読書。
『世論 (上・下)』 W・リップマン 掛川トミ子 訳
を読んだ。
ものごとを言葉にすると、
言葉にした時点で、
そのものごとの元々のところからなにがしかを零れおちさせてしまう。
つまり、ものごとは100%言葉にはできなくて、
省略してやっと言葉にしている。
また、各々の文脈によってものごとのとらえ方は変わる。
同じものごとでも、
配管工によるとらえ方、株主によるとらえ方、教師によるとらえ方は違ってくる。
そういった文脈というものがある。
しかし、人々ははっきりした言葉に踊らされてしまう。
・・・というような認知科学と記号論のような説明が続く。
そして、この論で重要な概念である
「ステレオタイプ」への言及が続いていく。
ステレオタイプやはっきりした言葉による表現など、
それらイメージ化で零れおちてしまうものがあるにも関わらず気付かず、
イメージ化されたもののみに注意をもっていかれる。
そしてそれらが重なりあっていったものがどうやら「世論だ」となります。
また、こういうのもありました。
「頭脳的訓練が少なければ少ないほど、
同時に注意をひく二つの物事には因果関係があるという理論を考えつきやすい。」
・・・たとえば小説って、伏線の回収だとか、
いろいろすべてが糸でつながっているのが良い
みたいなひともいるかもしれない。
でもそれって、知的ではないということとなります。
と、ここまでが上巻の感想です。
下巻は、
それまでの、今でいえば記号論や認知言語学にあたるものの萌芽をふまえた上で、
政治や新聞(マスメディア)について論じている部分が多いです。
民主主義の実際面において、
民主主義の理論面から外れて支配層を作ってしまうことが
さらっと書かれています。
さらに、専門家をたとえとして
「彼らも人の子」ゆえに「権力を楽しむ」とある。
狭い範囲での(一人だけだとかの)利己的な善が、
この権力を楽しむ行為ですよね。
周囲からすれば悪になる善。
本書『世論』は、
「ひとは見たいようにものごとをみるものだ」
(ひとは見てから定義するのではなく、定義してから見てしまう)
っていうことが一番の主張であるとされているところがあるみたいですし、
実際そうなのだろうけれど、
その一番の主張ばかりをみるためにそぎ落とされた、
『世論』全体にちりばめられている、
面白くてそれなりに大事な部分があって、
一番の主張さえ記憶すればあとはいい、みたいな、
歴史の年号と事件名だけ覚えるようなのではもったいない。
でに価値は決まった、とされている本でも、
そんなの知るか!と読んでみれば、
そうやって読んだ者の数だけ、
やっぱり感想や教訓はでてくるんじゃないでしょうか。
いやいや、それは間違いであり、価値はすでに決まっており、
本書の主張は解析され尽くしています、
とするのはおもしろくないですよねえ。
著者・リップマンは俊英の伝説的ジャーナリストですが、
そういった、「ひとは見たいように見てしまい、そこから生じるのが世論」
というメカニズムを構造的に変えたかったようです。
そのために、情報をつぶさに集めることを重要視します。
ちゃんと諸事実に光をあてて、関連付けをして、
それを民衆が受け取ることができるのを理想としました。
そのために、ジャーナリズムも各種情報機関もがんばろう、
といったように読み受けることができます。
本書が出版されたのは、第一次大戦後の1922年。
その後、第二次世界大戦が始まってしまい、
本書は平和に役立たなかったのか、
とネガティブな印象を持ってしまいがちですが、
その時代に溜まっていた良からぬ雰囲気や、
どうしようもないベクトル、人類としての経験の無さつまり未熟さ、
などなどいろいろ混ざり合った時代の空気を
一変させることはできなかったとしても、
今読んでみてもわかるように、
その内容は色あせてはおらず、むしろ新鮮です。
つまりは、この本の内容の高みまで、
この本からすれば後世の人間にあたる僕らでも、
まだまだ消化できていない考えである、
ということなんだと思います。
学生ががんばって読むような種類の本かもしれませんが、
その時期を過ぎても、興味を持って読んでみれば
楽しめると思いますよ。
