新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

オリンピックの話題から離れてみよう

2021-07-28 09:15:44 | コラム
やれやれローマ字読み:

今回は私の好みであるカタカナ語の話題は一般受けしないと承知の上で取り上げてみよう、オリンピックの話題から離れたいために。その中でも「ローマ字読みには英語の正確な発音を身につけるのに対して弊害がある」と思うので、女子のソフトボールにおけるオーストラリアの選手の名字の英語の発音を正確に表示していないカタカナ表記から入っていこう。

彼女はLeigh Godfreyという人だった。だが、テレビの画面に表示されたのは「ゴッドフリー」だった。これを見て直ぐにGodfreyさんのことだと解った。辞書に出ている発音記号をカタカナ表記すれば「ガッドフリー」が最も近いかと思う。だが、本音では「ガードフリー」としたいのだ。以前から論じ続けてきたことで、英語では”o“をローマ字式に「オ」と発音することは少ないと思っていて良いだろうし、同様に”a”も先ず「ア」とはならない例が多過ぎるのだ。今回は“a”の関連は論じない。

このガドフリーさんの名字の前半のGodにしても、如何なる辞書を見ても「ゴッド」とはなっていない。既に指摘したように「がッド」か「ガード」に近い発音記号になっている。だが、我が国のカタカナ語製造業者たちは躊躇せずに“o”は「オ」としたし、“a”は「ア」にしてしまった。余り芳しくない例を挙げれば芸人たちが好む嘆きの台詞では「オーマイガー」となっていて「オーマイゴー」ではないのだ。彼らの耳にもGodは「がード」と聞こえているらしい。

この“o”絡みでは他にも“holiday”を取り上げたい。我が国では堂々と「ホリデー」となっているが、Oxfordだって「ハラデイー」に近い発音記号で表示されている。ボクシングの「ボディーブロー」だった「バディブロー」が英語に近いのだ。勿論、「それが日本語として通用しているのだから、放っておいてくれ」と言われるのは百も承知だ。ここは永年言って来たことで「本当の英語の発音とカタカナ語とは別物だ」と承知していて貰えれば良いのだ。

次は、先日オリンピックの開会式を採り上げた際に採り上げた「ジオラマ」を。英語の綴りは“diorama”なのである。この“di”を「ジ」とするのはまるでポルトガル語のようだが、正確な発音は何と「ダイアラマ」に近いのだ。ここでの英語のイヤらしさはといえば“i”をローマ字式に「イ」とはせずに「アイ」にしているところだ。カタカナ語製造業者の苦心のほどは「デイオラマ」とせずに「ジオラマ」にして逃げた辺りで解る。

この“d”が関連する単語に「デユース」または「ジュース」がある。これはテニスの用語にある。英語の綴りは“deuce”であり発音は「デユース」が近い。だが、ある説によれば、デユースという発音が出来ない人が出てきたので、易しくして「ジュース」になったのだそうだ。英語のイヤらしいところは“schedule”だと「スケジュール」となる辺りにある。

“d“絡みでは他に”diazo“がある。これはICT化やデイジタル化が進んだ現代の方々には通じないだろうと思う。それは「ジアゾ」乃至は「青焼き」と呼ばれていた「コピー」の方式である。コピーして出された書類や図面が青く出てくるので「青焼き」と呼ばれていた。英語の発音はといえば「ダイエゾ」なのである。またしても“i”は「イ」とはなっていないイヤらしさだ。他にも“dilemma”がある。これは「ジレンマ」ではなくて「デイレマ」となっているのだ。

このような英単語の不規則さを「ローマ字読み」にして切り抜けようとした先人の知恵と努力は大変なものがあったとは思う。だが、カタカナ語排斥論者の私には「本当の発音を恣意的に変えてしまう表記の仕方が、正確に英語を学ぶというか発音を覚える妨げになっているのではないかと思える」のだ。「いや。そんなことになるのはインポッシブルだ」などと言わないで欲しい。“impossible”の正確な発音は辞書を見て頂きたい。


