英語は日本語とは考え方が違う点に注意:
私はこれまでに繰り返して我が国の英語教育の至らなさを指摘し批判して来た。最大の問題点だと思うところは「英語を科学か数学のような教科として扱って、児童か生徒か学生に優劣の差を付ける為に教えている」点にあると思っている。そのように取り扱えば、自然に実用性に乏しくなってしまうのは仕方がないのである。
その上に、今や小学校から等という愚かな体制を組んでしまったが、往年は中学から始まって大学の教養課程までの8年間に「単語」、「文法」、「英文和訳」、「英作文」のようにバラバラにして教えているのだから、纏まりがつかなくなってしまうのだ。更に、我が国と英語圏の諸国との間に厳然として存在する文化(言語・風俗・習慣・思考体系)の違いを、何れの段階でも全く教えていないという欠陥まであるのだ。重ねて言えば、日本語と英語の諸々の違いを弁えておくことは英語力の向上の他にも、実用性の点からも必要なのである。
私はそのような教え方をしながら、TOEICだのTOEFLだの英検などという試験制度を持ち込んで、益々実用性から遠ざかって行ってしまっているのが我が国の英語教育の実情だと考えている。
そこで、彼等“native speaker”たちが使う英語の表現が屡々我が国の学校教育の英語と異なる思考体系と発想に基づいているので、どのように違うかの例を幾つか挙げてみよう。
“I will buy you a drink.”:
1972年8月に生まれて初めてのアメリカ出張で、今はなきPANAMでサンフランシスコ(SFO)に向かった時の経験から。その機内で隣の席に座ったアメリカ人に、アトランタへの乗り継ぎ便を4時間も待たされてSFOの構内を彷徨っていた間に偶然に再会した。彼は“I will buy you a drink.”と言ったのだが、意味が解らなかった。と言うのも、“buy you ~”は初めて聞く表現だった。多分「何かを誘っているのだろう」と想像して、“Thank you.”と言ってついて行く事にした。到着したのはバーだった。
そこで解ったことは、“buy you a drink”は「一杯奢るよ」という意味だったのだ。私の語彙には「奢る」は“treat”くらいしかなかったので、彼等はこのように言うのかと、いきなり勉強させられた。私はアメリカ人たちの中で長い間過ごしたが、“treat”が「奢る」という意味で使われた事などなかった。
“as far as you can go”:
これは少し衝撃的な発想の違いだった。1970年代後半の冬だった。ワシントン州シアトル空港の前のホテルに泊まっていた時の経験。前夜からこの地方には珍しい大雪が降った為に、朝6時半頃にホテルの建物の外側に付けられていた全面ガラス張りのエレベータが凍り付いて、動けなくなってしまった。偶々早めに1階に降りて朝食を摂った私は寒さの中での宙づりになる難を免れたが、部屋に戻れなくなってしまった。
エレベーターホールには「“service elevator”(荷物等の運送用)を使って下さい」との掲示板が案内図とともに出ていたが、その図が極めて解り難かった。それを見た宿泊客の1人が女性の掃除夫に「サービスエレベーターは何処か」と尋ねた。その説明は我が国の学校教育からすれば、言わば想定外の表現ばかりだったのが忘れられなかった。それは、
“Go down the hall way as far as you can go and take a left. The elevator is on your left-hand side. You will never miss it.”
だったのだ。
即ち、「この廊下を突き当たりまで行って左に曲がって下さい。エレベータは左側にあります。間違いなく解りますよ」と言っていたのだ。そこには私が思い知らされたのが「発想の違い」だった。即ち、「突き当たり」ならば“go straight on to the end of this corridor”となるだろうと思ったのに、“as far as you can go”と言って「行けるところまで行く」となっていた点だった。しかも「廊下」は“hall way”だった。
更に「左に曲がる」が“turn to the left”ではなく“take a left”だったことに加えて、“You will never miss it.”で結ばれていたことに見える日本語と英語、更に我が国で教えられている英語とnative speakerとの間にある余りに著しい発想の違いに驚かされたのだった。
即ち、私はごく普通に我が国の学校教育で育った者が思い浮かべるだろ英文では、
“Go straight on to the end of this corridor and turn to the left. The elevator is on the left side of the corridor. You will find the elevator for sure.”