『世論 (上・下)』 W・リップマン 掛川トミ子 訳
を読んだ。
ものごとを言葉にすると、
言葉にした時点で、
そのものごとの元々のところからなにがしかを零れおちさせてしまう。
つまり、ものごとは100%言葉にはできなくて、
省略してやっと言葉にしている。
また、各々の文脈によってものごとのとらえ方は変わる。
同じものごとでも、
配管工によるとらえ方、株主によるとらえ方、教師によるとらえ方は違ってくる。
そういった文脈というものがある。
しかし、人々ははっきりした言葉に踊らされてしまう。
・・・というような認知科学と記号論のような説明が続く。
そして、この論で重要な概念である
「ステレオタイプ」への言及が続いていく。
ステレオタイプやはっきりした言葉による表現など、
それらイメージ化で零れおちてしまうものがあるにも関わらず気付かず、
イメージ化されたもののみに注意をもっていかれる。
そしてそれらが重なりあっていったものがどうやら「世論だ」となります。
また、こういうのもありました。
「頭脳的訓練が少なければ少ないほど、
同時に注意をひく二つの物事には因果関係があるという理論を考えつきやすい。」
・・・たとえば小説って、伏線の回収だとか、
いろいろすべてが糸でつながっているのが良い
みたいなひともいるかもしれない。
でもそれって、知的ではないということとなります。
と、ここまでが上巻の感想です。
下巻は、
それまでの、今でいえば記号論や認知言語学にあたるものの萌芽をふまえた上で、
政治や新聞(マスメディア)について論じている部分が多いです。
民主主義の実際面において、
民主主義の理論面から外れて支配層を作ってしまうことが
さらっと書かれています。
さらに、専門家をたとえとして
「彼らも人の子」ゆえに「権力を楽しむ」とある。
狭い範囲での(一人だけだとかの)利己的な善が、
この権力を楽しむ行為ですよね。
周囲からすれば悪になる善。
本書『世論』は、
「ひとは見たいようにものごとをみるものだ」
(ひとは見てから定義するのではなく、定義してから見てしまう)
っていうことが一番の主張であるとされているところがあるみたいですし、
実際そうなのだろうけれど、
その一番の主張ばかりをみるためにそぎ落とされた、
『世論』全体にちりばめられている、
面白くてそれなりに大事な部分があって、
一番の主張さえ記憶すればあとはいい、みたいな、
歴史の年号と事件名だけ覚えるようなのではもったいない。
でに価値は決まった、とされている本でも、
そんなの知るか!と読んでみれば、
そうやって読んだ者の数だけ、
やっぱり感想や教訓はでてくるんじゃないでしょうか。
いやいや、それは間違いであり、価値はすでに決まっており、
本書の主張は解析され尽くしています、
とするのはおもしろくないですよねえ。
著者・リップマンは俊英の伝説的ジャーナリストですが、
そういった、「ひとは見たいように見てしまい、そこから生じるのが世論」
というメカニズムを構造的に変えたかったようです。
そのために、情報をつぶさに集めることを重要視します。
ちゃんと諸事実に光をあてて、関連付けをして、
それを民衆が受け取ることができるのを理想としました。
そのために、ジャーナリズムも各種情報機関もがんばろう、
といったように読み受けることができます。
本書が出版されたのは、第一次大戦後の1922年。
その後、第二次世界大戦が始まってしまい、
本書は平和に役立たなかったのか、
とネガティブな印象を持ってしまいがちですが、
その時代に溜まっていた良からぬ雰囲気や、
どうしようもないベクトル、人類としての経験の無さつまり未熟さ、
などなどいろいろ混ざり合った時代の空気を
一変させることはできなかったとしても、
今読んでみてもわかるように、
その内容は色あせてはおらず、むしろ新鮮です。
つまりは、この本の内容の高みまで、
この本からすれば後世の人間にあたる僕らでも、
まだまだ消化できていない考えである、
ということなんだと思います。
学生ががんばって読むような種類の本かもしれませんが、
その時期を過ぎても、興味を持って読んでみれば
楽しめると思いますよ。