まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

毎日唱える呪文(3) 仏 法 僧

2020年08月16日 | 読経の日々

前回書いた『懺悔文(さんげもん)』とともに、『三帰礼文(さんきらいもん』という短いお経がある。

『三帰礼文』は、仏(お釈迦様)・法(お釈迦様の教え)・僧(仏教徒としての仲間)の三宝を信仰すると宣言するほどの内容か。

さらに、『修証義 受戒入位』の章では、三帰の重要性が詳しく解説されている。
この章の中で、

南無帰依仏

南無帰依法

南無帰依僧

とあり、これが毎日唱える呪文の2つ目である。

私のようなグータラ強欲ジイサンの中にも、仏性はあるのだそうだ。

そういわれれば、いままでにはた迷惑なこともずいぶんしてきたけれど、少しは人に感謝されたこともあった。

お釈迦様は自分の中にいる、そう考えると、グータラ、強欲はなおるべくもないが、お釈迦様が説かれた教えを頼りに、それを実践して生きていこうという姿勢は悪くない。

修証義にも「一日の行事これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」とある。

『僧』については、毎日接するすべての人と勝手に解釈している。

私に苦痛や不快をあたえるのも人であるけれど、解決の手がかりを示してくれたり、導いたくれるのもまた人(人の中にある仏性 観音様)である。

渡る世間は鬼ばかりともいうけれど、観音菩薩だってあっちこっちで自分を見守ってくれている。

お釈迦様の教えを伝えてくれる僧という点では、ネットに公開されている法話やメルマガをスマホなどでよく読むようになった。
こちらは、曹洞宗に限らず、真言宗、浄土真宗なども。
いつも良いお話を提供してもらっている。

私には、世にいう死後の世界とか、極楽と地獄など想像もつかないことがたくさんある。
おそらく「死んだら、骨になって終了!」という考えのまま最期を迎えそうか気がする。

最近分かってきた(感じてきた)ことは、

お釈迦様は、自分の中に生きているということ。

ご先祖様も、あの世じゃなくて、自分の中にいるのはないかということである。自分は父母から生まれ、父母も父母から生まれた。その系譜の最先端の今に生きるのが自分である。

今お盆だけれど、宅内やお墓を掃除しお盆の準備をしたり、お墓にお参りしたり、ご住職にお経をあげてもらうという行為も、お盆という機会を通じて、自分が今をしっかり生きているかの確認をしているような気がする。

私がしっかり生きていること=父母をはじめとするご先祖様の喜び のはずである。

早寝早起きをし、起きたらキチンと顔を洗い、歯を磨く。

食事の準備をして、感謝していただき、片付ける。

朝のほんのひとときだけれど、『懺悔文』と、この『三帰戒』を唱えるのが、最近の読経の日々である。

その後は、家事をしたり、シルバーバイトの日雇とりに出たり。

自分なりの思いをこめて唱えると、短い経文でも、一日のスタートにはとても良い効果があると感じている。

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