerとの間にある余りに著しい発想の違いに驚かされたのだった。

即ち、私はごく普通に我が国の学校教育で育った者が思い浮かべるだろ英文では、
“Go straight on to the end of this corridor and turn to the left. The elevator is on the left side of the corridor. You will find the elevator for sure.”
辺りになるのではないかと思うのだ。言うまでもないことは、この表現でもアメリカ人は間違いなく理解するだろうし、文法的にも全て正確で何ら問題がない。しかし、もし問題ありとするならば、我が同胞がこのような発想の違いが歴然とした表現に出会えば、瞬間的には「何のこと?」と迷ってしまうことになりはしないかと懸念するのだ。私はこの“as far as”と似たような発想の違いを表す例として、「~を端から端まで歩く」を“to walk the length of ~”と言われて「はて、何のことか」と当惑させられた記憶がある。即ち、“to walk from
one end to another end”とはならないのだ。

質問攻め:
これも発想の違いの範疇に入ると思うが、私はこの質問攻めに馴れるまでには一寸時間がかかった。兎に角、彼等は何かと言えば質問をしてくるのだ。例えば、京都市内を観光する時間があったとしよう。古いお寺の美しい勾配の屋根を見て「1,000年以上の測量器機のない時代に善くもあれほど左右対象形に屋根を建造したものだ。どうやって出来たのか」と問いかけてくるのだ。観光案内所にもお寺のパンフレットにも説明はない。「後で調べてお答えしますので、時間を下さい」と言うしかない。ところが、後刻お知らせすると「そんな事訊いたっけ」という失礼な顔をされてしまうのだ。

某大手印刷会社のショールームに工場の技術者数名をご案内頂いたときのこと。誰か1人が「この斬新な容器は如何なる材質で構成されているのか」と案内役の購買部長さんに尋ねた。部長さんは慌てた表情で我々一行を後にして退席された。数分後に戻られて私に「担当者が不在で解りません。ところで今夜お泊まりのホテルは」と尋ねられた。見学は終わってホテルに戻った。すると、夜中の9時頃に部長さんから私の部屋に電話があって「お返事が遅くなって申し訳ありません」と言う事で詳細な説明があった。翌朝質問者に伝えたが、矢張り「そんな質問したかな」という反応。

何と言う失礼なアメリカ人だと思われるだろうが、彼らの思考体系では「軽く謝意を表す場合には何か質問をする」という具合に出来ているのだ。と言う事は、その質問者は「素晴らしいショールームを見学させて頂きまして、有り難う御座います」と言いたかっただけだったのだ。この質問攻めは余程馴れていないと、きりきり舞いさせられる事になってしまうので要注意だ。彼等に教えられた事は「屋根の勾配や左右対称形の質問には『私も素晴らしいと思っています』とでも言っておけば十分なのである」だった。

ここで強調しておきたいことは、英語で書くか話すときには勿論文法を正確に守ることは重要ではあるが、英語には日本語とは明らかに発想が違う表現法があると心得ておくべきことだ。そして、「英会話」などをされる時には堂々と学校教育式表現を使われても結構だし、native speaker的な発想の表現を取り入れる場合であっても、常に文法を正確に守るように心掛けて頂きたいということだ。文法に誤りがあると、往々にして「無教養」と思われる事になるのが、英語の世界の煩わしさだ。

西村康稔大臣の考察

2020-06-25 09:58:23 | コラム
専門家会議を解消するとか:

結論から先に言えば、私は西村康稔大臣の今日までの新型コロナウイルス対策での行動と言動を評価していないのだ。だが、良く考えないでも明らかな事は既に位人臣を極めていないまでも、大臣には任命されて、政治の世界では立派に成功しておられたという事になると思う。更に私は「彼は官邸(の誰かは不詳だが)に評価されていて将来の総意候補の1人である」との、マスコミ辞令すら出ている。これまでに世間で数多く見てきた「上層部には受けが良いが・・・」の典型的な人物だと思っている。

彼は安倍総理に新型コロナウイルス制圧対策担当に任じられて、専門家会議を縦横に駆使して活動してきたようだった。だが、私が繰り返して指摘して来たように「決して自分で決めようとはしない慎重さを常に見せて、専門家会議に伺ってか、専門家会議にお諮りしてという、私に言わせれば責任回避の姿勢を貫いてきたお利口さん」と見えて仕方がないのだ。しかも、彼の仕業か総理が考えられたのか知らないが、常に専門家会議を前面に押し出して、恰も会議が政治的決定に大きく関与しているか如き印象を与えてきた。

私はこの点を何度か批判したし、専門家会議の尾身副座長にあの重要な新しい生活のプリゼンテーションをさせて、私の評価では惨憺たる意味不明な結果に終わらせてしまった。あの時に私は「あのプリゼンテーションは担当大臣である西村氏が行うべきで、ビジネスの世界での発表会の経験などあるとは思えないお医者様に依頼するのは筋が違う」と批判した。敢えて言うが、彼の責任回避の小狡さが出ていた。あのような事をすれば、昨日の専門家会議の方々が組織の改善を要望されるのは当然だと思う。

