読書。
『人生論ノート』 三木清
を読んだ。
戦前から戦中期の哲学者・三木清による23章の哲学エッセー。
「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。」(「懐疑について」より)。やっぱり、人の基本部分って「ゆらぎ」であるということを言っていると思いましたた。僕もずっとそう考えています。どこかひとつの位置に安住するものではない。できるだけ物事をしっかり見つめ、捉えていたいのならば、そうなのです。
懐疑には節度が必要である、と三木清は言う。手順を踏まず、工程を飛ばした懐疑は節度がない、といえると思います。節度のない懐疑は、独断であり、宗教化に陥り、そして情念に基づいて働く、と著者は続ける。また「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家はまったく論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。」とあります。こういう、ある種のつよさを持って世の中に懐疑をはさむ(意見する)のがベターなんでしょう。
次に「幸福について」のところで、「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。」とあります。こうやって逆転して見てみたがための見抜きは素晴らしいと思いました。そうかもしれないなぁ、なんて思いませんか。幸福は人格である、とゲーテを引いて三木清は断言しています。これは、他律性に縛られないことが生きやすさに大切だ、という僕の考えと重なっているものです。自律性という捉え方と、人格(肉体・精神・活動の総合)っていう捉え方ですから、僕の頭の中のイメージとしては符合するんです。
というように、自分の考えの証左を得られるようなところも少しあって、勇気が湧いてくるような読書にもなりました。
また、今日「非認知スキル」と言われているものを「習慣」という言葉で説明し、ベストセラー『サピエンス全史』の要諦である「虚構」についても、「人間の生活はフィクショナルなものである」として明らかにしていました。世代が変わるたびに忘れていくことだから、おんなじようなことを人間はくりかえしくりかえし、再度論じる人が出てくるということなのかなあ。伝承されるにしても人口に膾炙するにしても、情報量が多いし濃いからなのかもしれないです。
こういうのもありました。「自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう」(p63-64) これは現在でいうマウンティングに通じる話。マウンティングは、いまや若者にとってメジャーな行為ですよね。それはたとえば僕らの世代が若者のときにそういった波に席巻されていたなら、やはりマウンティングは定着していたと思うモノ。若者ってのはたいてい自信のない存在だろうから、無理してでも優越を欲しがってマウンティングが始まるということになります。つまり、「マウンティング」≒「自信がないことの告白」。あと、「自慢」っていう優越がありますけれども、マウンティングほど他者を組み伏せようとする力は持っていないのだと思います。発散的というか放出的という感じで。まあ、ノーマルな自慢もあれば、マウンティング的自慢もありそうですが。そして、マウンティングがはびこると、ただの「自慢」やただの「事実」すら、受け取り手によって被マウンティング化されてしまいがち。そんなつもりはないのに、相手が「マウンティングされたぞ!」という表情なり反応なりするというアレ。そして、それがマウンティングではないことが理解されない。そういう人に出合うことはふつうにあるので、それゆえマウンティングの袋小路感があります。だから、これを回避するにはみんなが自信を持つことなのだから少しずつ実力をつけていくといいのになぁと思います。そして実力を褒め合えて認め合えるといいのになぁと。せっかくついた実力を種にマウンティングせずに。再度言いいますけど「マウンティング」≒「自信がないことの告白」です。「君をほめたいから、とにかく少しでも実力をつけてみて!」っていう脱マウンティングにつながるスタンスの拡散を希望しますねえ。マウンティングによってみんな要らないちょっとした怒りを自然に抱えあうのはどうかなぁ、ですから。
他、利己主義者は自意識が強くそして想像力がない、と定義されていたりなど、響いてきてこちらの思索を活発にしてくれるような言葉が多々ありました。以下にいくつか興味深かったものを引用します。
「感傷は、なにについて感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。」
「感傷は矛盾を知らない。人は愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みもひとつに解け合う。」
「あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会のみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」
「『善く隠れる者は善く生きる』という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的にであるということをしっかりと見抜いて生きることである。」
「生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。(中略)娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。(中略)生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。」
