鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

江戸東海道の道路拡張工事

2024年12月20日 | 古代東海道

明治9年(1876)のことです。この年、明治政府は太政官通達によって全国の道路について、種類・等級・幅員などを定めています。すなわち道路の種類を国道、県道、里道の3種類とし、それぞれ一等、二等、三等に分けました。
明治9年に指定された一等道路は東京から横浜港へ達する道路、二等道路は東京から伊勢皇太神宮へ至る道路です。
しかし明治18年(1885)に、国道の級別が廃止され、東京~横浜港を「国道一号」、東京~大阪港を「国道二号」、東京~神戸港を「国道三号」としました。重複した名前が付けられていますが、これが「国道一号」と認定された最初です。
ただし箱根の東海道だけは国道一号にはなりませんでした。というのは、箱根路も明治6年に一等道路に指定されましたが、その後新道が開削され、明治41年(1908)には新道が国道一号となり、歴史的な箱根路は里道になってしまったからです。

『慶長見聞集』によると、江戸幕府は慶長9年(1604)に全国的な道路改修事業を起こし、道幅を広げ、道路の屈曲をやわらげ、牛馬の往来の障害となる小石を取り除き、松や杉などの並木を植えるなどを行ったと記されています。
さらに元和2年(1616)、徳川家康が没すると、家康の遺訓といわれる『家康百箇条』が示され、このなかに江戸時代の道路政策や道路の種類・等級に関するものが見えます。
そこには道路の種類ごとの道幅が次のように記されています。
大海道 6間(約10.8m)
小海道 3間(約5.4m)
横道 2間(約3.6m)
馬道 2間(約3.6m)
歩行路 1間(約1.8m)
捷路 3尺(約90cm)
作業道 3尺(約90cm)
_
東海道は大海道ですから、これによれば基本的に6間(約10.8m)と定められたことがわかります。
一方、東海道の道幅を示す橋の横幅を調べてみると、川崎宿から保土ヶ谷宿まではほぼ3間(約5.4m)、それより以西では2間から2間半と狭くなっていることがわかります(『東海道宿村大概帳』より)。

東海道の橋より
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/13index.htm
また道幅を示す橋の横幅は、いくつかの例外は見られるものの、川崎宿から保土ヶ谷まではほぼ3間となっており、それより以西では2間から2間半の橋が多く、東海道の道幅が全体として1間から3尺ほど狭くなっていることがうかがえる。

その様な理由で、保土谷より西の東海道は「2間程の道幅」と考えが、私の実感でもあります。

二間幅の道路は狭い?  当時の相場として、戸塚から大山までの江戸時代の庶民が歩いた道や、矢倉沢街道の秦野の痕跡等は一間程で在ったのです。これは大八車(畳一枚を乗せる荷台の幅に車輪を取り付けると一間の道が必要)を通せる道それが、当時の著名な街道の道幅ですから、、十分に広い訳です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰陽師 安倍晴明その2

2024年12月17日 | 鎌倉時代の人物

大江広元(ウィキペディアより) - 朝廷に仕える下級貴族官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。

その様な訳で 鎌倉幕府に絡む重要人物の大半が武人ですが、中で唯一人 大江広元だけが官人であり、宮中に絡む陰陽師と関連すると思われる。 更に、大江家の領地の木曽福島には、安倍晴明の墓が存在するのです。陰陽師の安倍晴明を鎌倉に呼び寄せたのは大江広元であろう! っと推察する理由です。

大江広元の話は更に後の時代に影響していきます。その後の戦国時代は、毛利家に秀吉が水攻めをやっている最中に、信長が本能寺で死んだ話となり、鎌倉攻めに間に合わなかった薩摩は、江戸時代に迄生き残る。更に幕末には薩長連合の薩摩と長州の元が此処にある。

此処を上がると立派な墓が3ヵ所有り、毛利季光の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓と成りますが、この毛利、島津の影響は明治維新まで影響を及ぼします。

取り敢えず、陰陽師の安倍晴明は鎌倉に結界を張るだけにトドマラズ、建長寺にも結界を張った痕跡は次回。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城の沿革

2024年07月07日 | 大鎌倉城

鎌倉に城がある。
中国では、城主や市民の生活の場を壁で囲い、城と呼ぶ。
頼朝は千葉氏の助言もあり、自然の要害の山が有る鎌倉を幕府の地と選んだ。
初期の城としてやった事は、前の時代に、古代東海道と古代東山道分岐道が鎌倉在った為、この巨大な道を塞ぐ(痕跡は海蔵寺の裏の大堀切)事で城の体裁を整えた。依って出入りは困難に成った。
次に、出入りを出来る場所を七口とし、外部に向けて切岸と言う名の崖をり、鎌倉城は完成した。明確に守る幕府と市街地が有る城です。
初期の鎌倉城は、反幕府勢力に対抗する為に鎌倉の市街地と幕府を守る目的で外に向けて切岸を作ったと考えられ、古代東海道と古代東山道分岐道を封鎖する事と、朝比奈峠の様に道幅を狭くし敵を迎撃出来る砦構造に改造した。

