読書。
『邪悪なものの鎮め方』 内田樹
を読んだ。
論考エッセイ集です。
この人の考察は物事のかみ砕き方が見事だなと思った。思ったのだけれど、歴史主義について否定的でそれは歴史に法則性を当てはめるからとあって、かのE・H・カーの歴史論と同じでありながらも、そのことを踏まえた良識あるような歴史学者はみたことがない、と著者は言ってしまう。
E・H・カーの『歴史とは何か』を読んでないわけじゃないと思うのです。だとすれば、法則性を否定する歴史学者は見たことがないというふうに、まるでE・H・カーの存在を隠匿するかのような論説の仕方が演技的に見えてしまうのでした。そういう意味では知に対して少しばかり誠実ではないのかもしれない(まあ、『歴史とは何か』を読んでいなくて、それゆえにちょっと浅い論考になったのかもしれません)。というか、全体を通してですが、庶民的で実践的な知の使いかたをする人なのかなあと思った。渡世の知の象限にある印象を持つ論考が多かった。
ただ、以上の歴史学のような箇所にひっかかると、いくつもある他の短い論考エッセイについても「これも似たようなケースなのではないのかな」と疑いの気持ちが生まれてくる。なかには見事なものもあるのだけど、それでもいつでもこちらは逃げられる態勢をとるような読書になります。よいとこだけ貰おう、というような。(読み終えてみると、一定の距離を取りつつ読むとおもしろい本だとわかります。一定の距離を取りながら、というのは、一般に、知らない人や親しくはない人との距離感の取り方だと思うので、特段におかしなことではないです)
さて。「情報と情報化」と「原則と無原則」の仕訳のしかたに僕にとっての学びがありました。言葉にして論理だててもらったという感覚がつよいという意味での学びです。
まず「情報と情報化」。
_________
「情報」を重視する人々は「x日までに大福をy個、原価z円で納品する」というようなことに熱中する。彼らが興味をもつのは、「納期」や「個数」や「コスト」や「粗利」や「競合商品との価額の差」など、要するに数値である。それに対して、「情報化」というのは「なまものから製品を作り出すダイナミックな工程」である。情報化にかかわる人々の関心はつねに「具体的なもの」に向かう。(p183)
_________
これって、観念と実感の違いともいえると思うのです。「情報」という数値は観念的で、「情報化」であつかう具体的なものは実感的です。気がつくと、ちかごろ世の中はネット世界もふくめてやたら観念的です。10月の『100分de名著』の録画を昨日見ていて司会の伊集院さんがおっしゃっていましたが、自分の目で見た景色が素晴らしいのにインスタにあげる写真にしてみたら案外で、その案外な方が正解ととらえて残念がってしまう。これって、観念的ですよね。
つぎに「原則と無原則」。原則というのは、筋が通っているがためにいかなるときもそうやりなさいとされるものです。無原則は以下に引用を。
_________
例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。無原則や親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。そういう親の方が「乗り越えやすい」からである。親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。それでよいのである(p261)
_________
ここで言われる「無原則」による影響は、認知的不協和といわれるものと同じだと思います。こころに良くないのです。だからといって原則的にばかりしゃちこばっているのもよくありません。どういう割合で配分して、さらに配慮もしながら生きていきたいところだと僕は思います。
それと、能力主義について言及したところで僕がビビビッと反応して考えたことも付記しておきます。
収入は努力と能力に相関するという能力主義。これが行き過ぎると、怠慢で無能力な人は社会的地位が低いのが本当だとなる。勝った者が獲得し負けた者が失うのは当然だとする。これって狭い考え方で、たとえばギャンブルに適用される有り方。でも社会はギャンブルではない。社会の仕組みも各々の人生も、……つまり、生まれ持った才能や傾向、育つ環境、社会の景気や風潮の影響などがそれぞれ違い複雑。事情の相違というものがある。加えて思想や価値観も違うなかで、それなのにギャンブルのルールで社会を切り取る感覚が強い。競馬だとか好きな人は多いけれども、ギャンブル思考が社会にも適用されてしまうのは、気づかずにそれらに飲み込まれているからなのかもしれない。あるいは元々の国民性なのだろうか。自戒を含めて言うのだけど、ギャンブルはギャンブル。割り切りが必要。競争社会だ! と言い切れる人に、ここで言ったようなギャンブル思考は多いような。もっと広くソフトに考えたいところです。
最後に、各章についたタイトルの中で、よい言葉だなと思った一言を。
「隗より始めよ」
(世界のなかでの遠くの問題や大きな問題に取り組もうとするより、身近なところから始めていこうよ、そのほうがうまくいくよ)
『邪悪なものの鎮め方』 内田樹
を読んだ。
論考エッセイ集です。