7月27日 その2 大坂なおみが負けてしまった

2021-07-27 16:14:28 | コラム
登場してきたときに既に影が薄かった:

チェコ(Czech)のボンドロウソワ(Marketa Vondrousova)が先に試合場に悠然として現れ、大阪が後から出て来てきた姿を見て「アレッ」と思った。歩く様に全く生気が感じられなかったから。マスコミ風に言えば「全くオーラが出ていなかった」とでもなるだろうか。「何か悪いことにでもならなければ良いのだが」と思わずにはいられなかった。

そして、試合開始と共に最初のサービスゲームを落としただけに終わらず、第1セットを1対6で呆気なく落としてしまった。私はここまでを見で、本日の彼女の出来では到底挽回不可能と判断して、観戦するのを止めた。ランキングが2位の彼女がむざむざと、42位のボンドロウソワに負けるのを見るに忍びなかったからだ。私は暫く試合に出ていなかった事と、この連日の猛暑の中で2試合もしたのであれば、疲労が蓄積したのか、あるいは彼女自身が告白した鬱からの復調未だしなのかな、などと考えていた。

敗戦を確認したのは、午後3時までに行かねばならない調剤薬局に出向く前に、Yahooのニュースだった。ジョコビッチがこの暑さの中で試合をするのは無理があると、時間の変更を願い出ていたにも拘わらず、大坂さんの試合は酷暑真っ盛りの時間帯だった。暑いのは相手も同条件だとは思う。だが、幾ら天井を閉じてあったとは言え、何方だったかが言った「我が国の7月にオリンピックをやるとは、正気の沙汰ではない」を、改めて想起していた。大坂さん、Olympic flame点火の大役ご苦労様でした。


私のオリンピックの楽しみ方

2021-07-27 08:25:38 | コラム
無観客であろうと何だろうと開催して良かったと思う:

私は結果としては「仮令無観客であろうと、開催したのは良いことだ」と思って、素直にテレビ観戦している。しかし、私の感性というか評論家的な視点からすれば「勝った、勝った」と喜ぶとか「金メダルが沢山取れて良かった」と感動するのではなく、世界各国でそれぞれの競技の分野で最高水準に選手たちの技量と精神力を、居ながらにして見られることは素晴らしい」となるのだ。但し、某独裁の帝王が率いる國の選手が勝つのを見ても感動などしない。

私が昨26日までのところで最も感動したのは、卓球の混合ダブルスで伊藤・水谷が準々決勝戦の最終ゲームで、0対5のダメかと思わせられた不利の状態から勝ち抜いてくれた、際立った精神力の強さだった。私の持論では、オリンピックのような大会で勝つためには世界最高水準に達している技術力が必要なのは言うまでもないが、そこに強靱な精神力が養われていれば、俗な言い方であるが「鬼に金棒」であると思っている。伊藤・水谷の組み合わせはあの逆境を跳ね返すだけの両方が備わっていたのだろうと、感動させて貰えた。

私はオリンピックという大会では、何もメダルを獲ることに絶対的な意義があるとは思っていない。世界最高水準にある選手たちが一つの競技会場に集まって、それぞれの技量と精神力を発揮してくれるのだから、そもそものオリンピックの精神だったと聞く「参加することに意義がある」だけではなく、その持てる力を全世界に見せる場があることが素晴らしいと思っている。メダルが取れたのどうのということは、単にその結果の一つに過ぎないのだ」と思って鑑賞している。

昨日までのところで素晴らしいと褒めたことがある。それは女子のソフトボールにおけるわが代表の選手たちの、基本に忠実に整然とした野球じゃなかったソフトボールをやっている技術的な水準の高さである。10年前だったかに女子のサッカーがW杯を獲ったときにもその基本に忠実な真面目(というのも変だが)なサッカーの質を賞賛した。このソフトボールの選手たちのプレーの質には文句の付けようがない。