その後、時代は変わり、
蒙古襲来=元寇があり、 博多湾には全長20㎞の元寇防塁を作り、鎌倉城では蒙古と対戦する為の砦として初期の鎌倉城は規模を巨大化した、、、現在残る切岸を主体とした防御遺構が、現存する鎌倉城です。
蒙古襲来時は、
船で襲来する蒙古軍に対し、由比ヶ浜には博多湾と同様な元寇防塁(遺構は由比ヶ浜駐車場より出土)を作り、その規模は七里ガ浜、由比ヶ浜、逗子海岸等の他に金沢八景を主体として東京湾周囲に在ったと思われる。
 由比ヶ浜の元寇防塁を破られた時には、鎌倉市内は元寇が占拠するのだが、その対策に、鎌倉城には市街に向けて切岸を作った。
要は七口の内側に向けた切岸は市街地を捨てた砦に変わる、蒙古に対抗する為の由比ヶ浜より押し寄せ市街地を占拠した蒙古軍に対抗した切岸を作ったのです。三方の山から蒙古軍に攻撃を仕掛けて殲滅する砦と言う性格に変わる。
更に、
蒙古軍は、六浦の港から侵入する事を想定した造りに成っていたと考えられますが、、、
40年前に見た六浦の見事な切岸の大半は住宅地として消滅していますが、完全に消えた訳では無い。個個に建てられた個人住宅では、切岸を無くす土木工事はされずに連続した切岸を見る事が出来る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰陽師 安倍晴明

2024年05月23日 | 鎌倉時代の人物

陰陽師と鎌倉
「鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8」(2016/02/24)に纏めた中の5番目の記事です。  下の写真は晴明石です。

 5番目の記事に安倍晴明の呪術の痕跡が在る事を記載しました。
何故陰陽師が鎌倉幕府に関わったのか? それが不明でした。
モッパラ、武人は精神面を南宋の僧侶から学び、特に建長寺は禅を主体に自身を作り上げる臨済宗です。
更に南宋の僧侶から、モンゴル帝国である元の侵略情報を得てモンゴル侵略の対応を真剣に考えて居た様です。

武力で事を解決する鎌倉武士に 何故陰陽師が関わったのか?
ドチラかと言えば、武力を持たない宮人が 呪術で事を解決するのが陰陽師の役目と考えるのですが、、、
実際は、鎌倉に結界を張り、防御した安倍晴明の痕跡として、北鎌倉駅近くの鎌倉街道に晴明石がある。

北鎌倉駅前を通る鎌倉街道の西側130mに「十王堂橋」が在り、その際に晴明石が街道の真ん中に在ったが、鎌倉街道改修工事で邪魔になり、八雲神社移されたのは、戦後の話です。
現在は、鎌倉街道の横須賀線踏切際に、「陰陽師 安倍晴明大神」の石碑がある。

画面右端の小さい石碑が、鎌倉街道の横須賀線踏切際に、「陰陽師 安倍晴明大神」の石碑で、石碑上部に横須賀線の架線が写っています。本来は鎌倉街道「十王堂橋」脇に晴明石が在りその橋の脇に在るべき石碑ですが、、500m八幡様よりの踏切を越した場所に有ります。

次回の話は、、、大江広元との関連です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城西側防衛線 稲村より大仏切通

2024年04月15日 | 稲村ヶ崎伝説

新田義貞の攻めた鎌倉城の防衛線は「鎌倉城の特徴」に書かれた赤いラインで、その下は鎌倉城の城壁の切岸です。
現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ 切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。
鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見える。眺望の有るべき源氏山は、街並みも見えず海も望めない。

下図は、樹木と建物を排除し、稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、赤ラインの下の崖です。

下図は 更に建物の現状の下の図。仮想図で樹木の厚みは表示してない。切岸の傾斜が強い場所は、黒く強調した合成写真です。

切岸に近づくと樹々の隙間から切岸を覗く事が出来たり、峰の上から直線的に削り取られた切岸が見える場所もある。前の図に写真を張り付けただけなので、現実の写真と比べ、樹木の厚みや建物の立体した3Dの状態は無いので注意。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

も く じ

2024年03月25日 | Weblog
中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。
写真は、古代道の特徴を持つ藤沢市の道路遺構。
 
