読書。
『驚きのアマゾン』 高野潤
を読んだ。
南米のアマゾン域に魅せられ、幾度も長期滞在を繰り返してきたカメラマンの著者によるアマゾン解説と体験記。
気候はもちろん、生存競争も激しくて厳しい自然の世界であるアマゾン。そこに住まう動植物たちの姿や性質には、各々が生き延びるための独自の特徴を備えているものが多いようです。川や湖のなかの魚たちにしても、鋭い歯を持つ魚はピラニアだけではないですし、硬い背びれや毒のトゲを持つ魚もいろいろといます。また、そんな魚を狙う鳥類やワニたちもいる。森のなかにはジャガーがいるし、ボア(大蛇)や毒蛇、毒蜘蛛もいる。ブヨや蚊やハチの大群がやってくることもあるし、噛まれると厄介なアリたちもいる。野営地を作ればホエザルの家族が樹上から糞尿をばらまいてきたりもするし、夜な夜な正体不明の怪音が聴こえてきて現地で雇ったスタッフともどもおびえることもある。地上では、ワンガナと呼ばれる野ブタの群れが、群れだからこそ実はもっとも強い動物としてジャガーたちも恐れているほどだそうです。ワンガナの群れが通ると、植物も小動物や昆虫なども食い荒らされていくのだと。イノシシのように気が荒くて、個体同士で小突きあってケンカしながら移動しているらしいところがユーモラスなのですが、人間としては出くわすと危険度の高い集団だということでした。
セルバティコと呼ばれる先住民の村で暮らすアマゾン案内人がいるのですが、彼らのアマゾンで生き抜く能力がすごいです。現代の便利になった世の中で暮らす人々のあいだでは絶えてしまった能力を発揮している人たちだと思いました。弓矢を使う能力の高さはまだ、西側諸国の人々であっても張り合える人はいるでしょうが、レメダルと呼ばれる鳥や動物の鳴き声をまねる技能で彼らとコミュニケーションするあたりなどは、セルバティコならではの能力でした。また、カヌアを使った川の遡下行の巧みさ、森の中での状況判断、そして生き抜いていくための知恵や力には、驚きを持って読み進めることになりました。『驚きのアマゾン』は、そういった人々への驚きも含んでいます。
著者がアマゾンを自分と同列かもしくは自分よりも高い存在として気を引き締めて接しているせいではないかと感じられるのですが、さきほどのワンガナの様子のユーモラスさのように、自然への目線が無機質とは正反対で、だからこそそこから紡がれる言葉が魅力的なところなんだと思います。読み物としてとても味がありました。漁の網に間違ってかかったワニが「しまった」という顔をして、それから目を閉じて動かなくなる。針をはずしたり網をはずしたりすると、どたどたと慌てて川の方へ走っていく。そういう野生の、ときに笑えてしまう味わいを短い言葉でそのまま伝えてくれるところが、僕らにとっては非日常の秘境であるアマゾンを伝える文章として信用できる感じがするんです。
それと、現地の人々の間に伝わる妖怪(マドレ)の言い伝えや、著者自身が感じたマドレ的体験についての項もあって、子どもの頃『ゲゲゲの鬼太郎』好きだった僕にとってはおもしろく感じられましたし、そういった、知識や言葉で分節の効かない現象のあることがアマゾンの豊かさ、それも行間に存在するような(あるいは余白に漂うような)豊かさの面でもあるなあと思えるのでした。
最後に、序章の部分での一文から。
____
(アマゾンに)通う回数がかさむにつれ、しだいに「自分はまだ何も知り得ていないのだ」と思うことの大切さを認識した。
____
知らないことがまだまだある、それも想像すらしなかった知らないことがたくさんある、ということがわかることって、知らずに視野が狭くなったり近視眼的になったりしていがちな多くの現代日本人にとって大切なことなのではないでしょうか。自分は何も知り得ていないのだ、という気付きや驚きが、その後の自分の伸びしろを拡げもするだろうし、傲慢さを弱くするだろうし、なによりも人を誠実なほうへと近づけていくのではないか。
そういった意味での、「己を知る」機会を与えてくれる本でもありました。実際にアマゾンに何度も足を運び長期滞在をした著者に比べたら、読者としての気付きは微々たるものだとは思います。それでも、アマゾンというすごく豊潤な世界を、端的に飾り気なく語ってくれる読み物ですから、やっぱり得られるものはちゃんとあるんです。読むという行為でアマゾンという世界に触れ、驚きながら、それとは別に己を知れるのです。これはもうすばらしい読書体験になりました。
『驚きのアマゾン』 高野潤
を読んだ。