特にあのショートストップの守備の上手さは「本当の野球」をやらせてみたくなったほど素晴らしいのだ。張本勲は「10番と11番をつけた選手のバッテイングはプロ野球の選手たちに学ばせたいほど良い」と褒めていた。私は勝った負けたもさることながら、このような高い技術の水準を見せて貰えることが大いに有り難いオリンピックの特徴だと解釈している。序でになってしまうが、男子のサッカーにおける堂安と久保の示し合わせた先取点のフォーメーションも「素晴らしい」と感動させて貰えた。

とは言うが、矢張りこの大会で努力の甲斐あって優勝した者たちがどれほど嬉しいかは、高校1年のときに全国大会のサッカーで優勝を逃した経験しかない私には想像出来ない喜びも感動もあるだろう。そう察するだけで涙がで来る思いなのだ。羨ましいなどという次元ではないだろう。

私は勿論努力して勝った人から感動を貰うとか、元気を貰える事がないとは言わないが、多くの競技で世界最高水準にある選手たちの試合を見られることが有り難いのだと思っている。例えば、何のことかサッパリ理解できない「スケートボード」の「トリック」でもお陰様でやっと少しはその凄さとやらが解るようになって。

メダルとやらを獲れれば、それはそれで素晴らしいことだし、幾ら賞賛しても賞賛しきれないだろうと思う。だが、力足らずして4番になった者でも、世界で4番になるまでにはどれほどの努力と辛い練習に耐え、精神力を養ってきたことを称えて上げても良いのではないのか。5番だって6番だって立派ではないのか。彼らがそこまで来る長い年月の間に培ってきた力を正当に評価して褒めて上げても良いのではないのか。

マスコミは今日までにオリンピックから帰国した選手団から、メダル獲得者だけを集めて記者会見をするのを、私は不快な思いで見てきた。あれは獲れなかった選手たちに対する不当な扱い方だろうと思って。ひょっとすると、今回は「密」の状態になることを避けるのではないのか。


オリンピックの試合から

2021-07-26 13:57:34 | コラム
サッカーと卓球から:

サッカー:

昨25日の男子の対メキシコのサッカーは色々な意味で興味深く見ていた。先ずは前半の早い時期に取った2点を守り切って勝ってくれたのは、誠に結構なことだった。私はメキシコがフランスを圧倒して勝った試合を少し見ていたので「これは難敵であるな」との印象だった。そのメキシコに対して後半は圧倒的にボールを支配されていながら、ポルトガル人だったかのレフェリーの我が方に厳しすぎるのではないかと思わせられた判定にも耐えて、2対1で勝ちきってくれたのは「良くやった」と褒めてあげたくなった。

最大限に褒めておきたい事がある。それは、前半6分だったかに右サイドにいた堂安が深く切り込んでゴールラインギリギリから斜め後ろに「クロスパス」(我々の時代では「センタリング」だが)を蹴り込んだ。これは正確にはパスなのだが、その行く先には誰もいなかったかのように見えた。だが、試合終了後に久保建英が語ったところでは、事前のスカウテイングでメキシコの守備陣形ではあそこが空くと解っていたので、堂安と事前に出来たらあそこを衝いてみようと相談してあったということ。

サッカーをやった経験がある方には解って貰えるだろうが、これは久保と堂安が示し合わせて「あの誰もいない一点でピタリと合わせられるようなパスを出して、走り込んだ久保が決める」というセンタリングが素晴らしいのだ。私はテレビの前で思わず「凄い。良いぞ良いぞ」と叫んでいた。更に解説しようと思えば、中にいる者にどのように合わせるかという意味では、理想的な展開だったのだ。

現在のサッカーはこの点が世界的に乱れているというか、出来ていないのである。中側にいる者たちが深く入りすぎているために、相手のデイフェンス陣と並んで静止している位置でセンタリングを受ける形になってしまうので、易々とデイフェンダーたちに守られてしまう場合が多すぎるのだ。