『人生論ノート』 三木清
を読んだ。
戦前から戦中期の哲学者・三木清による23章の哲学エッセー。
「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。」(「懐疑について」より)。やっぱり、人の基本部分って「ゆらぎ」であるということを言っていると思いましたた。僕もずっとそう考えています。どこかひとつの位置に安住するものではない。できるだけ物事をしっかり見つめ、捉えていたいのならば、そうなのです。
懐疑には節度が必要である、と三木清は言う。手順を踏まず、工程を飛ばした懐疑は節度がない、といえると思います。節度のない懐疑は、独断であり、宗教化に陥り、そして情念に基づいて働く、と著者は続ける。また「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家はまったく論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。」とあります。こういう、ある種のつよさを持って世の中に懐疑をはさむ(意見する)のがベターなんでしょう。
次に「幸福について」のところで、「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。」とあります。こうやって逆転して見てみたがための見抜きは素晴らしいと思いました。そうかもしれないなぁ、なんて思いませんか。幸福は人格である、とゲーテを引いて三木清は断言しています。これは、他律性に縛られないことが生きやすさに大切だ、という僕の考えと重なっているものです。自律性という捉え方と、人格(肉体・精神・活動の総合)っていう捉え方ですから、僕の頭の中のイメージとしては符合するんです。
というように、自分の考えの証左を得られるようなところも少しあって、勇気が湧いてくるような読書にもなりました。
また、今日「非認知スキル」と言われているものを「習慣」という言葉で説明し、ベストセラー『サピエンス全史』の要諦である「虚構」についても、「人間の生活はフィクショナルなものである」として明らかにしていました。世代が変わるたびに忘れていくことだから、おんなじようなことを人間はくりかえしくりかえし、再度論じる人が出てくるということなのかなあ。伝承されるにしても人口に膾炙するにしても、情報量が多いし濃いからなのかもしれないです。
こういうのもありました。「自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう」(p63-64) これは現在でいうマウンティングに通じる話。マウンティングは、いまや若者にとってメジャーな行為ですよね。それはたとえば僕らの世代が若者のときにそういった波に席巻されていたなら、やはりマウンティングは定着していたと思うモノ。若者ってのはたいてい自信のない存在だろうから、無理してでも優越を欲しがってマウンティングが始まるということになります。つまり、「マウンティング」≒「自信がないことの告白」。あと、「自慢」っていう優越がありますけれども、マウンティングほど他者を組み伏せようとする力は持っていないのだと思います。発散的というか放出的という感じで。まあ、ノーマルな自慢もあれば、マウンティング的自慢もありそうですが。そして、マウンティングがはびこると、ただの「自慢」やただの「事実」すら、受け取り手によって被マウンティング化されてしまいがち。そんなつもりはないのに、相手が「マウンティングされたぞ!」という表情なり反応なりするというアレ。そして、それがマウンティングではないことが理解されない。そういう人に出合うことはふつうにあるので、それゆえマウンティングの袋小路感があります。だから、これを回避するにはみんなが自信を持つことなのだから少しずつ実力をつけていくといいのになぁと思います。そして実力を褒め合えて認め合えるといいのになぁと。せっかくついた実力を種にマウンティングせずに。再度言いいますけど「マウンティング」≒「自信がないことの告白」です。「君をほめたいから、とにかく少しでも実力をつけてみて!」っていう脱マウンティングにつながるスタンスの拡散を希望しますねえ。マウンティングによってみんな要らないちょっとした怒りを自然に抱えあうのはどうかなぁ、ですから。
他、利己主義者は自意識が強くそして想像力がない、と定義されていたりなど、響いてきてこちらの思索を活発にしてくれるような言葉が多々ありました。以下にいくつか興味深かったものを引用します。
「感傷は、なにについて感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。」
「感傷は矛盾を知らない。人は愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みもひとつに解け合う。」
「あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会のみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」
「『善く隠れる者は善く生きる』という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的にであるということをしっかりと見抜いて生きることである。」
「生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。(中略)娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。(中略)生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。」