もくじは書いた順で表示してあります。
カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。
PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。
●初めての方へ、古代駅路の特徴----2006-05-13
●鎌倉街道七口------------2006-05-23
●鎌倉街道?これは東山道武蔵路----2006-05-27
●大仏切通し1~6-----------2006-06~
●梶原口から化粧坂へ---------2006-06-29
●朝比奈切通し 1~10---------2006-06~ 
●続・朝比奈峠東の小切通し------2006-07-24
●東山道武蔵路------------2006-07-26
●朝比奈峠から六浦へ!--------2006-07-29
●古代駅路は、直線?---------2006-08-07
●「毘」スクラッパ-さんへ------2006-09-04
●想定伝路水道道路----------2006-09-06
●古代道探しの原点----------2006-09-08
●武蔵大路が鎌倉に有る!-------2006-09-10
●鎌倉街道上の道と東山道相模路----2006-09-11
●水道道路(明治の地図)1~5------2006-09~
●頼朝の策略-------------2006-09-26
●立石1~4--------------2006-10-02
●玉縄城---------------2006-10-06
●東山道相模路の鎌倉入り-------2006-10-07
●鎌倉[謎の大堀切]----------2006-11-01
●鎌倉最大の切通し1~8--------2006-11~
●鎌倉市内の駅路-----------2006-12-
●六浦道1~9-------------2007-06~
●源氏山より寿福寺前に1~3------2008-02~
●鎌倉の砂鉄1~7-----------2008-04~
●緊急事態!-------------2008-04-10
●狭山市と所沢市の間---------2008-04~
●横浜市と鎌倉市の境・1・2------2008-05~
●空中写真--------------2008-06-29
●空中写真を「立体視」--------2008-07-15
●表紙の場所から後方を写す!-----2009-02-24
●空中写真を「立体視」の応用-----2009-02-27
●忘れ去られた鎌倉手広 1~10-----2009-08~
●忘れ去られた鎌倉山崎切通編-----2009-10-16
●忘れ去られた鎌倉今泉編1~6-----2009-12~
●あけましておめでとう!-------2010-01-11
●コメントより(鎌倉今泉編6) ----2010-02-06
●御柱1~2--------------2010-04~
●工事が始まる。-----------2010-06-06
●上の道、下の道1~6---------2010-10~
●鎌倉の古代 1~11----------2010-11~
●グーグル地図より1~3--------2011-11~
●あけまして-------------2012-01-06
●藤沢市の遊行寺、西脇の道------2012-03-27
●表紙を飾道路遺構は消えた!-----2012-06-20
●大鎌倉城1~7------------2012-09-10
●大鎌倉城隠された大切通1~6-----2012-12~
●鎌倉に城は無かった1~8-------2013-01~
●富士山中に東海道序 1~10------2013-02~
●富士山中に東海道十里木 1~10----2013-05~
●足柄峠越え1~4-----------2013-07~
●東富士演習場の 1~14--------2014-05~
●大鎌倉城隠された切通し編 6-----2014-08-21
●武家屋敷跡-------------2014-10-10
●大鎌倉城峰  上・中・下巻-----2014-10-17
●化粧坂    上・下巻-------2014-10-31
●鎌倉の古代東海道上・中・下巻----2014-11-06
●箱根の古代道上・下巻--------2014-11-10
●稲村ガ崎の古道を検証上巻・下巻---2014-11-15
●稲村崎成干潟事上・中・下巻-----2014-11-22
●長窪の切通1~6-----------2015-02~
●長窪の切通 7~11----------2015-02~
●鎌倉、藤沢周囲の城---------2015-03-26
●怒れる鎌倉市民さんより-------2015-04-23
●反論です。-------------2015-05-09
●鎌倉城の成り立ち----------2015-05-11
●日本城郭大系------------2015-06-19
●稲村ガ崎の戦い上・中・下巻-----2015-06-26
●コメントより、台峯の先端------2015-07-28
●コメントより:台山---------2015-08-08
●台峯の先端と臥龍峡---------2015-08-11
●鎌倉の文化守れるの?--------2015-09-24
●由比ヶ浜関谷線-----------2015-10-06
●七里ヶ浜は、何故七里?-------2015-11-06
●相模の古代東海道 1~15-------2015-11~~
●鎌倉に城は無い! 1~12-------2016-02-24
●コメントより(怒れる鎌倉市民)----2016-03-18
●朝日新聞に  写真が有る!-----2016-04-03