この点はは何時だったか木村和司が「現在のサッカーではFWが上がり過ぎるのは極めて宜しくない」と批判していた。一時代も二時代前ものサッカーをやっていた私は、極めて尤も指摘だと思って聞いた。しかし、久保建英の戦術眼はその上がりすぎを止めて、フットボール界の用語にある「リードを付けたパス」を使った辺りは「流石である」と褒めておきたい見事な先制点となった。

メキシコのサッカーには問題があったと見た。それは、同じ南アメリカでもブラジルのようなサッカーとは多少趣を異にしていて、彼らは先日の南アフリカと同様に一寸でも我が方のデイフェンスが後ろから触っただけでも地面に倒れ込んで悶えてみせるという、甚だ上品ではない試合振りだった。その擬態をレフェリーは問答無用で我が方の反則と採るだけに止まらず、酒井宏樹他2~3名にイエローカードを出してくれたのだった。「それは一寸あんまりじゃないですか」とテレビの前で叫んでいたような判定もあった。

我が方の2点目は左サイドを駆け上がってきた相馬だったかがセンタリングをしようとする際に競り合っていたデイフェンダーが、蹴り終わった後の無防備の相馬を倒したのをVARというビデオ判定に頼った結果で反則として、PKになったもの。後半にもゴールの方向に縦パスを追って走る堂安だったか久保だったかをディフェンダーが言わば手で突き飛ばす格好で倒し、一発レッドカードとしたのだった。私には厳しすぎる判定にも思えたが、言ってはならないことかも知れないが「埋め合わせ」なのかなとすら感じた。要するに、「メキシコのサッカーはフェアープレー」ではなかったのだった。

試合とは無関係な事を述べておこう。私は2000年に入った頃からは、流石に11人のサッカーをやらなくなっていた。昭和23年の福岡国体の高校の部で決勝戦で負けた者たちが集まって蹴球をやっていたものを、フットサルに切り替えていたので、ルールが変わっていたのを知らなかったのだ。

私が気が付いた主な変更は「キックオフを必ず前に蹴り出さなくても良くなったようで、いきなり後ろ向きに蹴っていること」と「ゴールキックはペナルティー・エリアから一旦外に蹴り出すことだったものが、今ではエリア内でキッカーと誰かがパス交換をしていること」である。往年は「ゴールキーパーがファイブステップといって、ボールを持ったならば5歩しか歩けない」というのも無制限に変わっている。

我が代表が決勝トーナメントに勝ち上がっていくためには、兎に角残るフランス相手に最低引分けが必要なのだそうだ。だが、外野で勝手に「引分けでも良い」などと希望的観測を述べていると、碌な結果が出ないことが間々あるので、ここでは「是非とも勝ち点を9にして上がっていってくれ」というに止める。

ピンポンの男女混合ダブルス:
個人種目だが、敢えて触れ置こう。昨日の準々決勝戦のドイツのペアとの対戦での、伊藤美誠と水谷隼の試合振りが凄かった。最終セットで0対5と引き離され、更には6対10にまで追い込まれマッチポイントを握られてしまった。居合わせた二男とは完全に諦めモードだった。だが、まさかとは思ったが、何となく「伊藤と水谷はひっくり返してくれたら素晴らしいのだ。何とかなるかも知れない」と願っていた。そこから先の両名の気迫が物凄かった。兎に角追い付いてdeuce(「ジュース」はUK式で、アメリカでは「デユース」だ)に持ち込み、そこからでも何度かマッチポイントを取られるのだが、遂には勝ち抜いてくれたのだった。

張本勲式にすれば「大天晴れ」である。私は精神主義を毛嫌いする方だが、あの伊藤美誠と水谷隼の勝利を支えたものは、何ものにも屈しない強い強い精神力があったと思う。精神力は人並み外れた次元までに技術を磨いておなかないことには、会得しきれないものだと信じている。その点から見れば、あの二人は実に心身共に優れた運動選手(「アスリート」なんて言いたくない)だと幾ら褒めても褒め足りない人たちである。マスメディアは何故もっとあの勝利を称えないのか。