辺りになるのではないかと思うのだ。言うまでもないことは、この表現でもアメリカ人は間違いなく理解するだろうし、文法的にも全て正確で何ら問題がない。しかし、もし問題ありとするならば、我が同胞がこのような発想の違いが歴然とした表現に出会えば、瞬間的には「何のこと?」と迷ってしまうことになりはしないかと懸念するのだ。私はこの“as far as”と似たような発想の違いを表す例として、「~を端から端まで歩く」を“to walk the length of ~”と言われて「はて、何のことか」と当惑させられた記憶がある。即ち、“to walk from
one end to another end”とはならないのだ。
質問攻め:
これも発想の違いの範疇に入ると思うが、私はこの質問攻めに馴れるまでには一寸時間がかかった。兎に角、彼等は何かと言えば質問をしてくるのだ。例えば、京都市内を観光する時間があったとしよう。古いお寺の美しい勾配の屋根を見て「1,000年以上の測量器機のない時代に善くもあれほど左右対象形に屋根を建造したものだ。どうやって出来たのか」と問いかけてくるのだ。観光案内所にもお寺のパンフレットにも説明はない。「後で調べてお答えしますので、時間を下さい」と言うしかない。ところが、後刻お知らせすると「そんな事訊いたっけ」という失礼な顔をされてしまうのだ。
某大手印刷会社のショールームに工場の技術者数名をご案内頂いたときのこと。誰か1人が「この斬新な容器は如何なる材質で構成されているのか」と案内役の購買部長さんに尋ねた。部長さんは慌てた表情で我々一行を後にして退席された。数分後に戻られて私に「担当者が不在で解りません。ところで今夜お泊まりのホテルは」と尋ねられた。見学は終わってホテルに戻った。すると、夜中の9時頃に部長さんから私の部屋に電話があって「お返事が遅くなって申し訳ありません」と言う事で詳細な説明があった。翌朝質問者に伝えたが、矢張り「そんな質問したかな」という反応。
何と言う失礼なアメリカ人だと思われるだろうが、彼らの思考体系では「軽く謝意を表す場合には何か質問をする」という具合に出来ているのだ。と言う事は、その質問者は「素晴らしいショールームを見学させて頂きまして、有り難う御座います」と言いたかっただけだったのだ。この質問攻めは余程馴れていないと、きりきり舞いさせられる事になってしまうので要注意だ。彼等に教えられた事は「屋根の勾配や左右対称形の質問には『私も素晴らしいと思っています』とでも言っておけば十分なのである」だった。
ここで強調しておきたいことは、英語で書くか話すときには勿論文法を正確に守ることは重要ではあるが、英語には日本語とは明らかに発想が違う表現法があると心得ておくべきことだ。そして、「英会話」などをされる時には堂々と学校教育式表現を使われても結構だし、native speaker的な発想の表現を取り入れる場合であっても、常に文法を正確に守るように心掛けて頂きたいということだ。文法に誤りがあると、往々にして「無教養」と思われる事になるのが、英語の世界の煩わしさだ。
私はこれまでに繰り返して我が国の英語教育の至らなさを指摘し批判して来た。最大の問題点だと思うところは「英語を科学か数学のような教科として扱って、児童か生徒か学生に優劣の差を付ける為に教えている」点にあると思っている。そのように取り扱えば、自然に実用性に乏しくなってしまうのは仕方がないのである。
その上に、今や小学校から等という愚かな体制を組んでしまったが、往年は中学から始まって大学の教養課程までの8年間に「単語」、「文法」、「英文和訳」、「英作文」のようにバラバラにして教えているのだから、纏まりがつかなくなってしまうのだ。更に、我が国と英語圏の諸国との間に厳然として存在する文化(言語・風俗・習慣・思考体系)の違いを、何れの段階でも全く教えていないという欠陥まであるのだ。重ねて言えば、日本語と英語の諸々の違いを弁えておくことは英語力の向上の他にも、実用性の点からも必要なのである。
私はそのような教え方をしながら、TOEICだのTOEFLだの英検などという試験制度を持ち込んで、益々実用性から遠ざかって行ってしまっているのが我が国の英語教育の実情だと考えている。
そこで、彼等“native speaker”たちが使う英語の表現が屡々我が国の学校教育の英語と異なる思考体系と発想に基づいているので、どのように違うかの例を幾つか挙げてみよう。
“I will buy you a drink.”:
1972年8月に生まれて初めてのアメリカ出張で、今はなきPANAMでサンフランシスコ(SFO)に向かった時の経験から。その機内で隣の席に座ったアメリカ人に、アトランタへの乗り継ぎ便を4時間も待たされてSFOの構内を彷徨っていた間に偶然に再会した。彼は“I will buy you a drink.”と言ったのだが、意味が解らなかった。と言うのも、“buy you ~”は初めて聞く表現だった。多分「何かを誘っているのだろう」と想像して、“Thank you.”と言ってついて行く事にした。到着したのはバーだった。
そこで解ったことは、“buy you a drink”は「一杯奢るよ」という意味だったのだ。私の語彙には「奢る」は“treat”くらいしかなかったので、彼等はこのように言うのかと、いきなり勉強させられた。私はアメリカ人たちの中で長い間過ごしたが、“treat”が「奢る」という意味で使われた事などなかった。
“as far as you can go”:
これは少し衝撃的な発想の違いだった。1970年代後半の冬だった。ワシントン州シアトル空港の前のホテルに泊まっていた時の経験。前夜からこの地方には珍しい大雪が降った為に、朝6時半頃にホテルの建物の外側に付けられていた全面ガラス張りのエレベータが凍り付いて、動けなくなってしまった。偶々早めに1階に降りて朝食を摂った私は寒さの中での宙づりになる難を免れたが、部屋に戻れなくなってしまった。
エレベーターホールには「“service elevator”(荷物等の運送用)を使って下さい」との掲示板が案内図とともに出ていたが、その図が極めて解り難かった。それを見た宿泊客の1人が女性の掃除夫に「サービスエレベーターは何処か」と尋ねた。その説明は我が国の学校教育からすれば、言わば想定外の表現ばかりだったのが忘れられなかった。それは、
“Go down the hall way as far as you can go and take a left. The elevator is on your left-hand side. You will never miss it.”