●手広切通し編の工事後--------2016-05-07
●鎌倉市内で石棺墓発掘1~9------2016-06~
●稲村崎が干潟!嘘だ! 9-------2016-06-23
●一つの考えに基づいた工作物-----2016-07-12
●鎌倉城破壊の軌跡1~4--------2016-07~
●鎌倉城破壊の軌跡コメント------2016-08-26
●鎌倉城破壊の軌跡修正--------2016-08-27
●長窪谷戸の機能-----------2016-10-27
●鎌倉城の城壁1~5----------2016-11~
●鎌倉城の砦1~3-----------2016-12~
●鎌倉城のバ-チャルの世界------2016-12-26
●纏め鎌倉城1~4-----------2017-01~
●三方を山に?初期の話1~3------2017-01~
●鎌倉城と蒙古襲来1~9--------2017-02~
●コメントより1~3----------2017-02~ 
●古館橋1~4-------------2017-06~
●縄文海進--------------2017-09-04
●鎌倉時代の波打ち際1~6-------2017-12~
●稲村崎成干潟事現在でも同じ現象---2017-12-15
●続稲村崎成干潟事 現在でも同じ---2017-12
●下大槻から関本へ 1~18-------2018-03~
●下大槻峯遺跡------------2018-04-12
●長窪砦モデルコ-ス---------2018-04-26
●鎌倉の砂鉄5の写真追加 -------2018-06-08
●鎌倉の砂鉄6の補足 ---------2018-06-11
●栃窪Z路から関本へ1~6-------2018-06〜
●旧東海道の道幅1~4---------2018-07~
●旧東海道のコメント1~7-------2018-08~
●鎌倉城の変遷------------2018-09-16
●化粧坂の攻防?太平記に無い!----2018-09-20
●素人と、玄人 前編&後編----2018-09-22
●新田軍は化粧坂に1~3--------2018-09~
●長窪の砦1~3------------2018-10-08
●新田軍は化粧坂に 戦う砦跡-----2018-11-05
●戦う砦跡 鎌倉城の平場-------2018-11-08
●鎌倉城 蒙古襲来の前後-------2018-12-11
●賀正----------------2019-01-06
●忘れ去られた鎌倉城編1~8------2019-01~
●東富士演習場の立ち入りその後----2019-02-07
●東富士演習場の立ち入りその後 2---2019-02-15
●篠窪から関本へ 1~12--------2019/10〜
●下大槻から関本へ14補足-------2019-05-05
●倉久保谷戸 1~3----------2020-06 〜
●倉久保谷戸 2------------2020-06-08
●実体視練習-------------2020-06-12
●倉久保谷戸 3------------2020-06-14
●台峰の砦 1~13-----------2020-06〜
●鎌倉城の範囲1〜10 ---------2020-07〜
●鎌倉城について考察の変遷------2020/07/13
●鎌倉城の範囲コメントより------2020/08/01
●鎌倉城の範囲コメント 2-------2020/08/03
●城のマトメ1〜4   ----------2021/03  〜
●鎌倉時代の波打ち際 7〜14------2021/07〜
●富士山中 に東海道十里木2021 ---- 2021/10/03
●鎌倉時代の波打ち際15~28  ----- 2021/10/09
●鎌倉時代の波打ち際 29------2021/12/26
●鎌倉殿の13人 が始まった様ですね、-2022/01/28
●鎌倉殿の13人 の結末は?------2022/02/01
●鎌倉の味わい方!----------2022/02/26
●頼朝落馬の地、「八的ヶ原 」-----2022/03/19
●稲村伝説!【稲村崎成干潟事】 ----2022/05/13
●『現』稲村ケ崎 新田伝説検証----2022/05/20
●稲村崎成干潟事 干潮の時刻は----2022/06/04
●稲村崎成干潟事 干潟の状態は----2022/06/06
●稲村路のマトメ 1---------2022年06月10
●稲村崎成干潟事のマトメ2------2022年06月16
●稲村崎成干潟事のマトメ3------2022/06/19
●稲村崎成干潟事のマトメ4------2022/06/24
●頼朝落馬の地------------2022/07/09
●鎌倉城の特徴------------2022/10/02
●鎌倉城の城壁------------2023/01/16
●西側防衛線 稲村ヶ崎より大仏切通  --2023/01/16
●西側防衛線 稲村ケ崎より大仏2  ---2023/01/23
●西側防衛線 大仏より小袋切通  ----2023/01/30
●世界一大きな城は何処?-------2023/05/12
●世界一大きな城は何処?2------2023/06/02
●鎌倉城北側防衛線 小袋より八幡裏--2023/08/01
●鎌倉城東側防衛線 朝比奈より名越--2023/10/07
●鎌倉城西側防衛線 長窪砦と鎌倉城--2023/10/10
●鎌倉城東側防衛線 朝比奈より六浦--2023/10/20
●世界一大きな城は何処?3------2023/11/17
●世界一大きな城は何処?4------2023/11/20
●世界一大きな城は何処?5------2023/11/24.
         ● もくじ
 