7月25日 その2 オリンピックの開会式に思う

2021-07-25 17:43:06 | コラム
矢張りオリンピックの試合の中継を観てしまうので:

結果として思うように筆が進まない、じゃなかった、中々PCに向かう時間が取れない。本日も女子のソフトボールのカナダ戦が延長戦になってしまったので、気が付けば午後4時半を回っていた。実は、散々ケチが付いた開会式の見物を見送ってしまっていたが、後からニュースで細切れになったものを見て、矢張り一言二言言っておこうと思っていたものが、本25日になってしまった。

順序不動だが、先ずは非礼のことから。それは菅首相と小池都知事が天皇陛下が開会の辞を述べておられるのに、着席したままで途中から立ち上がったのには驚いた。立ち上がった順番は首相が先で都知事如きが後だったのは言語道断だと言いたい点。マスコミはこの事を余り叩いていないような気がするのだが。

次はMISIAなるポピュラーミュージックか、ジャズか何の範疇の歌手か知らない女性に、事もあろうに国歌を歌わせた感覚には呆れて物も言えなかった。苟も国家行事(なのだろうか)であろうオリンピックで天皇陛下ご臨席の場で、私がその存在をうすボンヤリとしかその知らない程度の言わば流行歌手に、国歌を歌わせる選択をした担当の演出家か組織委員会を軽蔑したい。マスメディアが最も気にする外国に「日本にはクラシカル音楽の歌手はいないのか」とでも言われたらどうする気だったのか。

何年前だったか、サッカー協会が国際試合の前に和田アキ子に国歌を歌わせたことがあった。私は口を極めてその不見識を非難した、国辱的ではないかと。組織委員会だが何処の誰かは知らないが、MISIAとは悪趣味の極みだし、不見識である。尤も、江上剛とやらいう作家は「MISIAが澄んだ声で国歌を歌った」と有り難がっていた。私とは趣味が違うようだ。

法被を着た若い衆を踊らせた感覚は既に批判したが、海老蔵を出したのも如何なものかと思った。私は歌舞伎は詳しくないが、ある批評家は「テレビ局は海老蔵を持ち上げるが、歌舞伎役者としては決して評価できる存在ではない」と言っていた。私はあの奥方を不幸にもガンで失ったことを、マスコミに悲劇として取り上げられなければ、あれほど持て囃されることがなく、あれほど歌舞伎界の寵児の如くに扱われなかっただろうと見ている。諸外国に対して歌舞伎を見せれば感動して貰えるとでも思ったのか。

長嶋茂雄氏、王貞治氏、松井秀喜を登場させた演出は、俗受けを狙った企画だと思って疑問に感じた。あの巨人軍のお三方がどれほどオリンピックに貢献したのだろうか。プロ野球界の大スターであった事は確かだが、野球がそれほど普及していない諸国に、彼らを起用した意義を認めて貰えるのだろうか。まさか、読売新聞に配慮でもしたのではないだろうな。

私は全く知らない世界のことで論評のしようもないが、選手入場の行進曲に「マリオ」だかの音楽を使ったと聞いた。仮令、私が関心がない世界のことだとは言え、またしてもそもような俗受けを狙った企画にはウンザリだった。マリオなるゲームか?は世界にそれほど遍く広まっているものなのか。よしんば広まっていても低俗な企画であると言いたい。私はブラスバンドが良く吹奏する「威風堂々」の方が遙かに良いと思うのだが。

ここまでは「気に入らなかった」事ばかり採り上げたが、全体としては何とかなっていたと思う。とは言うが、あのここからでも見えた花火は二番煎じではないのか。テレビの報道で見た限りでは、褒めた人と貶した人の数は拮抗していたそうだ。「矢張り、そんなものか」と思った。