まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

毎日唱える呪文(1)

2020年08月12日 | 読経の日々

57歳で早期退職し、外で働き続けたいというカミさんの意向を生かし、滞っていた家事の解消、地域とのお付き合いの復活。

そんな生活も、7年目に入り、この間、カミさんも無事定年を迎え、今も元気にパートのおばちゃんをやっている。

一方、退職時の蓄えは、思いのほか減っていない。

家事に支障がない程度での、日雇いに近い、ゆるい縛りのアルバイトで、働く機会があるなら働こうという、『少し働く日々』という思いが、良かったのだろう。

組織の中では、人間関係不得手で、マイノリティーの私にも、マイナス面は補ってくれ、いい面を使ってくる先輩が少なからずいた。
だから、生きてこられた。

でも、無所属になれば、それもない。

一人となったとき、いかに今まで自分がわかっていなかったかということに気付かされた。

わが家は、男系は短命のようで、父や祖父が仏壇に向かっていた姿を見た記憶ことはない。

でも、その分、ばあちゃんや母は、毎朝ご飯とお茶をそなえて焼香し、リンを鳴らしていた。

時間があったので、自然、自分も仏壇に向かう時間が増えた。

わが家のお寺は、曹洞宗。

当時は、いくつかの宗派の名前は知っていたものの、お寺(仏教)はお葬式の時のもの、くらいの認識でしかなかった。

和尚さんが、お彼岸、お盆等において行ってくれた冊子をキッカケに曹洞宗檀信徒勤行、簡単に解説されたお経の解説書など買い求め読むようになった。

入り口は広く、奥の深い世界で、未だに分からなことばかりだけれど、毎日の生活の中でそんな時間も定着した。

曹洞宗は、只管打坐。
座禅を主とすると分かったけれど、関節が固くて、とてもできない。

座禅という形は、一生できないが、心静かに、日々の生活をきちんとすること。

きちんと日々の生活をすることを修行だと考えれば、座禅という形とらわれることはないと勝手に思っている。

読経も毎日時間を割ければそれにこしたことはないが、実生活の中ではそうもいかないことの方が多い。

朝夕の一時、自分の心に響く(言い聞かせる)教えを唱えるようにしている。

このブログに『読経の日々』という括りをつくり、少しづつ書いてきたこともあるけれど、考え方を変えるだけで、ずいぶん楽に生きられるものだなぁ、と思う。

朝夕の一時、自分の心に響く(言い聞かせる)教えについて、2~3回に分けて書いてみたい。

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