だったのだ。
即ち、「この廊下を突き当たりまで行って左に曲がって下さい。エレベータは左側にあります。間違いなく解りますよ」と言っていたのだ。そこには私が思い知らされたのが「発想の違い」だった。即ち、「突き当たり」ならば“go straight on to the end of this corridor”となるだろうと思ったのに、“as far as you can go”と言って「行けるところまで行く」となっていた点だった。しかも「廊下」は“hall way”だった。
更に「左に曲がる」が“turn to the left”ではなく“take a left”だったことに加えて、“You will never miss it.”で結ばれていたことに見える日本語と英語、更に我が国で教えられている英語とnative speakerとの間にある余りに著しい発想の違いに驚かされたのだった。
即ち、私はごく普通に我が国の学校教育で育った者が思い浮かべるだろ英文では、
“Go straight on to the end of this corridor and turn to the left. The elevator is on the left side of the corridor. You will find the elevator for sure.”
辺りになるのではないかと思うのだ。言うまでもないことは、この表現でもアメリカ人は間違いなく理解するだろうし、文法的にも全て正確で何ら問題がない。しかし、もし問題ありとするならば、我が同胞がこのような発想の違いが歴然とした表現に出会えば、瞬間的には「何のこと?」と迷ってしまうことになりはしないかと懸念するのだ。私はこの“as far as”と似たような発想の違いを表す例として、「~を端から端まで歩く」を“to walk the length of ~”と言われて「はて、何のことか」と当惑させられた記憶がある。即ち、“to walk from
one end to another end”とはならないのだ。
質問攻め:
これも発想の違いの範疇に入ると思うが、私はこの質問攻めに馴れるまでには一寸時間がかかった。兎に角、彼等は何かと言えば質問をしてくるのだ。例えば、京都市内を観光する時間があったとしよう。古いお寺の美しい勾配の屋根を見て「1,000年以上の測量器機のない時代に善くもあれほど左右対象形に屋根を建造したものだ。どうやって出来たのか」と問いかけてくるのだ。観光案内所にもお寺のパンフレットにも説明はない。「後で調べてお答えしますので、時間を下さい」と言うしかない。ところが、後刻お知らせすると「そんな事訊いたっけ」という失礼な顔をされてしまうのだ。
某大手印刷会社のショールームに工場の技術者数名をご案内頂いたときのこと。誰か1人が「この斬新な容器は如何なる材質で構成されているのか」と案内役の購買部長さんに尋ねた。部長さんは慌てた表情で我々一行を後にして退席された。数分後に戻られて私に「担当者が不在で解りません。ところで今夜お泊まりのホテルは」と尋ねられた。見学は終わってホテルに戻った。すると、夜中の9時頃に部長さんから私の部屋に電話があって「お返事が遅くなって申し訳ありません」と言う事で詳細な説明があった。翌朝質問者に伝えたが、矢張り「そんな質問したかな」という反応。
何と言う失礼なアメリカ人だと思われるだろうが、彼らの思考体系では「軽く謝意を表す場合には何か質問をする」という具合に出来ているのだ。と言う事は、その質問者は「素晴らしいショールームを見学させて頂きまして、有り難う御座います」と言いたかっただけだったのだ。この質問攻めは余程馴れていないと、きりきり舞いさせられる事になってしまうので要注意だ。彼等に教えられた事は「屋根の勾配や左右対称形の質問には『私も素晴らしいと思っています』とでも言っておけば十分なのである」だった。
ここで強調しておきたいことは、英語で書くか話すときには勿論文法を正確に守ることは重要ではあるが、英語には日本語とは明らかに発想が違う表現法があると心得ておくべきことだ。そして、「英会話」などをされる時には堂々と学校教育式表現を使われても結構だし、native speaker的な発想の表現を取り入れる場合であっても、常に文法を正確に守るように心掛けて頂きたいということだ。文法に誤りがあると、往々にして「無教養」と思われる事になるのが、英語の世界の煩わしさだ。