鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

朝比奈切通し1

2006年06月30日 | 切通し
色々と、細工が施されたのが、、朝比奈切通しですが、、、
仁治2年(1241)朝比奈切通しを造り、朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り
開いた道という伝説が有る。
そして、江戸時代に道路を改修した事を路肩の石碑に書かれている。
だから、古代の痕跡など無いと考える???
奈良時代の記録や、言い伝えが無い。
だから、、、 鎌倉時代に作られた道??
その論法で俗に本で書かれ、古代の話は鎌倉に出てこない。
そんな話とは別な非常識な話です。

ました。
では、、、朝比奈では、どの様な防衛をしたのでしょうか?
大仏の切通し藤沢側にバリケードが有り、これと同様な事をしたと私は考えている。
六浦から朝比奈の大切通しに向かうと、切通しの入り口で一段急な坂に感じませんか?
その上に、、、切通しの道の一番高い処で、北の岩壁を見ると、、、、
地下室でも、、有るのか?
そうでは無いですね、、、
足元に岩窟の様な「やぐら」が有ります。
大仏切通しと同じ様に、土砂でバリケードを作った訳ですね!
本来の道は、地下室の様な「やぐら」の有った低い場所が路面!
鎌倉幕府無き後、バリケードが残った!
大仏のバリケイドと同じで通れない!
江戸時代になり、、
仕方なく有志が集まり道を使える様にした。
それだって、半端な量の土砂ではありません。
金を掛けずに、取りあえず通れる様にした結果が今ある状態。
江戸時代の石碑に書かれた道路補修の中身は以上の事と、、、、
私の想像たくましく描いてみました。
大仏は、バリケイドの隣の谷に脇道を作りバリケイドは残った。
朝比奈の地形では、脇に道を作り様が無い。
バリケードを崩すより、、、通る手段が無かった!!
そんな想像をするのです。
比較検討する時に大仏のオリジナルな遺構が参考になるのです。

鎌倉末期の新田義貞との戦いの痕跡が見られる!!
とても、人間的な痕跡に思えて、、、感無量です。

次は、朝比奈三郎、の話です。

写真は、六浦側から朝比奈大切通しを見たモノ。
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大仏切通し6

2006年06月30日 | 切通し
頼朝以前の鎌倉に、古代東海道が通ると想定して、
奈良時代は、9m幅、その後3mに修正された古代東海道です。
その道が梶原口から梶原団地を抜け化粧坂に向かうとすれば、、、
とても通り易い道です。
幅は3m似修正されたとしても、歩く処が3mで、元は9m幅の道!
防衛上こんな幅広い道は困ります。
大量の敵兵が雪崩込んだら、、防ぎ様が無いのです。

あなたが頼朝なら、、「この古代東海道をドウシタラ良い」と考えますか?
その考えの元に必要なのは、大仏切り通しで感じる危機感です。

頼朝が出した解答、、その結果が今の状態です。 (とは言え、この40年で家が立ち 変わりましたが、、カイマ見て想像位して欲しい)

写真は、大仏切通しの正面。
突然道が岩壁にサエギラレル状態になる。
ジャングルの様な広い場所の奥に岩壁が見える。
道はこの正面の右手にあるクランク状の切通しを入る。
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大仏切通し5

2006年06月26日 | 切通し
大仏バリケード裏の写真ですが、、、
この道の中ほどが黒ずんでいます。これは水の溜りやすい窪んだ場所です。
この場所を堺に手前は下り坂で、向こうは登り坂です。
切り通しの真ん中で、、、盛り上がっている。
これでは、切り通しの意味はない。
切通しなら、下る一方で有って欲しい。
これが、裏から見た矛盾と切り通し本来の状態でないと言う論拠です。
この推測が正しければ、、、、
新田義貞鎌倉攻めの折に、鎌倉幕府が作った生々しいバリケード痕跡が今でも残っている!!
っと言うことです。

この話は、これだけで終わらない。
どの様な危機感で鎌倉幕府は道を考え、防衛を考えたか!
その状況をこの場所で実感して欲しいのです。
この道幅とこのバリケードは、他の七口にも当てはまる話でしょうから、、、、
鎌倉の道を理解する上で必須の考え方と思います。

京都を攻め、平家を全滅させたのは、、、、源頼朝だったのですから!
明日はわが身の危機感は、今の平和ボケした現代人には理解し難いはず。
見て実感するより他に理解する手段は無い。
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大仏切通し4