 
記事一覧は https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/arcv 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界一大きな城は何処?5

2023年11月24日 | 巨城対モンゴル

一般的な城の例外は、権力者を守る天守閣を持つ城の他に、防塁の中に町があり 総構えと呼ばれる。
初期は小田原城3.6㎢ (東西2.7㎞南北2㎞)で、その当時は日本一で在ったと考えられる。
小田原城が、ドレだけ凄かったのか? 正面から戦うには強固過ぎ城壁で、秀吉は兵糧攻めの持久戦で開城させたのです。江戸城総構え 16.6㎢(南北4.7㎞ 東西5.6㎞)
京都御土居堀は21㎢ (南北8.2㎞  東西3.5㎞)
鎌倉城は、  91.9㎢(東西16km 南北10km)
大宰府羅城  96㎢ (南北14㎞  東西10㎞)
現時点では、鎌倉城よりも大きい。そのわけは、鎌倉北の横浜山手迄、
南は横須賀の浦賀迄を考慮に入れると、鎌倉城は更に大きく成ります。

城の概念を根底から覆した鎌倉城の記事を見て、出鱈目記事だ! ナンてね、、、
地方の争いの小さな城では無く、海外国と戦えば 広大な城が必要と幕府や大和朝廷は考えた訳です。
日本城郭大系の城と 考えが根本的に違う訳です!!
そんな羅城の前例が大宰府に有り、2015年に峰の土塁を発見した事で、初めて羅城を認識した。

海外に目を向ければ、、巨大な城は
フランスパリのティエールの城は、パリ全域約80㎢を取り囲む城壁がある。
1841年から1844年にかけて造られた。

現北京城は二環の内が旧城内で、以降拡大されて三環、四環、五環が造られ、五環を出れば城外となる。
旧北京城内の二環は62.5平㎢の面積で、三環の面積は159㎞、四環の面積は302㎞、五環の面積は667㎢です。
金時代    16㎢ 城壁16㎞ 
元時代北京  56㎢ 城壁30㎞
現在の北京城は667㎢  と言う時代と伴に広がった様ですが、、、
元寇の蒙古襲来時には、元時代北京は56㎢であり、より数段大きいのが鎌倉城であった訳です。

結果は、鎌倉時代の鎌倉城は、、、同じ元時代の北京よりも大きく 世界一大きい城とも考えられます。

モットも、万里の長城が城で在るとしたら、、、二番目ですがね、、

右の地図の紫色のラインは、蒙古襲来の時に船を安全に止めやすい東京湾から攻めてくると予想し、七里ガ浜や由比ヶ浜よりも 更に強固な防備をしたと考えられるし、その範囲は浦賀より横須賀港、六浦、横浜の山手までに、切岸に相当する崖が確認できる。

そうなれば、、、鎌倉時代には 世界一の城であったと成ります。  そんな「武士の都鎌倉」を世界遺産にしようとして失敗した話が有る。

何故 世界遺産の申請に失敗したのか??  ぞれが問題です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界一大きな城は何処?4

2023年11月20日 | 巨城対モンゴル

「日本城郭大系」には、多数の天守閣(本丸)を持つ城が紹介されている。
当然天守閣の無い山城も載っているのだが、城の象徴的な天守閣に目が行くと思います。
しかし天守閣は城と言う防衛施設の付属物で、本質は別です。
漢字の「城」の意味は[壁]が主体です。
「城」は土偏に成(=戊)を組み合わせた会意文字です。
「戊」は「人」と「戈」との会意で、戈は「武器としてのホコ」又は戦争の意味で防衛活動を指す。
結果は「城」の意味は、土塁を作り人が武器を持って戦う状況を示します。

一般常識の「天守閣がある城!」 と言う概念は城の本質では無い訳です。そうでないと、大宰府羅城や鎌倉城は理解できないし、、「鎌倉には城が無い!」と言う説を鎌倉市の生涯教育講座での講演を非難できないですね!

■■ 広大な羅城 空から実感 大宰府政庁をぐるり防御 ■■ 筑紫野市の市民団体
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/553104/
(2019/10/22 )筑紫野市で3年前に発見された前畑遺跡は現在、ブルーシートが
掛けられるなどしており、上空からでもその場所がはっきりと分かった。 
同遺跡は7世紀後半に築かれた水城や大野城と同じ「版築」という工法で作られた土塁。
東側を蛇行する宝満川に沿うように作られたとみられ、未解明だった羅城の「空白地」
を埋める大きな手掛かりとなった。

■■ 未だ謎の古代大宰府「防衛ライン」■■ 
https://www.sankei.com/article/20200913-FMS7MZRD7VLVXBB6MWGMHNXZCM/
(前略)前畑遺跡での土塁発見から5年。外郭線はあったのか-。 (永尾和夫)
(中略)平成27年10月、筑紫野市筑紫・若江地区にある前畑遺跡の発掘作業を続けていた
同市教委文化財課の小鹿野亮係長らは、丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構の出土に驚いた。
「想像もしていなかった」という。
(後略)
以上のニュースより、大宰府羅城を認識したのは2015年で有った訳です。

日本に羅城が有ったと認識したのは、、、8年前だったのですね!!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界一大きな城は何処? 3

2023年11月17日 | 巨城対モンゴル

九州には大宰府と言う場所があり、元寇で博多湾に元の船が押し寄せた。
一回目の元寇で中国軍船が博多湾に押し寄せた時ですが 妨塁は無く武士は中国軍に押され水城に逃げ込んだと有る。

大宰府には、、城が在るか?
その疑問に「日本城郭大系」にどの様に答えて居るでしょうか??
水城をはじめ、大野城、基肄(きい)城 等の紹介が有ります。
しかし、太宰府羅城の話は無いと思いますが、如何??

