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『こぼれ落ちて季節は』

2025-03-05 23:45:44 | 読書。
読書。
『こぼれ落ちて季節は』 加藤千恵
を読んだ。

いろいろな人たち、とくに学生など若い人たちが多くでてきます。本作は恋愛を扱う連作短編なのですが、そのなかで主人公を担っているひとたち、相手役の人たち、脇役の人たち、それぞれが、外向的だったり内向的だったり、興味の方向も恋愛観も、積極性の強い弱いも違うことがしっかり書き分けられている。ほんとうにいろいろな人が描けているので、小説世界が閉じていないです。だから、フィクションではあっても、誰かの(つまり著者の)独り舞台のような空想劇という感じは僕にはほとんど感じられなくて、好ましく、そして心地よく思えた作品でした、ときに屈折した心理を見せる人物がでてきてもです。読み心地の重さ、軽さといった重量感にしてみても、読み手として負担の少ないちょうどよい好感触でした。

最初の短編から、男女の関係のとき、女性側が「触れられてさまざまな境目がわからなくなっていく自分と、」(「友だちのふり」p16)と体感している最中の言語化と感性がいいなと思いました。普段は他人との間にしっかりした境界があるものですからねえ。そういったところに注目し意識するのか、と。

主人公がそれぞれの話にそれぞれの人たちがでてくる中で、脇役として別の話にまたがってでてくる者もいました。その脇役の男がある話の中で浮気をしていて、別の話で浮気がバレて修羅場を迎えているのですけど、おっかしくて仕方なかったです。だけど、ちょっと読み進めるとわかるのだけど、出合い頭でおっかしさを感じたりしたけれども、笑い話というわけではないんだよな、とすぐに身を正すことになりました。脇役の彼の人生もまた連作短編の物語のカギになっているんです。というか、身を正すなんて言い方をするとかしこまっているようでまたそれはそれで違って、個人的な笑いという逸脱から物語という本筋の道に戻って踏みしめて歩くように、つまりそのとおりを味わうように正対する感覚なのでした。まあ、それはそれとして。


では、引用をしながらになります。



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(略)ゆきは中学時代、イジメに遭っていたらしい。友だちとケンカしたのがきっかけらしい。きっと友だちが力のある子だったのだろう。
 腕力ということじゃなくて、力の差は絶対にある。わたしは幼いころからそれを意識していた。クラスの中で、誰が強く、誰が弱いのか。もしもトラブルが起きそうになったら、どう立ち回り、誰を味方につけるのが得なのか。
 わたしだって、いつもうまくやってきたわけじゃないけど、それほど大きな問題は起こしてこなかった。多分、ゆきはわからないのだろう。笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせることの重要さについて。(「逆さのハーミット」p87-88)
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→この短編の主人公である姉のあさひが、不登校になった妹のゆきについて述べている箇所です。ここを読んでみても、あさひが、うまく友人関係を乗り切る能力に優れているタイプなのがわかります。とくに大きな傷を負うことはなく、紙一重のケースはあったかもしれなくても危険をうまく回避して、学生時代を終えていくような人ではないか、と感じられました。
で、この引用部分ですが、僕には二重に身に染みてわかるんです。小学生から中学生の終わりくらいまでは、僕は「笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせ」られるほうでした、周囲に。かなりふざけたことやバカみたいなことを言ったりやったりして、友だちたちを笑わせることが好きだったのだけど、それは相手側からすると、気を遣って「いい反応」を見せてくれていたところはけっこうあったんだろうなあ、と今になるとわかってきます。で、中学の終わりころから、スクールカーストみたいなものが嫌になり、逸脱あるいは転落をするのですが、そうすると、それまでそんなに気を遣わなくてもよかった同学年たちの力関係が見えてくる。また、同学年のそれぞれが、力の強弱において僕をどう評価しているのかもわかってくる。
学生時代って、勉強に励む人には友人関係が二の次だったりする人もいますが、反対に、勉強が二の次で友人関係を楽しむことが第一の人も、たとえば僕の通ったような田舎の高校にはわんさかいるものです。勉強がよくわからなくても、後者のような子たちはすごく複雑なことをやっているんですよね。政治力とか、駆け引きとか、そういった試験とは関係のない能力が、日ごろから大なり小なり交差したりぶつかったりっしていて、勉強よりもそういったところが鍛えられていく人たちがいる。それは、社会に出てから、世渡りすること、先輩たちとのうまい付き合い方なんかに発揮されていくのでしょう。サバイバル能力につながるスキルとも言えますよね。
このあとの「向こう側で彼女は笑う」という短編の主人公である、別の高校生の女子もまた、この引用にあるように、笑いたくなくても笑ったり、ということで平静に過ごすことをよしとし、そこからはみださないか怯えてもいました。作家は学生たちの間に(実は、学生を卒業しても変わらなくて、あとのほうの社会人の短編でも似たようなことがでてくるのですが)厳然としてあるこういったひとつの有りようをぐうっと掴んでいて、巧みに言語化し、物語のなかで表現しているわけです。それは、暗黙の了解のような、良いか悪いかは別としても、この社会一般に根差す不文律であって、これを表現して突き付けたことは本連作短編でのストロングポイントにもなっていますし、作家の腕を見せたところだったとも言えるでしょう。