ところが、西村氏は何を思ったのか、昨日に記者クラブで会見中の専門家会議に事前に知らせる事なく、会議を解消して分科会にするという発表をしておられ、尾身氏が「聞いていなかった」と記者に確認しておられたのだった。それは諮問機関である専門家会議は一歩引っ込んだ存在であるのは確かだが、それまでにあれほど「専門家会議に伺って」を連発していた大臣が、事前に専門家会議の役職にある方々に何の連絡もしていなかったのは、如何にも「上を向いている」西村氏らしいなと思ってニュースを見ていた。

繰り返して言うと、専門家会議が政府の政策に大きく影響してきたというふうに思わせたのは、専門家会議の責任ではなく、西村康稔大臣の他に政府が仕向けた事だと私は見てきたし、この在り方は改善すべきだと指摘した。だが、専門家や評論家やマスコミの中からはそういう類いの批判は出ていたとは思えない。危機管理の専門家の中からは早い時点で、あの会議に入っていないのはおかしいとの声が上がっていたし、会議の中からは経済の専門家を加えて欲しいとの要望もあった。それが、今になって会議を解消して色々な専門家も加えると言い出したのは何だろう。

私には安倍政権が今後第二波が襲来する危険性を秘めた情勢下で、如何なる人事の体制を組んで行かれるか知る由もないが、西村氏が発議した分科会の構成は少なくとも良い方向に向かってはいるとは思う。問題は彼が責任者であるのならば、自分で考えて自ら行動して貰いたいのだ。自分が言った事とやる事に責任を取る覚悟で臨んで貰いたいのだ。


6月24日 その3 シアトル市の「自治区」について

2020-06-24 14:52:17 | コラム
シアトル市民からのお知らせ:

実は、既に数日前に例の私が尊敬する元の上司の奥方から、この件等々に関するお知らせがありましたが、つい和訳するのを怠けていました。と言うのも、言わばトランプ大統領に対する批判という一面もあったのです。「自治区」に関する所をざっと訳してみると下記のようになります。

“トランプ大統領が軍隊を派遣すると言わば脅しをかけた報道にある「自治区」とは「シアトル市で抗議デモ期間中は封鎖して、その近隣の住民に種々のサービスを提供するセンターとした狭い区域」のこと。この区域は「占拠された首都への抗議」(CHOP)と呼称されている。その一帯は言うなればお祭りの縁日のような展開で、食料品、デモ隊用の軽い飲食物や情報提供等の為のものである。私の友人の1人は2~3日前に視察に行って、その辺りの写真を撮ってFace bookに載せていたが、私は未だ見に行っていない。息子は孫を連れて行ってきたようだ。”

これを読む限りでは、私には何故マスコミが「自治区」と呼んだのが理解できない気がします。永年美しくて静かなシアトルに慣れ親しんできた経験からも、あの穏やかな街で市民が過激なデモ隊を組織して行進するというのがピンとこないのです。だが、「ブラック・ライブズ・マター」の抗議デモが、アメリカ全土に広がっているという実態は知り得たと思うのです。

シアトル市の「自治区」について

2020-06-24 14:42:59 | コラム
シアトル市民からのお知らせ:

実は、既に数日前に例の私が尊敬する元の上司の奥方から、この件等々に関するお知らせがありましたが、つい和訳するのを怠けていました。と言うのも、言わばトランプ大統領に対する批判という一面もあったのです。「自治区」に関する所をざっと訳してみると下記のようになります。

“トランプ大統領が軍隊を派遣すると言わば脅しをかけた報道にある「自治区」とは「シアトル市で抗議デモ期間中は封鎖して、その近隣の住民に種々のサービスを提供するセンターとした狭い区域」のこと。この区域は「占拠された首都への抗議」(CHOP)と呼称されている。その一帯は言うなればお祭りの縁日のような展開で、食料品、デモ隊用の軽い飲食物や情報提供等の為のものである。私の友人の1人は2~3日前に視察に行って、その辺りの写真を撮ってFace bookに載せていたが、私は未だ見に行っていない。息子は孫を連れて行ってきたようだ。”

これを読む限りでは、私には何故マスコミが「自治区」と呼んだのが理解できない気がします。永年美しくて静かなシアトルに慣れ親しんできた経験からも、あの穏やかな街で市民が過激なデモ隊を組織して行進するというのがピンとこないのです。だが、「ブラック・ライブズ・マター」の抗議デモが、アメリカ全土に広がっているという実態は知り得たと思うのです。

6月24日 その2 “The Room Where It Happened”

2020-06-24 11:03:25 | コラム
話題のジョン・ボルトン前補佐官の著作である:

こういう新刊本の題名を和訳するのは意味がないと思う。「その部屋で起きた事」では意味を為さないと思う。その昔、私が高校の頃に最も信頼していた英語の鈴木忠夫先生は「英文和訳はアメリカ映画の題名を訳すくらいの気持ちでやらないと」と言われたが「なるほど尤もだ」と思って聞いていた。例えばロバート・テイラーとビビアン・リーが主演した「悲恋」で有名だった当時の名作“Waterloo Bridge”は「哀愁」になってしまったという具合だ。であれば「大統領の執務室で何が起こっていたか」と言いたくてつけたのかと思っている。

Wikipediaによれば、ボルトン氏は前金として版元のSimon & Schusterから200万ドルを受領しているし、下刷りは事前にホワイトハウスが手に入れていたようだった。この著作が暴露本なのかどうかなどは私が云々することではない。だが、トランプ大統領は既に発行の差し止めを要求し裁判所は「下刷り等が出回っている」との理由で却下した報じられている。この本の内容の概略は既にマスコミで報道されているので、私がここに採り上げる必要もあるまい。

トランプ大統領がボルトン氏は嘘ばかり言っているのだと言われるのは当然だろうし、韓国までがボルトン氏叩きを始めたというのも解ることだ。私がこれから言うことを誤解されないように予めお断りしておくと、私の経験では「人は真っ赤な嘘を言われるか、聞いたときには激怒して否定してかかるような態度を見せないのだが、本当のことかそれに類似したことの場合には、往々にして否定してかかるか多弁になるものだ」ということになりがちなのだ。だからと言って、私はボルトン氏が暴露的に書かれたことが全て本当なのだろうなどと言うつもりはない。

ただ、トランプ大統領がUKの当時のメイ首相に「イギリスは核保有国か?」と尋ねられたという記述や、「フィンランドはロシアのうちか」と言われた辺りを聞かされると、「これはありそうなことかな」と思ってしまうのだ。それは、トランプ大統領が就任当時に述べられたことの中には、例えば「我が国が未だにアメリカ向けに毎年数百万台かそれ以上の自動車を輸出している」であると言う類いの50年も前の我が国とアメリカの貿易摩擦華やかなりし頃の事を採り上げて「対日貿易赤字が巨額なのは怪しからん」と言われた辺りは「未だ良くご存じではない」と思わせてくれた。

このような例が他にも多々あり「トランプ大統領は本当の事をご存じではないのか、あるいはご承知なのか、あるいはご承知の上で知らない顔で攻めてきておられるのが解らない」という事を言っている人は私以外にも我が国だけではなく、アメリカにでもいたのだった。本当に解り難かった。他にも、我が国に駐留するアメリカ軍の経費負担の問題については、我が国に更なる負担額の増額を要求されたのも理解できない例だった。だが、安全保障条約の片務性の追及などは、我が国の側にも正当性を認める議論が多かった辺りを見れば「ご存じなのだ」と思わせるに十分の如きだった。

そういう類いの「トランプ大統領とは?」との疑念を抱かせる点が多い大統領ではあったが、オバマ前大統領が残していった好ましからざる諸々の問題点を次々に潰して公約を果たして行かれ、中国と習近平に圧力をかけられて、その不当な台頭を真っ向から押さえつける政策を講じられ、DPRKの金正恩と何度も会談されて非核化を推進される等々の力を発揮されてきた。就任初期だったと記憶するが、その行動と政策は“unpredictable”、即ち「予見不能」などと批判されたが、ボルトン氏は全てが「再選ありき」だと指摘されているとか。

宮家邦彦氏はトランプ批判派だと思うが、「トランプ大統領が予見不能で推し進められても、彼を支える官僚組織がしっかりしているので心配はない」と評された。昨夜のPrime Newsでボルトン氏の著作が採り上げられた際に、参議院議員の松川ルイは「トランプ大統領とアメリカ政府は別なものですから」と苦笑しながら語っていた。これが、そのボルトン氏の著作を気にせずとも良いのだとの指摘なのかどうかは、私には読み切れなかった。だが、この新刊本の為にトランプ氏が再選されないと最も喜ぶのは習近平だろうとは、その場の意見は纏まっていたようだった。

その場では更に、私が既に危惧したように安倍総理の後継者が前任者ほどに再選された場合の2期目のトランプ大統領と親交を結べるかという話題が出た。尤もだと思う。それだけではなく「もしも民主党のバイデンだったらどうするのか、彼はあの我が国に冷たかったオバマ大統領の副大統領だったではないか」という議論も出た。これも尤もだ。

私が経験上も言える事がある。それは「それはどれほど難しく、厳しく、人並み外れた能力と、慣れと度胸を要する職務であっても、誰にやらせても何とか出来るものなのだ。問題はその職務を任された人物が期待された以上の成果を挙げるか、前任者程度の成績を維持するかだけにとどまるかの質の違いが出るだけではないのか」なのであって、思い切って任命するしかないのだ。任された者は周囲の期待を上回る実績を挙げる事だった間々あるのだ。但し、会社では組織内で選ぶが、大統領も党の総裁も選挙なのだ。「民度が決めるのだ」と言えば会おう副総理のように非難されるかな。