新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

放送用語の中のカタカナ語の問題点:

2023-09-19 07:19:12 | コラム
何故、言葉を正確に使えないのだろう:

昨日は録画だったが、何度か日本代表対イングランド代表のW杯予選グループの試合を見た。両方のティームの実力にはそれほどの差はなかったかに見えたが、日本代表はあの後半16分の審判の笛は鳴っていないと聞こえた状態だったにも拘わらず、自分たちで「ノックオン」と解釈して動きを止めていたようだったのが痛かったと見た。

そこにイングランドの選手が零れていたボールを拾って、恐らく念のためもあったのだろうが、誰にも阻止されずにインゴールに持ち込んでトライにしてしまった。あのような無駄に見えるような動きは良くあることだと思っていたが、審判はTMOにした結果で「トライ」の判定になってしまった。わが国の報道機関は「不運」と言うが、実力の差はあのような不注意の場面で現れるのが勝負のイヤらしさなのだ。

そこで、カタカナ語の問題に行こう:
先ずはラグビーから:
試合を中継するアナウンサーたちは屡々、例えば昨日のイングランド戦のような場合に、相手ティームが反則をすると「イングランドにペナルティー」のように言うのだ。私はこれがおかしいと思って聞いている。それは、反則をしたティームには罰(=ペナルティー)が課され、相手側にペナルティー・キックが与えられるのだから、反則をした時点では罰は科されていないのだ。

であるから、アナウンサーが言うべき事は「反則があったのでイングランドに罰が科され、相手ティームのPKとなります」なのではないだろうか。この「ペナルティー」のような言い方が何時始まったのか知らないが、誰かが言い出すと皆が単純に真似してしまう傾向が見受けられるのだ。もしも”penalty"という単語の意味を正確に承知していれば、あのように使える訳がないのではないかと言いたい。

さらに、ここでは「セルフジャッジ」を取り上げておこう。上記のあの後半16分の一瞬の気が抜けた瞬間の状態を「セルフジャッジによる失点」と報じられていた。これはWikipediaによれば「審判が存在するにもかかわらず、選手が勝手に自己の判断でファウル等の反則があったと判断し、審判の笛などを待たずにプレーを止めてしまうこと。主にサッカーの試合などでよく見られるが、実際には反則とならずに試合が続行され、ピンチを招く原因となることが多い。」とあり、将にその通りの事態だったのが残念だった。なお、これは正確には”self-judgement”なのである。

次は野球:
昨年からだったか、NPBでは審判の判定に異議を申し立てても良いとの制度が導入された。この制度では「監督は判定に疑問があれば異議を申し立てて、ヴィデオ判定を要求できる」と私は理解している。即ち、異議を申し立ててヴィデオ判定を要求するのだから、アナウンサーは例えば「原監督は異議を申し立てて、ヴィデオ判定を要求しました」のように言って欲しいのだ。

ここではアナウンサーたちは「要求」と言わずに「リクエスト」を使うのだ。彼らは「リクエストしました」とか「リクエストを求めました」のように「異議申し立て」であることを省略してしまうのだ。これでは実態を正確に伝えておらず、間違いであるから宜しくないと指摘する。

宜しくないという理由は、本来の英語では「異議申し立て」を意味する”challenge”が使われていて、判定が正しかったのかどうかを、審判員がヴィデオを使って判断するのである。私はアナウンサーたちには、「あれが異議申し立ての行為であることを忘れてはいませんか」と指摘したいのだ。キツイことを言えば「英語の意味を正しく理解しておこうよ」なのだ。

野球は我が国に導入されてから150年も経過しているので、明治時代に創造された我が国独特の(「死球」のような)野球用語が多い。だが、その造語を論うのが本稿の目的ではないので、ここで取り上げる意図はない。


大谷翔平が負傷者リストに載って今シーズンが終了した

2023-09-18 07:38:38 | コラム
大谷翔平を潰したのは誰だ:

本来ならば、この件については「憤懣やるかたない」と言いたいのだが、感情的にならずに「大谷翔平をこのような状態に落ち込ませた主犯は誰だったか、誰が責任を負うべきか」を論じていこう。

エンジェルス球団と監督コーチ陣の失態であり、責任問題である:
私は既に「エンジェルス球団とネヴィン監督は大谷翔平を使い潰す気か」と指摘してあったし、TK博士からは「予言が当たってしまいましたね」と負の祝福を受けていた。予想が当たっても嬉しくないのは当然だ。即ち、早い時点で彼らの責任であると認識していたのだ。「未必の故意」だったと言えるとも考えている。あのような起用の仕方をすれば、鋼(ハガネ)の機械で出来ている訳ではない彼の体が故障するのは目に見えていた。

彼らは恐らく少なくとも「プレーオフに出場させる」のような項目を入れた条件で、それに相応しい年俸で今季の契約を結んでいたのだろう。そうであれば、杖とも柱とも頼む大谷君を限界まで使い倒すことは必須だったのだ。”two-way”で使って一シーズンを乗り切らせ、尚且つ数々のタイトルを取ることには無理があることなどは、自明の理だったはずだ。少なくとも私にはそのように予見できていた。彼らはそれでも使い倒して自ら球団の宝を潰したのだった。

我が国のマスメディアの至らなさこそ糾弾されるべきでは:
彼ら報道機関は性懲りもなく「二刀流」などという戯けた表現を使って、大谷君の超人的大活躍を賞賛し続けた。私は先ずこの点からでも彼らの見識の無さを責めたいのだ。話は違うかもしれないが、私はもう長い間「彼らマスコミが褒め称え持ち上げられた選手たちは、彼らがそれと知って上長した訳でもなくても、悪い結果出て苦しむのだ」と指摘し続けてきた。

彼らは大谷君の獅子奮迅の大活躍が始まってから、一度もと言うか、一言も「酷使」の危険性を報じていなかった。私は「そんなことも解らないのか。C国でもないエンジェルス球団当局には遠慮して何も言えないのか」と、真っ向から決めつけたい。古い表現を引っ張り出せば、それでも「社会の木鐸」なのかと非難したい。殆どの責任はエンジェルス球団と監督コーチ陣が負うべきだが、我が国のマスメデイアにも責任はあると思う。

責任の所在と手術とその費用:
何とか言うGMは「未だ手術をするとは聞いていない」と語っていたようだ。この言い方も責任逃れだとしか思えない。それはgeneral managerという地位にあれば、球団全体の運営について全ての権限を与えられているし、同時に全責任を負っているのだ。だから、彼に大谷が何時どのような治療をするかの報告が上がっていない事などあり得ないのだ。いや、彼には知る義務があるのだ。

これこそがアメリカの企業社会におけるGMの在り方なのだ。だから、もしもあのエンジェルス球団のGMが本当に知らないのであれば、球団の当局は経営として体を為していないことになるのだ。さらに疑えば、彼は「聞いていない」と言って責任逃れをしているのかも知れないのだ。

この手術について息子とも語り合ったのだが、「アメリカで処置すれば非常に高額だろう費用を誰が負担するのか」だった。息子は「大谷が個人で負担することなどないように『契約の条件として球団の負担』となっていて然るべきだ」と観測していた。だが、もしかして大谷が来年はトレードで出て行ってしまうような事態になれば、言わば食い逃げ的になりはしないかとも考えられるのだ。

その辺りは彼の代理人が責任を持って処理するのだろうが、少なくとも来シーズンには打者としての大谷翔平君の大活躍が見られるように万全の態勢で手術が出来るようにエンジェルス球団か、代理人か、大谷個人が準備を整えることを期待したい。

心配性の当方は「いざというときになって、エンジェルス球団が全面的に協力するのか」という辺りが気になって仕方がない。それは「彼が今日に至るまで一度も責任を認める発言をしていない」のだし、我が国側では誰もその点を追求していないのだから。


9月17日 その2 外国人観光客と移民受け入れの問題点

2023-09-17 10:53:05 | コラム
「インバウンド」に依存する政策への疑問:

本日の産経新聞には「不法滞在等の外国人を強制送還する場合のチャーター機等の費用が嵩んでいる」と報じる記事があった。そのような種類の外国人が強制的に送還される場合の暴挙、悪行、行儀の悪さを細かく取り上げてあった。私は良くも悪くも「立派な報道である」と評価したい。

私は長い間の海外での経験から、外国人をその国の経済発展の程度と、民度を考慮せずに業務だろうと観光だろうと、入国させる事には否定的なのである。と言うのも然る事ながら、未だにマスコミの論調が「外国人様のご来日歓迎」のような論調であることが気になって仕方がないのだ。彼らは諸外国の何を見て言っているのかとの疑問であり、批判でもある。

彼らが駐在員(特派員などという時代感覚が欠如した言い方は採らない)を全世界に送っているはずだから、諸外国の実情を承知しているべきなのだ。それにも拘わらず、何時まで経っても「インバウンド様」が落として下さる外貨が疲弊気味の我が国の景気回復の起爆剤になるが如き論調を展開するのだ。ここ新宿区百人町/大久保界隈に来てみれば「そんなのは実情を知らない世迷い言だ」と直ちに解るほど、この辺りは彼ら下層のインバウンドに食い荒らされていると解る。

外国を論じるにならば「その国がG7等に入っているのか」も有力な判断に基準になるが、その国の経済力、豊かか貧困か、民度の高さは辺りをキチンと見定めておかないと、俗に言うLDCや発展途上国のそのまた低階層の連中が押しかけてくることになってしまうのだ。そうなってしまうとどのような惨状になるかは、埼玉県の川口市が最悪の例に挙げられているが、ここ新宿区の芳しくない状態は今日までに繰り返して取り上げてきた。

彼らは世界最貧国に挙げられている自国よりも、経済的に安定し、治安が良く、外国人に優しい(friendlyなんていう単語が当てられているが)、食べ物が豊富な我が国を選んでやってきて、ヴィザが失効しようと何だろうと不法滞在を続けるのだ。そして、察するに帰国しても安楽に過ごせるだけ稼げば帰って行くのだ。彼らが我が国を食い物にしている証拠に、ここ新宿区の一角には送金事務所(店舗)が乱立してしまっている事態からも解る。

私が責めたいのはこれらの現象だけではない。政府の景気振興策が余りに貧弱なので、賃金が上がらず(上げられない凡庸な経営者が多くて?)、可処分所得が増えないので内需が振興されず、大して効果がある訳でもないのにも拘わらず「オーバーツーリズム」などに悩まされる「インバウンド」に依存しているのだ。もっと根本的で民の竈が潤うような施策を講じて貰いたいのだ。何故、我が国にはGAFAMが育ってこないのかを反省して貰いたい。

インバウンドを讃えるマスコミもだらしないのだ。その最中に本日の産経のような記事を載せることは、歓迎しても良いと思っている。本来は先進国の中でも私が言う支配階層に属するような人たちに来て貰えるような体制を整えるべきなのだ。だが、何時まで経っても中国の爆買いに期待しているようでは景気が回復するのは「百年河清を俟つ」にも等しい無策ではないか。現に私の上司や同僚だった人たちは、リタイア後には一人もやってきていない。

招くべき外国とその国の指導的階層に焦点を絞った観光立国策を立案して欲しいものと考えている。何時まで経っても京都と浅草が観光名所では事態は変わらないのではと懸念している。政治家にも所管の官庁にも諸外国に出向いて、もっとより深く外国を知る努力を願いたいのだ。来て貰う人たちは選べないが、是非とも来てほしい人たちは選べるだろう。その人たちに向かって焦点を絞る体制を整えられれば良いのだが。


英語の勉強の仕方

2023-09-17 07:26:30 | コラム
英語の勉強法を語れば:

「音読・暗記・暗唱」の薦め:
私は英語を学ぶのにはどのようにすれば効果的かという点で「音読・暗記・暗唱」を唱え続け、その成功例も取り上げてきたし、我が国の学校教育における英語の教え方の問題点であろうという辺りも今日までに繰り返して指摘してきた。

今回は、それに加えて「英語で自分の言いたい事と考えていること等を、どのようにして表現すれば相手に解って貰えるか」、即ち会話の仕方のコツをも取り上げていこうと思う。その中でも「効率的である」と私が経験からも信じているのが「native speakerや日本人でも熟練した達人が使った『上手い表現の仕方だ』だと認識できた言い方を記憶しておいて、ここぞという場合に使えるようにしておく」なのである。

この要点は「難しい内容でも、解りやすいというか優しい単語を使って表現できる」ということなのである。その辺りを拙著「アメリカ人は英語がうまい」に取り上げた経験談を、あらためて紹介してみよう。

それは、1973年の第一次オイルショックの頃のこと。パルプ不足を補うべく某大手製紙会社の常務さんがMead社の本社まで増量の交渉に海外事業担当のオウナーであるネルソン・ミード氏との交渉に赴かれた時のことだった。ミード氏は全く取り合わず「増量は不可能」と穏やかに拒絶。常務さんは一言ももう一押しすることもなく退席してしまった。

私はその結果を直ちに東京のGMに報告せねばならず(FAX時代だったので)空いているオフィスを借りて原稿を書いていた。だが、「もう一押しせず」という英語の表現が浮かんでこなくて苦戦していた。そこに通りかかった秘書に助け船を求めると、事もなげに”You mean he did not press the point any further?” と言ったのだった。「上手い。言えてる(well putなどと言うが)。頂き」とばかりに使って無事に原稿を書き終えた。

この言い方の要点は「優しい単語だけで難しい内容を表現できている事」にあるのだ。この”press the point“は後々重宝に使う機会があった。即ち、要点は「上手いことを言うと思ったら、それを覚えておいて応用すること」なのである。

私は幼きnative speakerたちからも学んだ:

私は「英語とはそもそも自分が生まれた国で覚えた言語ではないのだから、それで思うように自分の意志を表現できるように話せる為には「このように言えば良いのか」であるとか「この言い方は良く言うべき事が表されている」と感じたnative speakerか練達熟練の日本人が使った表現をできる限り沢山覚えておき、「ここぞ」という時にそれを記憶の引き出しから出して話せるように訓練しておけば良い」と経験上も確信している。

今回は英語という言語では”for me“であるか、または”for you”でも何でも「自分に」か「貴方に」を言わないと形にならないという「日本語にはない念を押した表現」を幼い子供が話したEnglishを通じて確認したという例を挙げて、日本語との「表現の仕方の違い」を取り上げようと思うのだ。

言い方を変えれば、英語には、如何に強調するようなしつこさというか理屈っぽさがある事を忘れないで貰いたいのである。「そんな理屈を言わないでも、文法的に間違っていなければ、以心伝心というのがあるじゃないか」のような考え方は、Englishの世界には通用しないと承知して貰いたいのだ。
私はこれまでに繰り返して「我が国の学校教育における英語と、native speakerたちが話して書くEnglishは別なものである」と指摘してきた。実際に彼らの中に入って日常的に使われているEnglishを聞き且つ読んでいれば、我が国で教えている「英語」とは似て非なる点が非常に多いことは間違いなく良く解ると思う。

先日は英語では「誰のために」か「誰の」ということを明確にするためには、”for me”か”for 誰それ”を明確にしなければならないという点を取り上げた。今回は、現実にnative speakerたちがこのような表現を使っていたのかを未だに鮮明に記憶しているので、その例を幾つか挙げておこうと思う。

先ずは、これから帰国子女となるだろう小学校低学年の女児の例から。これは私が帰国する機内で隣の席に座ったアメリカ駐在が終わって帰国される商社の駐在員の一家で、ご夫婦と小学校と学齢前のお嬢さんたちだった。1980年代に入っていたもしれなかったが、未だビジネスクラスなどという有り難い席がなかった頃の話である。

その小学校のお嬢さんが立ち上がって、少し離れた席にいた父親に向かって、"Daddy, get that comb over there for me. Thank you."と語りかけたのだった。

それは「お父さん、そこにある櫛を取ってよ。有り難う」なのだ。ここで注目して貰いたい事は、アメリカ生まれで小学校にまで通っていたから言えることで、自然にというか意識せずに”for me“が入っている点なのだ。日本人同士での会話ならば、「私に」と言わないでも済むのだが、この女児は”for me”を言う英語(English)脳になっていたのだ。

このnative speaker風の語りかけはお父さんには通じたが、奥方は「何時もこれなので、解り難くて困っています」と正直に私に語りかけられたのだった。即ち、「アメリカで生まれ育ったお子さんが日常的に言葉遣いもアクセントも、日本で教えている英語とは非常に違うアメリカのEnglishで話すので困る」という意味のことを言われたのだ。要するに、「アメリカで日常的にアメリカ人と交流して育てば、このようにEnglishで話せるようになるもの」なのである。

次はウエアーハウザーの本社内でのことから。私がお客様と話し合おうと会議室に入ると、その前に会議をしていた連中の書類が、テーブルの上一杯に残されていた。お客様を案内してきた副社長秘書が慌てて言ったことは”I will put those out of your way for you.“だった。要するに「直ぐにテーブルの上を片づけます」なのだが、ここにも”for you“が入っている。勿論、そこまで言わずとも済むかも知れないが、それを必ず言うのが英語の理屈っぽさなのだとご理解願いたい。

簡単な単語だけで複雑なことでも表現できる:
最後は”for you“から離れることにする。これも幼い将来の帰国子女のnative speakerとしてのEnglishの例である。

これはある商社のシアトル支店に駐在していた従兄弟の息子の例である。彼の家に食事に呼ばれていた。確か当時は3歳だった男の子がLegoを使って一人で遊んでいた。やがて一人遊びに飽きて、Legoが入った箱から何個か取り出して母親に見せた。そして言ったことが”Mammy. Do you think you can make something out of these? “だった。ここにはout ofが使われている事が示すように、わかりやすい単語だけでかなり練度が高い立派な文章になっていた。

「これを使って何かが出来ると思う」と言っているのだが、逆に「この日本語の文章をこのような英文に訳してご覧なさい」という問題を出されれば、かなり難しい英作文になるのではないと思う。

母親は当惑した表情で、前出の商社マンの奥方と同様に「何時もこういう難しいことを言うので困っています」と嘆いていた。私は3歳児の見事な表現力に感心して、男の子に向かって思わず「へー、そういう時にはそう言えば良いの」と、日本語で話しかけてしまった。上手いなと感じた点は、Do you thinkから入って行った辺りだ。

実はこの男児には、彼の大叔父の葬儀の際に、20数年振りに再会した。そして「覚えているかい。20何年か前にシアトルで君と英語で会話をしたことを」と振ってみた。既に大学も卒業して社会人である彼は「全く覚えていません。第一、今では英語なんて全く話せません」と言うのだった。従兄弟も「帰ってきてから直ぐにこいつの英語は何処かに雲散霧消したよ」とまで言う始末。将に「帰国子女は辛いぜ」を画に描いたような実例だった。

なお、上記は2022年9月6日に発表した「英語の勉強法」を大幅に加筆・訂正したものである。

こんな日本に誰がした!?

2023-09-16 08:33:36 | コラム
学校健診なんて止めてしまえ:

週刊新潮8月21日号の「医の中の蛙」で、里見清一氏が興味深いことを言っておられると教えられたので、早速読んでみることにした。「面白い」はその人が使った言葉の綾で、里見氏が指摘しておられたことは、私に言わせれば本当に嘆かわしいことだった。「誰が、何の為に我が国をこのような状態に持ち込んだのだろうか」と嘆かせられるものだった。

それは「保護者が学校健診で心臓の鼓動を聞くことや背中を触る時には児童の上半身を裸にすることなく、上着の着用を求める声が上がっている」のに対して、医師会からは「それでは健診が出来ないから、止めてしまえ」とまで言われるようになったという事だった。里見氏の言わんとされたことを勝手に察してみれば、医師が裸の児童の体に触れることが「何とかハラ」に当たるとでも言いたい保護者がいるという事なのだろう。

何と言って論評すれば良いのか分からなかったが、私は「言葉を失うほどの衝撃」を受けたし、何という愚かな者たちが親になって出てくる時代になったのだろうかと「時代の悪い変化」を痛感させられていた。これほど常識が完全に欠如した人たちを生み出したのは誰だろうか、その人たちに何を教えればこうなったのだろうかと嘆いていた。

家内ともこの記事のことを語り合ったのだが、その際に出た問題点は「そんなことをお医者様に向かって言う人たちは、産婦人科に診察を受けに行った時はどうする気なのだろうか」だった。ところが、その直後に伺った眼科で長年年診て頂いている先生(女医さんである)に、時間の無駄をしない程度にこの話題を出してみた。すると、先生は「もう、産婦人科ではそういう問題が出ていますよ」と言われたのだった。「何をか言わんや」である。

里見氏の文章の中には「ハラスメント」は出てきていないが、私は今日のように何でもかんでも「ハラ」を付けて非難し攻撃する流れを、「何とも言えないイヤらしさであり、品位かがない」と感じるし、苦々しい思いで見ている。「パワハラ」だの「カスハラ」だのと、何処かで誰かが次から次へと奇妙な造語を作っては世間に広めていくのに、嬉々として飛びついて何らの批判もなく広めていく報道機関にも、あらためて愛想を尽かしたくなる。

私が言うまでもないだろうが「パワハラ」などと言い出せば「上司は部下を叱ることも出来なくなる」と言われているし、店先で店主や店員に言われなき難癖を付ける不心得者の行為を「カスハラ」などと言われては、そのカタカナ語が何を意味するかを理解できるまでに時間がかかってしまった。何でも「ハラスメント」を短縮して「ハラ」にすれば良いと思っているのも、カタカナ語排斥論者からすれば「情けない知識と理解の不足だ」となる。

私はこの「ハラ」というカタカナ語を作り出した人(たち?)は英語の“harass”の意味をチャンと辞書を引いて調べた上で使ったのかと疑っている。正直に言えば、私は長い間のアメリカ社会の暮らしの中でこの言葉を使ったというか、使う必要に迫られた経験がなかった。即ち、日常的に使われてはいないと認識している。そのような堅苦しい言葉を日常的に使ってしまう感覚は如何なものかと思う。

因みに、ジーニアス英和には”harass“は「(人)を厄介なこと・心配なことで(絶えず)困らせる、(繰り返し)悩ます(with, by)」と出ている。二番目に「敵を(繰り返し)攻撃する、急襲する」が出てくる。これでは「パワハラ」にも「カスハラ」にも当て嵌まっていないのではなかろうか。私は35年ほど前に本部で初めて”sexual harassment”というのを聞いた。

そういう意味の単語を今日のような形にまで広めたのは凄いが、学校健診をさせないような事まで言い出すような人たちが出てくるような教育をしているのだろうか。もしそうならば、そのような時代の流れを産み出したのは何処の何方なのだろうかと、私は憤慨しているのだ。

何もこの里見氏が採り上げられた問題だけに限らず、常識が欠如した、理屈にもなっておらず、理論的ではないことを周囲の迷惑を考えずに声高に言い出す階層(年齢層か?)を生み出してしまった現在の我が国と、その将来に限りない不安を感じているのだ「こんな日本に誰がした」と。