この人の考察は物事のかみ砕き方が見事だなと思った。思ったのだけれど、歴史主義について否定的でそれは歴史に法則性を当てはめるからとあって、かのE・H・カーの歴史論と同じでありながらも、そのことを踏まえた良識あるような歴史学者はみたことがない、と著者は言ってしまう。
E・H・カーの『歴史とは何か』を読んでないわけじゃないと思うのです。だとすれば、法則性を否定する歴史学者は見たことがないというふうに、まるでE・H・カーの存在を隠匿するかのような論説の仕方が演技的に見えてしまうのでした。そういう意味では知に対して少しばかり誠実ではないのかもしれない(まあ、『歴史とは何か』を読んでいなくて、それゆえにちょっと浅い論考になったのかもしれません)。というか、全体を通してですが、庶民的で実践的な知の使いかたをする人なのかなあと思った。渡世の知の象限にある印象を持つ論考が多かった。
ただ、以上の歴史学のような箇所にひっかかると、いくつもある他の短い論考エッセイについても「これも似たようなケースなのではないのかな」と疑いの気持ちが生まれてくる。なかには見事なものもあるのだけど、それでもいつでもこちらは逃げられる態勢をとるような読書になります。よいとこだけ貰おう、というような。(読み終えてみると、一定の距離を取りつつ読むとおもしろい本だとわかります。一定の距離を取りながら、というのは、一般に、知らない人や親しくはない人との距離感の取り方だと思うので、特段におかしなことではないです)
さて。「情報と情報化」と「原則と無原則」の仕訳のしかたに僕にとっての学びがありました。言葉にして論理だててもらったという感覚がつよいという意味での学びです。
まず「情報と情報化」。
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「情報」を重視する人々は「x日までに大福をy個、原価z円で納品する」というようなことに熱中する。彼らが興味をもつのは、「納期」や「個数」や「コスト」や「粗利」や「競合商品との価額の差」など、要するに数値である。それに対して、「情報化」というのは「なまものから製品を作り出すダイナミックな工程」である。情報化にかかわる人々の関心はつねに「具体的なもの」に向かう。(p183)
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これって、観念と実感の違いともいえると思うのです。「情報」という数値は観念的で、「情報化」であつかう具体的なものは実感的です。気がつくと、ちかごろ世の中はネット世界もふくめてやたら観念的です。10月の『100分de名著』の録画を昨日見ていて司会の伊集院さんがおっしゃっていましたが、自分の目で見た景色が素晴らしいのにインスタにあげる写真にしてみたら案外で、その案外な方が正解ととらえて残念がってしまう。これって、観念的ですよね。
つぎに「原則と無原則」。原則というのは、筋が通っているがためにいかなるときもそうやりなさいとされるものです。無原則は以下に引用を。
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例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。無原則や親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。そういう親の方が「乗り越えやすい」からである。親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。それでよいのである(p261)
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ここで言われる「無原則」による影響は、認知的不協和といわれるものと同じだと思います。こころに良くないのです。だからといって原則的にばかりしゃちこばっているのもよくありません。どういう割合で配分して、さらに配慮もしながら生きていきたいところだと僕は思います。
それと、能力主義について言及したところで僕がビビビッと反応して考えたことも付記しておきます。
収入は努力と能力に相関するという能力主義。これが行き過ぎると、怠慢で無能力な人は社会的地位が低いのが本当だとなる。勝った者が獲得し負けた者が失うのは当然だとする。これって狭い考え方で、たとえばギャンブルに適用される有り方。でも社会はギャンブルではない。社会の仕組みも各々の人生も、……つまり、生まれ持った才能や傾向、育つ環境、社会の景気や風潮の影響などがそれぞれ違い複雑。事情の相違というものがある。加えて思想や価値観も違うなかで、それなのにギャンブルのルールで社会を切り取る感覚が強い。競馬だとか好きな人は多いけれども、ギャンブル思考が社会にも適用されてしまうのは、気づかずにそれらに飲み込まれているからなのかもしれない。あるいは元々の国民性なのだろうか。自戒を含めて言うのだけど、ギャンブルはギャンブル。割り切りが必要。競争社会だ! と言い切れる人に、ここで言ったようなギャンブル思考は多いような。もっと広くソフトに考えたいところです。
最後に、各章についたタイトルの中で、よい言葉だなと思った一言を。
「隗より始めよ」
(世界のなかでの遠くの問題や大きな問題に取り組もうとするより、身近なところから始めていこうよ、そのほうがうまくいくよ)