鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 隠された切通し編 5

2013年03月26日 | 切通し
上の写真は誰でも見れるgoogle地図の航空写真です。
樹木が育ち、紅葉の為に色が多く地形は判りにくい.
現地を覗いても、こんな風では古の風景は浮かばないでしょう。

上記は1980年代です。地形は樹木も低く判り易いと思います。

上記写真は1970年代です。地図と空中写真と比較して、如何に地図の情報が少ないか理解できると思います。

赤いマークは化粧坂側切通し壁で、緑マークは大船駅側切通し壁です。
青いマークは土橋です。
土橋の道は、虎口、表門、中の道、鎌倉城の正面道路。攻め寄せる敵を横隊にさせず、縦隊にして戦力を減らす構造で、この先を大船へ降りると水堰橋があり、頼朝が鎌倉市内に入る時に隊列を整えた場所と言われる。
この様な土橋に当たるものは、名越えの切通しにも存在するが、成り立ちは別物です。
巨大な土木工事の痕跡は、掘り起こして調べる訳には行きません。
歴史の流れ、
少ない文献からの情報。
これらの土木工事をやるには、何処から土を運ぶか?
外部から敵が押し寄せた時にどの様に対処するか、、、
地形からの必然性。
それらの総合された考えと、合理的な考えが必要なので、学術的な権威の問題ではない。
素人でも確認できる方法!
素人でも納得できる考え!
学門そのものが、素人に判る様な説明をされるべきでしょうね!
そんな「物の見方や考え方」の問題意識が必要です。
これが、表現の限界???
更にその先があります。

※空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より出典
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富士山中に東海道 序 3

2013年03月24日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
大化の改新駅路の文献は詳細が無く、経由地が判りません。道路遺構を捜し出す事で証明する意外に方法は無い。
古代東海道は、文献の「延喜式駅路」と発掘された遺構を根拠に語られ、年代経緯の考慮が無く結論を出した文章を散見する。

年代経緯の考慮が無い最たるものは、、、、
◆日本武尊の通った時代、
 AD300~400年 駅路は無く、日本武尊が大和朝廷の力を示し、蛮族を従わせる為に歩いた道を古代駅路(官路・古代東海道)であると結論した。
◆大化の改新駅路、
 AD645年 大和朝廷の力を誇示し、目的地へ向け直線的で道幅の広い道を作った。
◆延喜式駅路、
 AD927年 大化の駅路より実用的な道筋に変更する。

この様に似た場所を通っても、時代で成り立ちや製作指針が別と考えられるので区別すべきと考えますが、実態は深く考えず書かれた文献が多い。

学問は知識の集積が体系付けられて学ですが
古代東海道に於いては そんな知識を集めたくても 文献は限られ平安時代や鎌倉時代程度が限界で資料は少なく遺構の発掘も体系つける程のデーターは無い、、、発展途上の学問です。
歴史書なんて真実も嘘もゴチャマゼの状態で 唯一自分自身が考え納得出来なければ、、、質の違いが判らずに権威に頼り「結果は 見る目の無い 知識の受け売り」となります。

方法1
上の写真は、箱根の乙女峠から写しこの写真の中に古代駅路が有るはず!
上手くすれば、ラインが浮き出るのでは、、と期待をこめた写真ですが、
結果は、画素が荒い為か、場所が悪い為か、、ラインは浮かびアガラナイ。
方法2
googleのアースを使い衛星写真から見つける。
5年程前のアースは、都市部だけ解像度が高く、、山間部は極端に荒く使えなかった。
今は山間部も解像度が高く、道の溝を判別できる様になった。このヒントだけで探す人も居るでしょう!
方法3
国土交通省の空中写真から探す。
基本的には、盛り土の土手や、切通しの直線ラインの遺構で、太陽の角度で陰影が浮き出ると考える。逆を言えば、午前と午後の違いで陰影が出ない写真も有る。
富士の南斜面の蒲原から十里木の間は樹木が茂り過ぎて、空中写真に写らない。
可能性は、樹木の少ない十里木より足柄峠の間です。自衛隊の東富士演習場は草原で、期待し、空中写真を調べると、写っている物も有れば、判別できない写真もある。

 巨大駅路の痕跡はカンタンに消せるものでは無いという想定で 巨大道路の痕跡を検出する事を考えるのですが、常識を超えた推測や憶測や考えられる知恵を寄せ集て古代東海道を炙り出そうと言う「物の見方や考え方」がこのブログのテーマです。

これらのヒントで貴方は、、、
googleの地図ー航空写真やEarthでこの痕跡を探し出して見ませんか??
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富士山中に東海道 序 2

2013年03月14日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
上記の地図にマークしたライン周辺に道路遺構が在ると考えられるが、問題は探す手段です。
①蒲原、②長倉駅、③足柄峠、④十里木峠、
「わたしのサイクリングフィールド」のバロパパさんのメールから8年経ちました。
大化の改新    646年
富士延暦噴火   800年 - 802年
延喜式      905年に編纂を始め、967年より施行

