読書。
『R62号の発明・鉛の卵』 安部公房
を読んだ。
20代半ばで芥川賞を受賞した安部公房が、30歳前後に書いた12の短編を収録した作品集。
どれもシュールで実験的で、ユーモアやウイット、アイロニーに笑わせられる場面もちらほらあります。毒が盛られたような内容の話であっても、おかしみを感じさせるシーンをちゃんと作られているため、シリアスになりすぎずに、フィクションの中身と適度な距離を保ちつつ、楽しめるのでした。また、そこのところをちょっと角度をかえて考えてみると、たまに水面に浮かんでくるあぶくのように、ここぞのところで効果的に滑稽さが仕組まれているからこそ、これは小説つまり虚構なのだ、と読む者は踏まえることができるんだなあ、とひとつ気づくことになりました。知的な距離感を構築するような文体と構造なのかもしれません。
巻末の解説を読むと、人間中心主義から180度翻った位置取りを作家は取るスタンスだというようなことが書いてあります。戦後すぐのころのアヴァンギャルドの思想がそういうものだったようです。だから、「棒」ではデパートの屋上から落ちた男が棒になったり、死のうとしていた男がその死と引きかえにロボットにさせられる契約を結ぶ「R62号の発明」など、人間と無生物が架橋されて物語られている。つまりは、人間も無生物も、そして「犬」という人間の言葉がわかり人間に勝るような犬がでてくる話もあるように、動物も、三者が対等(等価値)なものとして小説のパーツを為しています。そして、それらが、現代の読者である僕にとっても、相当おもしろいのです。
また、校長とケンカして前職場を去った男性教師が田舎の学校に呼ばれるところから始まる「鏡と呼子」は、その後の長編『砂の女』につながる作品だと思いました。パッケージと視点が違うだけでメカニズムは同じです。田舎の人たちが持つつよい猜疑心を見抜いていて、そこに確信があります。
本作の最後を飾る「鉛の卵」も秀逸です。1987年に冬眠装置にはいった男が、機械の故障によって目覚めたのは80万年後の世界。そこのところのとても大きな飛躍を、作家の豊かな想像力と、それを地に足をつけさせる論理力で、夢中になって読ませるものにしています。
すべての作品が、荒唐無稽でありながらも読むものの心をとらえます。そんなのありえない、と鼻で笑えそうなのに、「でも、待てまて、なにかがそこに、確かに存在している」感じがはっきりとあります。だからこそ、優れた短編小説なのでしょう。文体もきりっと締まっていて、すばらしい見本のようでした。
『R62号の発明・鉛の卵』 安部公房
を読んだ。
20代半ばで芥川賞を受賞した安部公房が、30歳前後に書いた12の短編を収録した作品集。
どれもシュールで実験的で、ユーモアやウイット、アイロニーに笑わせられる場面もちらほらあります。毒が盛られたような内容の話であっても、おかしみを感じさせるシーンをちゃんと作られているため、シリアスになりすぎずに、フィクションの中身と適度な距離を保ちつつ、楽しめるのでした。また、そこのところをちょっと角度をかえて考えてみると、たまに水面に浮かんでくるあぶくのように、ここぞのところで効果的に滑稽さが仕組まれているからこそ、これは小説つまり虚構なのだ、と読む者は踏まえることができるんだなあ、とひとつ気づくことになりました。知的な距離感を構築するような文体と構造なのかもしれません。
巻末の解説を読むと、人間中心主義から180度翻った位置取りを作家は取るスタンスだというようなことが書いてあります。戦後すぐのころのアヴァンギャルドの思想がそういうものだったようです。だから、「棒」ではデパートの屋上から落ちた男が棒になったり、死のうとしていた男がその死と引きかえにロボットにさせられる契約を結ぶ「R62号の発明」など、人間と無生物が架橋されて物語られている。つまりは、人間も無生物も、そして「犬」という人間の言葉がわかり人間に勝るような犬がでてくる話もあるように、動物も、三者が対等(等価値)なものとして小説のパーツを為しています。そして、それらが、現代の読者である僕にとっても、相当おもしろいのです。
また、校長とケンカして前職場を去った男性教師が田舎の学校に呼ばれるところから始まる「鏡と呼子」は、その後の長編『砂の女』につながる作品だと思いました。パッケージと視点が違うだけでメカニズムは同じです。田舎の人たちが持つつよい猜疑心を見抜いていて、そこに確信があります。
本作の最後を飾る「鉛の卵」も秀逸です。1987年に冬眠装置にはいった男が、機械の故障によって目覚めたのは80万年後の世界。そこのところのとても大きな飛躍を、作家の豊かな想像力と、それを地に足をつけさせる論理力で、夢中になって読ませるものにしています。
すべての作品が、荒唐無稽でありながらも読むものの心をとらえます。そんなのありえない、と鼻で笑えそうなのに、「でも、待てまて、なにかがそこに、確かに存在している」感じがはっきりとあります。だからこそ、優れた短編小説なのでしょう。文体もきりっと締まっていて、すばらしい見本のようでした。