南米のアマゾン域に魅せられ、幾度も長期滞在を繰り返してきたカメラマンの著者によるアマゾン解説と体験記。
気候はもちろん、生存競争も激しくて厳しい自然の世界であるアマゾン。そこに住まう動植物たちの姿や性質には、各々が生き延びるための独自の特徴を備えているものが多いようです。川や湖のなかの魚たちにしても、鋭い歯を持つ魚はピラニアだけではないですし、硬い背びれや毒のトゲを持つ魚もいろいろといます。また、そんな魚を狙う鳥類やワニたちもいる。森のなかにはジャガーがいるし、ボア(大蛇)や毒蛇、毒蜘蛛もいる。ブヨや蚊やハチの大群がやってくることもあるし、噛まれると厄介なアリたちもいる。野営地を作ればホエザルの家族が樹上から糞尿をばらまいてきたりもするし、夜な夜な正体不明の怪音が聴こえてきて現地で雇ったスタッフともどもおびえることもある。地上では、ワンガナと呼ばれる野ブタの群れが、群れだからこそ実はもっとも強い動物としてジャガーたちも恐れているほどだそうです。ワンガナの群れが通ると、植物も小動物や昆虫なども食い荒らされていくのだと。イノシシのように気が荒くて、個体同士で小突きあってケンカしながら移動しているらしいところがユーモラスなのですが、人間としては出くわすと危険度の高い集団だということでした。
セルバティコと呼ばれる先住民の村で暮らすアマゾン案内人がいるのですが、彼らのアマゾンで生き抜く能力がすごいです。現代の便利になった世の中で暮らす人々のあいだでは絶えてしまった能力を発揮している人たちだと思いました。弓矢を使う能力の高さはまだ、西側諸国の人々であっても張り合える人はいるでしょうが、レメダルと呼ばれる鳥や動物の鳴き声をまねる技能で彼らとコミュニケーションするあたりなどは、セルバティコならではの能力でした。また、カヌアを使った川の遡下行の巧みさ、森の中での状況判断、そして生き抜いていくための知恵や力には、驚きを持って読み進めることになりました。『驚きのアマゾン』は、そういった人々への驚きも含んでいます。
著者がアマゾンを自分と同列かもしくは自分よりも高い存在として気を引き締めて接しているせいではないかと感じられるのですが、さきほどのワンガナの様子のユーモラスさのように、自然への目線が無機質とは正反対で、だからこそそこから紡がれる言葉が魅力的なところなんだと思います。読み物としてとても味がありました。漁の網に間違ってかかったワニが「しまった」という顔をして、それから目を閉じて動かなくなる。針をはずしたり網をはずしたりすると、どたどたと慌てて川の方へ走っていく。そういう野生の、ときに笑えてしまう味わいを短い言葉でそのまま伝えてくれるところが、僕らにとっては非日常の秘境であるアマゾンを伝える文章として信用できる感じがするんです。
それと、現地の人々の間に伝わる妖怪(マドレ)の言い伝えや、著者自身が感じたマドレ的体験についての項もあって、子どもの頃『ゲゲゲの鬼太郎』好きだった僕にとってはおもしろく感じられましたし、そういった、知識や言葉で分節の効かない現象のあることがアマゾンの豊かさ、それも行間に存在するような(あるいは余白に漂うような)豊かさの面でもあるなあと思えるのでした。
最後に、序章の部分での一文から。
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(アマゾンに)通う回数がかさむにつれ、しだいに「自分はまだ何も知り得ていないのだ」と思うことの大切さを認識した。
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知らないことがまだまだある、それも想像すらしなかった知らないことがたくさんある、ということがわかることって、知らずに視野が狭くなったり近視眼的になったりしていがちな多くの現代日本人にとって大切なことなのではないでしょうか。自分は何も知り得ていないのだ、という気付きや驚きが、その後の自分の伸びしろを拡げもするだろうし、傲慢さを弱くするだろうし、なによりも人を誠実なほうへと近づけていくのではないか。
そういった意味での、「己を知る」機会を与えてくれる本でもありました。実際にアマゾンに何度も足を運び長期滞在をした著者に比べたら、読者としての気付きは微々たるものだとは思います。それでも、アマゾンというすごく豊潤な世界を、端的に飾り気なく語ってくれる読み物ですから、やっぱり得られるものはちゃんとあるんです。読むという行為でアマゾンという世界に触れ、驚きながら、それとは別に己を知れるのです。これはもうすばらしい読書体験になりました。