鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東山道相模路6

2010年09月24日 | 東山道~鎌倉
一般的な考えとして、鎌倉幕府が、上、中、下の道と言う立派な街道を運用していた様に思われている節があります。
しかし、、ぼ輔の見た鎌倉周辺の鎌倉街道は、1~2間幅の狭い直線的な、ヤゲン掘り状態(V字状の掘割)の道です。
例外は、朝比奈の切通しと相武トンネルから円海山へ抜ける白山道ノミです。

古代東海道が鎌倉を通過したのですが、古代道路遺構と想定できる場所で「ぼ輔」が見た物は、各所で工作され使用不能にされた遺構です。それは、東山道相模路も同様です。
変形され、ある時は断ち切られた断崖であり、はたまた塞がれた切通しの遺構です、、
それらの事例を根拠に、古代官道は防衛のために幕府が壊し使えなくしたと「ぼ輔」は結論付けるのです。
 立派な道路遺構を発掘すると「鎌倉街道の上の道か?中の道か?」と考えるのが一般的ですが、年代を特定できない為の浅慮が鎌倉街道と憶測した結果です。
冷静に考えれば、広い道幅は鎌倉街道ではなく、古代の駅路や官路の特徴です。
その例として中ノ宮北遺跡を考えると、これが鎌倉幕府が作った物ならば、、、、
その周囲に数多在る細い鎌倉街道など作る理由は無い!
 鎌倉時代に大道が機能すれば防衛に支障がある。必要の無いハズの、、、細い鎌倉道が周囲に複数存在するのが現実です。

写真は武蔵国衙の南、多摩川際の山より江ノ島を見たバーチャル画像(カシミール使用)。
そう、、多摩川際の山より江ノ島は見透視が利くのです。
ちなみに、江ノ島の灯台は加筆していません。
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東山道相模路5

2010年09月06日 | 東山道~鎌倉

笠間中央公園遺構
この情報は、財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターの記事です。
その詳細を未だ確認をしていません。
コメント笠間中央公園 (三品)、、、、に発掘状況の写真がありますね!
地図からも道路状態が想定できます。
先ずは、道路の方向ですが、
北北西より南南東に向いています。早い話は南北で水堰橋方面に向いている。

今回の画像は現在の地図と、鉄道も未だ敷設していない明治の地図です。
問題は、
これだけの大道が、、ご覧の様に前後が断ち切られて使えない。
誰がやったのか??
少なくとも、明治にはすでに切り崩されていた。
江戸や戦国時代にこの様な大工事をする財力のある人物が居た話は知りません。
心当たりは鎌倉時代の幕府であれば、財力があり防衛の為という動機があります。
ぼ輔は鎌倉幕府の工作と推測するのです。

鎌倉幕府は、古代東海道においても同様に使えないようにした。

その証拠は??
推測や憶測として、化粧坂、朝比奈切通し、海蔵寺裏の大堀切、等をこのブログにぼ輔が書きました。
笠間中央公園の道路遺構の注目すべき事は、、
憶測ではなく古代の道路遺構が崖状に切り取られて破壊された状況で発掘されたのです。
直線道路を歩いていると、巨大な壁でマサカ此処に道路が在ったとは思わない程の断崖です。
幕府の道路破壊パターンですが、、海蔵寺裏の堀切や土橋も同様に巨大すぎて、、
マサカ此処が道路であったとは、思わない程巨大です。

話は、、それだけではなく、
この笠間中央公園遺跡からなんと、精錬炉が出たそうです。
その上、、いたち川周辺は中世ではなく、古代の精錬炉が出土しているそうです。
その遺構は、数十在るそうです。
三品さんのレスに有った上郷周辺は、深田製鉄遺跡が出土しているそうです。

地図は国土地理院1/10000大船 明治13~17年迅速測図陸軍

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