鎌倉城でも、、、それが羅城である! なんて言う発想は皆無で、、、
藤沢、鎌倉、横浜、逗子、横須賀等の広域に切岸が在るのに、、、
鎌倉市内ですら目立つ お猿畑を調べて名越切通を城だと紹介した。その無駄に切り立つ切岸に思えるのは、近世の鎌倉石を切り出した場所と判明。
挙句は、
日本城郭大系の「お猿畑の名越切通」が単なる石切り場と証明されたら、
反動で「鎌倉には城が無い!」説を唱え 鎌倉の生涯教育講座で拡散した! 浅慮な話です。
発掘しなければ判らなかった大宰府羅城の城壁とは違い、、、
鎌倉羅城の城壁は切岸であり、調べれば発掘などせずに、、素人でも見て解ります。
切岸は樹々で隠されて判別し難いが、直下で見上げれば十分確認できます。 
調べる事もせず城は無い!なんて、、研究解明の思考が 単なる思い付き程度の考えです。
反論を期待する処ですが、、

筑紫文化財研究所
https://blog.goo.ne.jp/yuukodou/e/2755ecf1e35b9c6035a228690581c4a3

下の図は、筑紫文化財研究所掲載の大宰府羅城です。


鎌倉時代以前にレッキトシタ城が存在した訳です。
「日本城郭大系」は誤解し大宰府羅城を認識できず、、水城、大野城、基肄(きい)城を別々な城と解釈した訳です。
更に、 鎌倉城の場合は、広大な羅城の存在は 常識には無かったと解釈できます。
対外国的な戦争の城では、この様に広大な城を必要と考えたのが当時の支配者の考えた事です。

発表されたのは、2017年に第9回西海道古代官衙研究会にて「大宰府羅城と通行施設としての古代土塁について」という演題で在ったそうです。

鎌倉に城が無い! っと主張た人は、白村江の戦いを考えず、大宰府の羅城を無視し、万葉集の防人の事を調べない失態の上で、、、切岸で防御した鎌倉の城を『戦の構造物は無く、単なる鎌倉幕府の住居である! なんて言う考え方を披露した訳です。判断を誤りと言うより、事前調査をしない研究者としての手抜きと、古文書を熟読しない歴史的な考察の欠如等、、要は現代の鎌倉研究本の良いトコ取りをした机上論です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城東側防衛線 朝比奈切通より六浦港

2023年10月20日 | 大鎌倉城

朝比奈を抜け六浦へ古代東海道が有った痕跡が在り、六浦から海路で上総へ渡る経路です。
六浦は鎌倉時代の外国と交易する港でもあります。
元寇が鎌倉に攻め寄せたら当然攻め込む拠点にもなる場所とも考えられます。
恐らく、波の荒い外海の由比ヶ浜や七里ヶ浜は上陸困難で、元寇は六浦側から朝比奈峠へ攻め込んで来ると考え、
鎌倉城東側防衛線を強固にしたのではと考えます。
すると、、、鎌倉城は更に巨大な大きさに修正する必要が考えられます。

青色線は鎌倉市街を守る防衛線ですが、
桃色の線は、六浦を取り囲む様に切岸が作られています。
更に、橙色の 半ば住宅地に破壊された切岸が確認できます。

問題は、六浦港を囲む巨大な防衛線が存在し、更に、、、、

切岸の痕跡を根拠に鎌倉城を考えると、鎌倉城の縄張りはコンナモンじゃない!

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城西側防衛線 長窪砦と鎌倉城

2023年10月10日 | 大鎌倉城

注目は、鎌倉の街を継ぎ目なく囲った切岸です。自然の山を利用して、人工的な切岸を切れ目なく造り城壁にした。
鎌倉の市中には 古来からの巨大道路の東海道と東山道相模路が通っていたが、防衛上の理由で封鎖した痕跡もあり、ここで紹介した状態です。
下の図は、鎌倉の都を囲む城壁(青線)と長窪砦より馬を降りて鎌倉の都に入る(緑線)ルートに成ります。