◆1 「大化の改新駅路」より300年後の「延喜式駅路」と経路が
   同じ保障はない。
◆2 富士山の延暦噴火の際、古代東海道は影響を受けて通れなく
   なった。
◆3 足柄峠の登り口は県道78号御殿場大井線の竹ノ下の谷コース
   と県道365号足柄峠線の
   東名富士CCを通る峰コースを想定できる。
   竹ノ下の谷コースは谷が狭く大道を直線的に作るのは、物理
   的に無理です。
   東名富士CCを通る峰コースは直線的で、道幅も取れ、滑らか
   な勾配の坂を作れる。

1、 「大化の改新駅路」は不明でも、静岡の曲金遺構や平塚遺構
   と足柄峠を越えた伝承により「大化の改新駅路」の存在を
   確信するのです。
   通常語られる「延喜式駅路」より300年前の古い駅路である。
2、 富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の際には駿河側の足柄
   路が通れなくなったため箱根峠を通る街道(箱根路)が整備
   され、再び通行可能となった後は箱根路と共に東海道の一部
   を構成する。
   (Wikipediaより)
   延暦噴火は富士北麓に被害を与えた噴火で、富士山の東斜面
   と北西斜面の,2ヶ所の割れ目噴火と推定された.
   (静岡大学防災総合センター)
   延喜式駅路では被害は微弱だが、十里木峠を考えると、富士
   の山腹を通るので、
   噴火の影響が大きいと考えられる。
3、 県道78号の竹ノ下の谷コースが一般的な古代東海道で、古道
   の痕跡は多数あるが、
   道幅の狭さと直線性の無さより「大化の改新駅路」が通った
   とは考えられない。
   県道365号の東名富士CCを通る峰が「大化の改新駅路」とし
   て最適ですが、文献は無い。
   県道365号に古道の痕跡は点在するが、現役の道路が峰を通り
   痕跡は時と共に消滅していく。
参照(鎌倉の古代 2006-05-29当ブログ内)(古代東海道駅路跡2006-06-01当ブログ内)

 以上は 考え方の背景にある状況を列記しました。
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大鎌倉城 隠された切通し編 4

2013年03月08日 | 切通し
上の地図は、昭和20年代の国土地理院地図ですが、詳細な地図でも砦構造や、土橋の状況は全く図面に現れない。、土橋東の断崖はは判別できる程度です。左に倉久保谷戸と矢戸の池が在り、グランドに登る谷は粗雑な測量で等高線は、実際の地形とは異なる。下の地図は良く地形を反映している。

 「海蔵寺裏の大堀切」は、鎌倉幕府の大道隠しの代表と教えている。
この場所だけでなく、他の大路でも同様な工作を行ない駅路を隠したと考えられる。
武蔵大路の初期は大化の駅路が中の宮北遺跡、笠間中央公園経由で武蔵国衙と鎌倉郡衙を結んでいたと考えられる。
次の時代は座間の星谷寺、海老名国分寺を経由する武蔵大路としての駅路であり、
鎌倉の時代に大路は取り潰されて、鎌倉街道の細い道が大路の脇に作られ後世に上の道、中の道と呼ばれた。
その他に、大化の駅路の東海道と、鎌倉時代の京都鎌倉往還の道が存在した。
上記の様に、道は時代により、その経路を変えたと考えられる。
ですから、駅路は時代を指定して語る必要がある。
平塚に古代東海道の道路遺構があり、この根拠から、直角に茅ヶ崎から北上して武蔵国衙に道が有った等、大化の改新駅路(飛鳥時代)の話と、延喜式(平安時代中期)の「武蔵の国を東海道に編入」を混同して考えるのが合理的な考えか?と言うことです。
文献が無い状態で、何が合理的かを語らせるのは、遺構と時代の考証に掛かる訳です。

その様な訳で、、、、
鎌倉の西には、
一、大化の駅路武蔵大路(中の宮北遺跡、笠間中央公園経由)
二、延喜式の駅路武蔵大路(座間の星谷寺、海老名国分寺経由)
三、大化の駅路東海道
の3本の駅路が存在したことが考えられる。
他に、鎌倉街道が有るんでしょうが、、、幅3m程度の鎌倉街道で、道の痕跡としては弱く、この話からは外します。



国土地理院のweb地図の現状は、グラウンドとなっている。
上記の地図とは、等高線が複雑に書かれ、グランドを作る為に精微に測定された事が考えられるが、、、、、、
この地図から、
切通しを埋め立てた場所である!とか、、敵と戦う為の砦!と主張するには、、地図からの情報量が少ない。現場を見た実感と地図の情報の間にギャップがあり過ぎる。
文献なんぞ何も無い!!そんな状態から一段掘り下げてみましょう、、、
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