2006年06月25日 | 切通し
ジャングルの様な空間から、この道を通って大仏切通しの峠に向かう。
幾多の歴史家がこの道を通ったでしょうが、この急坂を問題にした本を見た事がない。
急激な勾配の坂で、これが幕府公認の街道の坂とは考えられない。
ハイキングの山道でも、難所に相当する勾配です。
逆立ちしたって、、、この道を人力車では通り抜けられない。
道とは考えられない状態ですが、、、、
切通すということは、、、、この様な険しい場所を楽な勾配にする事です。
この不自然さを問題視して欲しい。
この場所も、切り通した痕跡がありますから、以前はナダラカな通り易い道と考えられます。
それを、通れないように土砂を積み上げた!
この様な大量の土砂を誰が?  それ程大量の土砂です。
やるとなれば、個人の力ではなく、新田義貞の鎌倉攻めで 鎌倉幕府がバリケードを作ったと考えられます。
戦争に負ければ、、「敗戦処理は、誰がやる!」
価値の無い場所なら、、、誰も手を付けない。
そして、江戸時代は手付かずのまま、
明治に人力車を通すため、大量の土砂は排除せず、、、、この切通しを巻いて道を作った。
結果、この藤沢側の切通しは、800年間放置された!!!
そのバリケードも、800年の間にこの様に崩れたのでした。
上記は、私の想像ですが、、
状況証拠で、、、現代の法じゃ通用しませんね!
でも、真実味は有るでしょ!!
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大仏切通し3

2006年06月24日 | 切通し
ここが大仏切通し藤沢側です。
まるで、ジャングルですが、、、
下草や、木をばっさいしたら、立派な広場です。
周囲を見渡せば、、、、
高い岩壁に囲まれている。
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大仏切通し2

2006年06月24日 | 切通し
大仏の切通し以外、マトモに通れる道は無い。
よって、結論は官道は無い!
それが、現状の結論です。
それが、正しい結論か? と言えば、それは「否」です。

古代東海道の平塚遺構を追って行くと、確かに大仏切通しに突き当たる。
この藤沢側の入り口は2m幅の狭い切通し。
しかし、その脇の梶原団地より、化粧坂に向かうと、、、、
私が自転車引いて40年以上前に降りた細い道を通る。
確かに細い道ですが、、、、
V字にエグレタ谷そのものは、十分に9m幅の道を収容できる幅を持つ。
現在、その幅は家を一軒造るに良い幅で、階段状に家が建てられている。
峠から、鎌倉外部に向けた道を使えない様にV字に工作したと考えるのです。
そうでなければ、化粧坂だけ立派な広い道と言う理由が立たない。
本当に鎌倉幕府はそんな事をしたのか?
それは、大仏の切通しの藤沢側の入り口を見て欲しい。
ドレダケ、精力的に立派な戦う場所を造ったか!
それだけでは有りません。
新田義貞と戦った時の痕跡が残っているのです。
どの様にして、大仏坂を封鎖したか!
写真は、火の見下のバス停から細い路地をはいると、こんな道
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大仏切通し1

2006年06月23日 | 切通し
大仏切通しの様子は、次のホームページが詳しい。
http://www.kcn-net.org/kiritosi/daibutu.htm
有島生馬が明治十八年の大仏切通の様子を述べているので紹介する。
「初めて私が横浜から鎌倉材木座海岸、海岸橋近い砂丘のかげに新築された小さな別荘へ来た事は妙にそこだけ覚えている。
明治十八年初夏で私は数え年四歳だった。
藤沢まで鉄道、藤沢からは人力四五台を連ね手広、笛田、大仏切通しと揺られ、長谷に着いた。云々」
っとあります。

鎌倉図書館の記録に、切通しは人力一台を通すのがやっとなので、2台すれ違えるように幅を広げたと書いてありました。
広げた切通しは、下にトンネルがある峠の切通しの様です。
藤沢側にある切通しは、使えずに脇道を作った様です。
その代わり、藤沢側の切通しは、鎌倉幕府が崩壊した後、手付かずで残ったと考えられる。

鎌倉へ西から入る事を考えたときに、
1、稲村ガ崎の波打ち際、
2、稲村ガ崎山中の仏法寺際の道、
3、極楽寺坂、
4、大仏切通し、
5、化粧坂、
6、亀返し坂、
7、小袋坂
があります。
しかし、まともに人力で通れるのは、明治18年の時点で大仏坂だけだったと考えるのです。
他の道は、山道同様で、人力車すら通せなかった事が想像できます。
もし、亀返し坂や、小袋坂が通れれば、大船から入ったほうが楽で、距離も短い。
私が知る限りは、
40年前の亀返し坂は、坂が急過ぎて、自転車で乗って降りれる状態ではなく、
人力車で降りようものなら、押さえが効かず事故を起こす。
昔は、更に上に坂が有ったようです。
50年前の建長寺前は、自動車一台を通すのがやっと、
昔の道の痕跡が、八幡様の方から行くと、左側を気にして歩けば見つかります。
化粧坂の梶原団地へ下る道は、私が自転車を降りて引いて下った程細い道でした。
では、大仏の道は、どれ程立派な道か?
ぜひ歩いてください。
http://www.kcn-net.org/kiritosi/daibutu.htm
このホームページは、とてもわかり易く書いてあります。
鎌倉七口については、是非このページを参照してください。
写真は火の見下のバス停と入り口。
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鎌倉に出入りするには、、、

2006年06月06日 | 切通し

■ 記 2006年06月04日   鎌倉に出入りするには、、、
現代の道路事情はとても良いのですが、明治時代のJRは藤沢まで開通した時に、東京から鎌倉に行く話があります。その話では、大船から鎌倉を目指すより、藤沢から人力車を使い、大仏切通しを使ったそうです。
大船駅から八幡宮まで4Km。
藤沢駅から八幡宮まで7.5Km
大船駅から鎌倉へ入った方が距離的には短いのですが、、、
巨袋坂や、亀ヶ谷切通しを人力車が通れなかったと想像できます。
大仏切通しは、人力車を2台通す事は出来ず、すれ違えるように幅を広げたとあります。
これは、、、、
今残る藤沢側の切通しが通行できないので、脇道を作ったと言う事です!
なぜなら、藤沢側の2m幅の切通しと登り始めの急な坂は、人力車では無理。
古来の切通しは、オリジナルのままと言う根拠にもなります。
オリジナルとは、新田義貞の鎌倉攻めで負けて以来そのままに放置されたと言う事です。
その状態は、明治まで放置され、現在もホボ完全な形(人手で変える事なく自然の地震や風雨で崩れた状態。)で残っている。
このオリジナルのままと言う事がとても大事なヒントになるのです。
新田軍を阻止する為に作られた土のバリケイドの残骸が今でも残っていると言うことになる。
当然七口総にバリケイドの封鎖状態が残っていたと考えられるが、江戸やそれ以降に道路を改修した記録が散見する。
改修以前は、当然鎌倉市内に入るのは困難であったと考えるのです。

◎◎◎コメント◎◎◎

郡衙へは (杉きち)
2006-06-04 20:51:50
鎌倉郡衙や久良岐郡衙へは、道幅はそれほど広くなかったのではないでしょうか。
それと、日本武尊は伝説上の人物で「所謂、土地の豪族が房総への交易に使用した海路を
日本武尊とした」
これが本当でしょう。

Re: 郡衙へは (ぼ助)
2006-06-05 09:09:09
鎌倉郡衙や久良岐郡衙への道幅ですが、郡衙だから同じ条件とは考えません。
鎌倉の場合、東海道の駅路を通過した場所にある郡衙であると解釈しています。
それ以上に、
鎌倉に官舎が有り、官舎は駅家か?郡衙か?国衙か?その程度の考えです
それを判定するには、資料が少な過ぎます。
一応鎌倉郡衙が御成り小学校から発掘された事は知っていますがね、、、
詳細は私が吟味していないのです。
日本武尊伝説の道は東征への道です。当時の地方豪族を中央に従える為に行く話
ですから豪族の間を歩いた。
地方豪族を無視して真っ直ぐに道を作る古代東海道の考えとは別物です。
その様な訳で杉きちさんと同じに考えています。

久良岐郡衙 (k)
2006-09-12 15:50:03
この所在地が知りたいですね。
笹下あたりなのかなあ


■ 記 2006年06月06日   七口検証1
「鎌倉を古代東海道が通った」っと書かれた古文書を、見たことが無い。
現代の研究者の本に書かれているのは散見します。
そこに書かれた内容は、「大和武尊の通った文献がある」と書かれている。
東京湾を渡るときに、三浦半島の走水から上総に渡ったと書かれている。
この根拠より鎌倉から逗子の山の中に「古代東海道の痕跡である」とされた道が存在する。
 この道は、平塚で見た古代東海道の様な道とは別物の、鎌倉山中に散見する小規模な鎌倉時代特有な道です。
古代東海道(駅路、官路)としての中路規格の特徴は全く無い。
有るのは鎌倉時代の特徴のある薬研掘状の道が小坪や披露山にあり、名越えの切通しも同様です。
鎌倉の西は大仏の切り通しは幅2~3mで不可ですし、稲村には相応する道の痕跡はない。
これでは海沿いに、平塚の道路遺構に対応する古代東海道の規模には対応できません。
では、 古代東海道は鎌倉を通らなかったのか?
可能性が有るとすれば、上総と下総の位置関係で海を渡ったと考えられる事。
もう一つ重要な事は、平塚の古代東海道遺跡は東の鎌倉に向いている事です。
古代東海道は、直線的に作られているのが、特徴です。
ですから、確信的に古代東海道は、鎌倉を通過したと考えるのです。
 路面9mも有る道路の痕跡など、、鎌倉に有るのでしょうか?
 
 コメント
  (杉きち)
2006-06-07 11:01:41
 東山道武蔵路と平塚の国衙らしき跡地から、都筑郡・久良岐郡・鎌倉郡・三浦郡・
 荏原郡・高座郡あたりには、12メートルの路が見つからないですね。
 荏原郡の大井駅近くだと4メートルの駅路らしき路が部分的に見つかった位ですね。
 武蔵路と平塚の道路跡と、その他の地域の路は大和王権との繋がりが密では無かったか
 、もしくは、湿泥地等の地盤が関係有るのかと考えます。
 それと、武蔵国衙と相模国衙は、下総国衙や上・下毛国や常陸国との関わりが強く、
 上記の郡は王権から「下」と考えられていたのかもしれませんね。

12m駅路 (ぼ助)
2006-06-07 21:47:01
平塚から出た東海道駅路は、側溝間9,7mで、側溝幅が狭いので、路面幅8m強の道です。
中路の規格としては、許容範囲と考えます。
東京国分寺の東山道駅路は、側溝間12mですが、路面幅9m強程度で、これも中路の
規格でしょう。
無神経に12mの道と書く研究者が大半です。
大路の面幅12mとは違い、側溝や土手も含めてな場合も考えられるので要注意です。
荏原郡の大井駅近くの駅路と言うのは、東京の池上道路遺構でしょうか?
国衙や、下総、等は、大宝律令以降の呼び名と解釈しています。
それ以前の地方の時代は、それぞれがその地域で一番偉い訳で。上や下の差別は
戦いになるでしょう。


■ 記 2006年06月11日   七口検証2
明治の時代に一番通り易い道が大仏切り通しで有ったと言う事実。
それも、人力車が一台通れる幅の道です。
唯一、海から船で六浦に入った時は朝比奈切通しを使えた様です。
他の七口は山道のハイキングコース並の道であったと言う事ですね。
今の七口は、それなりに整備されたり、道幅を広げられたりで、、、
オリジナルとは違うと言う事です。
その、山道同然の七口で、「ちょっと違うぞ!」っと言う道が二つあります。
それは、化粧坂と、朝比奈の切り通しです。
、両切通しの道幅は、4m程で他の道とは、別物の道らしい立派なモノです。
しかし、両切通し伴に奇妙な事が有るのです。
次は、


■ 記 2006年06月16日   化粧坂の怪
40年前の事、化粧坂の路面は、とても平らでした。
実は、大昔あの坂を、自転車や、オートバイで登った事が有ります。
その位 路面が滑らかでした。
道幅があり、路面は滑らかで、とても立派な道に見えました。
鎌倉時代の道が、良い状態で残っている事に子供ながらも、感心しました。
今の化粧坂では、担ぎ上げるしかない!
観光客の破壊です。
私も自転車やバイクで通ったのですから、、その責めの一端を負わねばならないのでしょうが、、、
問題は、それだけ立派な道なのに、峰から外部に向けた道幅は狭く、山道同然!
道は、目的地まで同じ考えで造られるモノですが、、
峠に上がった途端にあの立派な造りの道が消える!
とても怪しい話なのです。
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