この長窪の砦自体ででも、大きな城の規模です。
因みに江戸城の大手門より半蔵門迄1.4kmで 長窪砦は1.2kmと言う比較で如何に鎌倉城の規模が大きいかを考えて戴きたい。 
緑の樹木に隠された鎌倉城ですが、上の赤色地図が土壌の形状を示した図で 現地を見た時の理解に成ります。
鎌倉と言えば「イザ 鎌倉」と言う言葉が示す様に、、、、
鎌倉に事が起きたなら、日本国中の武士が先を争って鎌倉を目指して終結する!巨大な城は、兵員が無いと守れない訳です。
そのシステムは
馬を使って鎌倉に向かわないと取り残される。
その馬の数は、集まった兵の数に近いと考えられます。
馬を繋ぐ場所は、鎌倉城の大手道に在る台の馬場と長窪だけでは、不足で当然他にもある訳です。

『太平記』では新田義貞の討幕軍60万騎、鎌倉幕府軍14万騎で、話し半分で新田軍30万騎 鎌倉軍7万騎程度と考えると、新田軍30万騎+鎌倉軍7万騎=37万騎が当時の日本の総兵力であり、、、蒙古が押し寄せた時の鎌倉城を守る兵力と考える訳です。

その鎌倉城には騎馬37万頭を繋ぐ空き地が必要と成り、蒙古軍を攻撃する為の出撃基地と成ります。単なる身を守る為の城では無く攻撃基地と言う側面が有り。通常考える天守を守る城郭とは別のモノです。

その様な訳で、、後世の石垣が有り 天守の有る城の守りが主体と成る城とは異質な元寇を返り討ちにする攻撃的な城造りと成り、、、結果は城の外に馬場が有り、城を攻める元寇を背後から騎馬にて襲え、上陸した元寇に騎馬にて駆け付ける機動性を持っていたと考えて居る。

後年の戦国時代の城は、鎌倉の城造りが契機となり急に地方の士族が城を作り出したと解釈しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城東側防衛線 朝比奈切通 名越切通

2023年10月07日 | 大鎌倉城

朝比奈切通の以前は、古代東海道が鶴岡八幡宮前より朝比奈切通しを経て六浦まであり、六浦港より海路で上総へ渡る経路と考えられる。
六浦は、鎌倉幕府が外国と交易する港でもあります。
元寇が鎌倉に攻め寄せた時に海路案内人が行き慣れた六浦港が 攻め込む目標と鎌倉幕府は考えた節があり、東側の守りは堅い。
元が六浦港に船を入れ 鎌倉を攻め込むと考えた時に、最大の防御地点として朝比奈切通が存在する。
古代東海道として平塚に9m幅の道路痕跡が在り、その方向は六浦に向かっています。
更にその道路痕跡として、朝比奈切通は、鎌倉の切通としては破格の広さの7mと成って居り、これが古代東海道の痕跡である根拠です。
この古代東海道を鎌倉時代に朝比奈氏が改造して4m幅にしたと考えて居ます。
その改造の結果、古代東海道の痕跡が朝比奈切通のアチコチに残って居ます。

青色線が鎌倉城の切岸=城壁 で有り、黄色線は朝比奈切通と名越の切通と成る。
七里ヶ浜や由比ヶ浜は、外海で波が荒く遠浅の砂浜で在り、外洋船が停泊しにくい為、主船団は六浦から攻撃してくると幕府は考えた様で西側より東側の六浦面の防御は強固と考えられる。
結果は、
新田義貞は攻撃に楽な鎌倉の西側を攻めた訳ですが、、、それでも化粧坂は落とせなかった!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城北側防衛線 小袋切通より八幡宮北側

2023年08月01日 | 大鎌倉城

鎌倉城北側防衛線ですが、小袋切通しより大平山に向けた尾根道の状況です。

赤色地図は、故意に峰の兵員移動の道を紫色破線にしています。
白い処は、傾斜が少ない処で移動が楽に出来る場所です。
赤い場所は傾斜の場所、強い傾斜は黒っぽくなり崖状態に成った場所=切岸です。

更に
防衛ラインより張り出した峰の下も切岸と成っており、複雑な構造と成り この峰を使い敵の背後を攻める構造でもあります。
これらの樹木の茂った峰は単なる山に見える訳ですが、、、人が登れない様に人工的に切岸は作られている。= 「三方を山に囲まれた天然の要塞!」では無い!!
実態は、自然の山裾を切岸にして作り上げた人工的な城です。
種々の城を見て詳しい人ほど、、、世界でも指折りの広大な城を、見破れない!っというより広過ぎて調べてない!