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(略)こんなにかっこよくて素敵な人に、彼女がいないはずはなかった。第一、彼女がいたとして、どれくらい問題だっていうんだろう? 多分昨日までのわたしだったら、そんなのはありえないって思っただろう。でも目の前、触れられる距離に彼がいて、温度や手触りを知ってしまっては、この状況こそが、それだけが、信じるべきものに感じられた。(「逆さのハーミット」p101)
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→音楽フェスのバイトスタッフとして働いたとき、現場で知り合った男の虜となり、彼の部屋で彼と寝た主人公。そのあと、男に付き合っている彼女がいることがわかるシーンです。彼と肉体関係を持ったことで、もう赤の他人ではなくなり、心理的な距離が特別なものへと変わったことがうまく描かれているなあと思いました。「この状況こそが」が、お見事なほどの鋭い感性ではないですか。ふつうでは踏み入れない状況。ふつうではそうはならない特別な状況。そういった二人だけの状況にいる自分と彼は、だからこそ、特別な深みにいるわけです。そして、その深みに至るまでに経た過程が証明する二人だけの実感があったからこそ、主人公のあさひは「信じるべきものに感じられた」んだろうなあと思えた次第でした。



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 大学生活を通して、わたしが身につけてきたように思っているものなんて、ちっとも価値のないものなのかもしれない。
(中略)
 東京を特別な場所だと思ううちに、自分までもが特別になっていくように錯覚していた。でも、地元にいたときと、今とで、わたしのどこが変ったっていうんだろう?(「波の中で」p223-224)
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→就活を振り返った主人公が、当時がくぜんとした思いを述べているところです。大学生なんて、「浮かれた存在」にどうしてもなってしまいますよね。いろいろやったようでいて、井の中の蛙だったのを思い知るというのは、ほとんどの人が社会に出て、あるいは社会に出る前の就活で感じることなのかもしれません。ただ、個人的なことを言うと、それを先に社会に出て会社や組織で十年選手とか二十年選手とかやってる人が、新人のそういった未熟さを知っていて、マウントをとるわけでじゃないですけど、なめて接してくることって多いと思うんです。そういうのが、僕が主人公たち大学生に感情移入してみると、とっても嫌ですね 笑 まあ、そこまで本作には書いていないですが。


というところです。

元も子もないことを言うのですが、一人称の小説って、自己言及が多いっていうの、あるあるじゃないですか。自己客観性も強い。外向的な性質の部分あるいは自己を保守する部分が、他者との境界をしっかり築かせるのでしょうか。自身の輪郭をきっちり定めるというようなのは、自分を言葉で定義づけする度合いの強さの結果かもしれません。もっとぼんやりしてたり、もっとよくわからない欲求や衝動に任せたりして生きている場面が多くてもいいんじゃないかな、と小説でも現実でもそうあればいいのにと、僕なんかは思ったりしました。人それぞれだから好きにすりゃいいことなのですけどね。まあ、割合の話です。






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