Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

都市と地方---知性中心主義の否定から考えて。

2017-02-04 22:11:17 | 考えの切れ端
知性中心主義は、
言うまでもなく、頭がよくて勉強ができるひとが素晴らしいとして、
ひとの価値を頭の良さで順列する考え方。
似たものに、お金中心主義がある。
それはさておき、ぼくは知性よりもお金よりも大事なものはあるし、
それに順列して階層化することもないだろう、と思うひと。

だから、知恵や知識をたくさん蓄えねばならないんだと、
多くのひとが本を読んだりして、
そうしないひとを見下すようなのはまったくの間違いだと考えている。
いろいろ考えたけれど、
娯楽以上の知識の付け方は学者だとか
専門家にまかせたほうがいいのかもしれない。

みんなが政治やら科学やら倫理やらのエキスパートレベルにあって
「これが民主主義」だって誇れるくらいになるのは
スタートレックの世界くらい夢想の世界の物事でありはしないだろうか。
というわけで、最低限以上の勉強を放棄しても
できるだけ迷惑をかけないスキルを持てば許される世界がひとつの理想。

だけど現実として、
科学が進歩して、
燃料が水素になるだとかAIの進化が著しいだとかビットコインだとか
もうほんとうにいろいろ新しいものがでてきて知識をつけることを強いられるし、
せっつかれて勉強をしないといけなくなる
(常識をつけないといけなくなる)。
ここが不幸のポイントだと思うのだ。

なんでも知識をつけること、
知恵をつけることが大事に思えるから
(そりゃ大事ではあるんだけれども。金儲けにも騙されないためにも大事だ)、
この社会は知性中心の世の中で、それは絶対的なものだと錯覚してしまう。
知性中心なんて当たり前だね、と思ってしまう。
お金が一番なんて当たり前だと思うのと同様に。

まあ、いまって、
お金と知性とが両輪で回っている価値基準の力が強いのかもしれない、と思っていて。
やっぱりこういうのって、
ディストピアを念頭にした強迫観念からきているのかな。
機械に支配される、
宇宙人に支配される、
どこかの秘密結社や悪の組織に支配される、
そういうのに対抗しなきゃ、自分だけでも助からなきゃという。

それで、お金と知性中心主義ってやっぱり都市部からでてくるでしょう。
都市部からは、エコだとかスロウだとかそういうコンセプトが出てきますが、
バブルだとか不寛容も出てきます。
こういうのは一部ではありますが、
当然、都市は全能ではないということです。
同様に地方にもいい面と面倒な面がある。

均質化せずに、混ざりあえるところは混ざりあえばいいんですよね。
むずかしいかもしれないけれど。
都市部と地方で対立することはないです。
都市部の便利なところなど地方に対して融通してもらえれば融通してもらい、
地方の時間感覚や自然なんかだって必要なものだから都市に融通する。
今だってそうなってはいる。

温泉やスキー場に地方を利用し、
病院や娯楽なんかで都市を利用する。
そういうのはあるけれども、
人間単位でもお互いによく知りあえば
双方にプラスにはたらくものはあると思います。
なんでも区分けして、あっちこっち分けたがる風潮ってあるように思いますが、
自ら亀裂をこしらえることはないのでは。

トランプ大統領がメキシコとの間に壁をつくることに反対するひとは、
壁という存在が、人間間に亀裂を作るからだと言ってはいないかな。
ぼくはうっすらとしか考えてなくて発言するには申し訳ないのだけれど、
壁は亀裂だと思った。

こういう考えの根本には、
できるだけ「生きやすい社会」を、というコンセプトがあります。
いらんストレスはいらんし、
差別やいじめも少なくなっていけばいいし、
当たり前だけれど暴力も減って、
人々がフェアにそして自由に暮せると一番いいなと思っている。
そういう理想に近づけばいいなあ、と。

最近、録画していたアドラーの番組を見て、
それで再確認したのですが、
アドラーの考えを知れば、
劣等感や優越感というものは無くならないもので、
ひとはそれらを用いて成長していくとしているのがわかった。
劣等感や優越感も生きづらさを生みますが、
そこらはダイナミックに考えるといいんだろうなぁ。
大きく見て、生きやすさと自由に繋がれば、取り入れるべきなんだろう。

話が逸れてきたからこのへんで。
ヴォネガットの『プレイヤー・ピアノ』は好きだったな、
というところにも結び付く、
反・知性中心主義の話でした。
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