鎌倉市内を囲む今回示した切岸は、源頼朝時代から鎌倉を囲む城壁と考える。
其の後
元寇の対策として、鎌倉市内の防衛ラインより外部に張り出した峰も切岸を作り、攻撃の拠点としても使える馬場なども作られたと考えて居ます。
当時、鎌倉に居住した南宋の僧より元寇の情報を得て 鎌倉幕府は対策を取って城を作り上げたと考えられる。

その脇で日蓮が「私を信じなければ、国難が起きる!」と布教して捕まった訳で、精神的な問題じゃなく物理的な防禦体制を取らないと話に成らない事を、鎌倉幕府は南宋の僧から聞かされ危機意識を持っていたと考えて居ます。
実際の国難は、武力と博多湾の元寇防塁及び神風に依って排除され、、日蓮の警告は意味を為さなかった。
鎌倉城は単純な専守防衛の城では無く、攻撃基地の性格も併せ持つ構造と考えて居ます。

新田義貞の時、幕府側は兵力が足りず、今回紹介した防衛ラインを守るのが限界で在った訳です。
日本全国の武士が鎌倉に集まり元寇を倒す為の城を作った訳ですから、幕府側の兵員だけで守るには兵員が足りない とはいいながら、 新田義貞が化粧坂の防衛ライン正面突破を仕掛けたが、、、幕府側より数倍の兵士で攻めても、不可能だった訳です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界一大きな城は何処?2

2023年06月02日 | 巨城対モンゴル

江戸城の話です。通常は下の図を江戸城と考えると思います。

天守閣がお城と考えるのは、筋が違います。天守は権力を誇示する為の建築で、そこ迄攻められたら中で自決する為の時間稼ぎの場所です。

外敵が襲ってきた時に防禦する堀や壁(土塁)に囲まれた範囲が古来よりの城です。その想定で江戸城を考えると、、、

上図を見ると、、、

江戸の下町迄堀が囲い巻貝を連想する構造です。

外堀の防御に対し、、一番攻めやすい場所が芝口見付けと考えられますが、その脇には「浜大手門」現在の浜離宮が有ります。品川、銀座と攻め入り、城の周囲を一周して虎ノ門、日比谷に行き着き江戸城の核心を攻撃できる訳です。

上掲載の古地図はWikipediaより引用。

 

上のgoogle地図より、
江戸城総構えの面積は 16.6㎢
外堀の距離は 16km
南北4.7㎞  東西5.6㎞
と言う規模の巨大な城です。Wikipediaの理屈で考えれば世界一ですが、、、

京都では、羅城門なんて言う話はありますが、外部から攻められた時にその羅城で戦った話は無く、常に京都市内の屋敷に踏み込まれた話となる。
実質は羅城が無いと考えていましたが、江戸時代前に、羅城が造られていた。
その京都の羅城の名は御土居堀で、
御土居堀の面積 21㎢
御土居堀の距離 21㎞
南北8.2㎞  東西3.5㎞
このデータは、江戸城より大きい訳です。

更に古い鎌倉城はモット大きい城で在る訳です。
しかし、これ等の城が城郭資料に無いのは何故???
単なる「天守閣が無いから!」程度の理屈でしょうね!


城の本質を理解しない城郭研究者の為せる技と考えています。
それだけではなく、余りの広さに調べきれない! 何て言うのもアリかな??
場合によっては、、
鎌倉時代には世界一若しくは二を争う巨大な城と考えられます。
日本には、、更に巨大な羅城が在ったが、、、城郭研究者は調べようとしなかった。

 

その名は??

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界一大きな城は何処?

2023年05月12日 | 巨城対モンゴル

このタイトルの意味は、、、
鎌倉城が世界のベスト10に入る規模の大きな城と思えるからです。

Googleで「世界一の城」と探すと、
一位 マルボルク城(0.14㎢)ポーランド
二位 メヘラーガル城塞(0.081㎢)インド 
三位 プラハ城(0.066㎢)チェコ 
四位 ウィンザー城(0.054㎢)イギリス
    等と表示されますが、、
上記の順位は権力者が自身の身を守る為の城と考えられます。
守る主体は何か?の問題です。
守る種類は、権力者、一般の住人、街等の構造物、土地、生活空間等があります。

日本の城は、権力者の命と身分を守る城と考えられます。
自分の屋敷=天守閣=権力の誇示
結果は 城=立派な天守閣 っと言うイメージが有ると思います。
しかし、城を趣味にする人は天守閣に目が行くし、権威を示す見た目が重要と成る。
その様に設計されたのが日本の城です。
城の目的は『外敵から身を守る為のモノ!』が本筋考えとすれば、
天守閣は防禦の本質を外した添え物となります。天守を囲まれたら、それは負け戦で、城主が自決をする為の、時間稼ぎの建築物に過ぎない。

鎌倉城は、権力者の保身の城では無く、日本と言う国の人民とその生活を含めた存亡を賭けた城です。

地図中の赤い面積は91.9㎢の広さと示されこれが鎌倉城の規模で、 世界一大きいと称するマルボルク城(0.14㎢)等問題外です。

鎌倉城は東西16km 南北10kmの大きさです。

世界には鎌倉城に並ぶ規模の城は有り、日本では江戸城が肩を並べますが、、、その紹介は次回へ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする