鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 29

2021年12月26日 | 鎌倉時代の波打ち際

由比ヶ浜に元寇坊提に相応する崖が存在した!

逗子の海岸にも同様な元寇坊提に相応する崖が在り、

更に七里ヶ浜にも元寇坊提に相応する崖が存在し、明治の時代まで残り、写真に捕らえられている。

では、鎌倉城を外れた海岸はどの様でしょうか? 江の島の砂州は片瀬川ですが、片瀬山迄切岸が存在する事から、片瀬川までが鎌倉城の範囲と考えられ、片瀬川西側の鎌倉城から外れた砂浜(鵠沼海岸)はどの様か?

ご覧のように片瀬川一つ隔てると、普通の砂浜と成ります。

結果は鎌倉城の範囲に防塁は造られたと考えられる。

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鎌倉時代の波打ち際 28

2021年12月08日 | 鎌倉時代の波打ち際

由比ヶ浜の元寇坊提に相応する遺構は鎌倉考古学研究所に依ると 由比ヶ浜南遺跡は「東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。」っと発掘状態を語っている。 四角い鎌倉石で積み上げられたモノと考えられる。
その土塁を西へ延長させると坂ノ下で、関東大震災で崩れた状態が下の写真です。
四角い石材が散乱しているのが確認できる。

同様に関東大震災で崩壊した七里ガ浜の道路と崖の状況は? 下図の状態です!

小動岬が写る崖が崩壊した写真です。

如何でしょうか?
四角い鎌倉石が散乱した状態は、由比ヶ浜(坂ノ下)の画面と同じ状態です。
由比ヶ浜南遺跡と同様に「鎌倉石を使った大規模な土塁」と考える根拠の写真です。

鎌倉時代に造られた道路は総て細い道です。広かった化粧坂の道も狭く作り直した痕跡が在り、朝比奈の切通も同様に狭く作り直した。
七里ヶ浜の道と考えれば広すぎる道ですが、元寇防塁の平場の広さと考えれば矛盾しない訳です。後世に鎌倉と江の島を結ぶ観光道路となったと考えます。

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鎌倉時代の波打ち際 27

2021年12月05日 | 鎌倉時代の波打ち際

江之島には灯台(昭和20年代に建設)がありません。江ノ電は1910年(明治43年)開業。依って、この画像は明治43年から大正12年の間と考えられる。

 

下の写真は、道路脇の崖の状態です。

下の写真は 江ノ電が無い時代ですが、注目は道の広さに有ります。
・ 化粧坂より葛原ヶ岡神社に向かう旧道、
・ 大仏切通より手広に下る道、
・ 銭洗弁天から葛原ヶ岡神社に向かう山道(山崩れで通行禁止)、
・ 名越の切通の道、
これ等は、皆細い道です。
例外は、化粧坂の道や朝比奈の道が広いのですが、、、鎌倉時代より以前の道と考えられます。

これ等の道と崖の作られた時代は、、、

これ等の重機の無い時代の道路整備は、鎌倉時代以外は考えられない訳です。

更に、鎌倉時代には、広い道路を狭めて使う時代でこの広さは矛盾です。

これは、道路として考えると矛盾しますが、、元寇防塁としたら、
元寇の攻撃をこの平場で武士が弓を持って待ち構える。
更に、その後ろを敵が多い場所に向けて騎馬が疾走する!
その様な戦う為の平場と考えれば矛盾しない。

この山の裏には、騎馬を置ける場所として、鎌倉広町緑地が有ります。
長窪の砦、水堰橋上の台村の平場、更に広町緑地等、通常の守り主体の城とは異質。
攻撃が前提の城と感じます。

問題は、砂浜と道路の間の崖はどの様な、構造なのか?本来なら掘り返さないと判らない話がテーマです。

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鎌倉時代の波打ち際 26

2021年12月03日 | 鎌倉時代の波打ち際

七里ヶ浜の話です。

鎌倉の由比ヶ浜には元寇防塁と考えられる遺構が在った。
鎌倉城の切岸は、片瀬山にも在り、江の島の際迄鎌倉城が存在すると考えられる。
依って七里ガ浜にも元寇防塁が有るのでは、、っと考える訳です。
下の写真は江の島から見た七里ヶ浜で、国道134号線の崖に成っています。
写真左は小動岬で、右端は稲村ヶ崎になります。

ご覧のように国道134号線の崖が、元寇防塁状態です。下の写真は、その一部を拡大しました。

写真に写るのは、国道のコンクリートの壁ですが、、国道が出来る前は、この崖の場所はどの様で在ったのでしょうか?

下は「今昔マップ」と言うアプリケーションです。

明治の地図ですが、既に江の島電気鉄道の文字が在り、七里ガ浜に道が在るだけでは無く鉄道が脇に在ったのです。

この道路の記号は、
一、道路の記号
二、鉄道の記号  緑色の枠内
三、崖の記号   赤色の枠内
の三要素で依り成り立っている。

結果は明治の頃より道の砂浜寄りは、土塁の崖が存在したと考えられる。

問題は、この道と崖の詳細です。

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鎌倉時代の波打ち際 25

2021年11月16日 | 鎌倉時代の波打ち際

google地図に依る 現在の逗子海岸です。

海岸際に国道134号線の崖が延々と続いている。

この崖の成り立ちは、、道路を作ったから??

同じ様な写真ですが、、下の写真を見てください。

同じアングルの絵はがきの写真で、海岸道路が無い時代のモノです。山の位置からほゞ同じ場所からの映像と考えます。

道路が無くても、崖が在った訳です。

Google地図の写した道路は昔は海の上! 由比ヶ浜と同様に、国道によりこの元寇防塁と思われる崖は隠されてしまった。

次は、七里ガ浜です。

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鎌倉時代の波打ち際 24

2021年11月13日 | 鎌倉時代の波打ち際

国道134号線脇の元寇防塁の現状です。
当然の如く、鎌倉石は風化に弱く800年は持ちません!
しかし石垣の基壇は地中ですから発掘すれば証明できるでしょうが、、、
現状は
関東大震災で崩れたモノを修復した石垣が現状と考えます。

以下はgoogle地図から引用します。

前回の道より国道134号に出た場所で、コンビニエンスストアが有ります。

コンビニエンスストアの脇に石垣が有ります。

 

国道に車で出る為に色々細工をしています。

 

坂ノ下の交差点です。

 

この場所には、稲荷神社が有ります。

この神社は、関東大震災後に造られたモノでしょうが、、
神社脇の道に特徴が有りその道の細さは現代では考えられない細さです。
鎌倉の道の細さは特筆ものでして、この坂の下の町の古い路地はこのレベルの細さです。
以前紹介した銭洗い弁天の古い参道も、路地道では無いのに細い道です。

この国道路面の標高は3.8mです。更にこの石垣の高さ約2mを加えると、5.8mです。
関東大震災で海面が1mせり上がっていますから昔は4.8mで、砂浜1.8mと石垣3mと考えています。
鎌倉の元寇防塁は3m程であったという計算です。

 

道路の先に有る信号交差点が稲瀬川の脇の交差点です。

鎌倉に元寇防塁が存在し、由比ヶ浜一帯に造られていたと考えられる訳です。

当然の如く、それは逗子の海岸にも同様な妨提が考えられる訳で、七里ガ浜も同様です。

それを探ってみましょう。

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鎌倉時代の波打ち際 23

2021年11月09日 | 鎌倉時代の波打ち際

元寇防塁の現代の姿は、自前の写真が在りますが、
Googleマップの方が良く写っている!
先ずは霊仙山 の下より国道134号に出あう間 のストリート写真です。

此れより下はgoogle地図の画像です。  先ずは霊仙山を斜めに横切る白いガードレールの道です。


新田義貞が鎌倉に攻め込んだ時の潮が引き出現した岩礁!
関東大震災で浮き上がった岩礁を埋め立てた時に使った道です。道の先は現在住宅地であり、その山を削って岩礁を埋め立てた訳です。


其処から東向きに元寇妨塁を見ると、下の写真です。

下の写真 道路の左側の石垣がその防塁です。

 

 

 

下図は、国道134号線が先に見えます。

 

下図は、国道134号線の出会いです。

上図の白い建物は、コンビニのローソンで、その先に石垣が有ります。

次回は、国道134号線脇の防塁です。

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鎌倉時代の波打ち際 22

2021年11月05日 | 鎌倉時代の波打ち際

下図は「鎌倉時代の波打ち際21」の元画像で、関東震災以前(明治、大正時代)の絵葉書です。

この山の岩崩(いわくえ、崖)ですが、萬葉集の防人に行く男が謳ったモノで

かまくらの みこしのさきの いわくえの きみがくゆべき こころはもたじ

この岩崩(いわくえ)の事で、由比ガ浜から見た時に絵に成る場所で、新田義貞鎌倉攻めで黄金の太刀を投げ込んだ海、潮が引き奇跡を起こし海蝕棚が水面から現れた! その海蝕棚上を歩いて攻め込んだ、、この故事に絡む古跡と成ります。

その様な訳で由比ヶ浜から防塁を写す様な写真は、震災の崩壊の凄さを表した報道写真の時だけが興味の対象で、他には探しても無い!

この写真は、稲村ケ崎に続く霊仙山を写した写真の脇にタマタマ写った物です。

場所が判れば、写りは悪くても判別が付けられると考えたのが 下の写真です。

更にもう一枚

以上の防塁が崩壊前の写真となります。
崩壊しても基部はシッカリ残って居るハズですから、、発掘したら痕跡が在るハズです。
現在、鎌倉石は風化に弱く、震災の被害もあり 現代風に他所の石を使って作り直されてる。
元寇防塁のハズが、住宅の波浪避け、高潮除けの必需品と成って生活に溶け込んで現在に至ります。

浜辺より一段高い石垣を組んだ景色は 明治時代では珍しく、観光用鳥観図に描かれた事から、書き手の興味を引いた様子が窺えます。

更に、現状の報告も有りますね、、、

 

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鎌倉時代の波打ち際 21

2021年11月01日 | 鎌倉時代の波打ち際

1923年(大正12年)関東大震災があり、強震度と津波に鎌倉は襲われ、元寇防塁の石積は一部崩壊し写真にも写し取られていたのが「鎌倉時代の波打ち際20」でした。
それならば、ヒョッとしたら震災前の鎌倉元寇防塁が写真に有るかも??


その結果が下の写真です。

二つの桃色の矢印の間なのですが、、、

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鎌倉時代の波打ち際 20

2021年10月29日 | 鎌倉時代の波打ち際

こんな写真が在ったとは!
写真の題は「坂ノ下海岸海嘯跡」(関東大震災直後の写真 )鎌倉市中央図書館蔵 。
写した場所の想定は、国道134号線坂ノ下信号したの砂浜。
山の形と極楽寺坂の切れ込み及び、V字に切れ込んだ切通から見える陣鐘峰より、、この場所が特定される。

問題は、
砂浜から急に四角い石が散乱する土塁の光景が見える。
四角く切り出した鎌倉石で作られた元寇防塁が地震で崩壊した状態と考えられる。

一部地震に耐えた石組の防塁も見えます。
更に現状の同じ場所(google地図)です。

新田義貞は、極楽寺坂攻めで陣鐘峰に陣を置いた意味が理解できるでしょうか?
七口の峰の外から 唯一鎌倉の中を見れる場所がこの陣鐘峰で有り、浜に雪崩れ込む新田軍を鐘で指揮できる場所で有った訳です。
私は、鎌倉の花火をこの場所で「高見の見物」の予定でしたが、、今では木が生い茂り安易には見えない。

マサカ、、、 崩壊した元寇防塁の写真が在ったとは、、思いもしませんでした。

元寇防塁の際迄家が立ち並ぶ状態となり、、地震や津波の怖さも知り同じ場所に家屋を守る為の土塁を作り直したのが現在残る土塁と考えられ、使われた石も風化に弱い鎌倉特有な砂岩では無いが、脇の路地には鎌倉石が使われている場所もある。

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鎌倉時代の波打ち際 19

2021年10月25日 | 鎌倉時代の波打ち際

鎌倉の元寇妨塁は 現状ではどの様なのか?

下図は、google地図です。

ピンクのマークが元寇妨提と想定する場所で、石垣の有るが場所は黒ずんで写っています。ピンクマークは土塁の切れている場所です。

道路から車で出入りするには邪魔な土塁ですから、当然撤去の場所が在る訳です。その様な場所をピンクの丸で示しています。

アップするとこの様です。

更にその先は、

基本的には、元寇防塁と思われる石垣は統一したラインとなり、個人の力でやった個々の都合で凸凹したラインとは異質です。

更に防塁の高さも ほゞ同じ高さです。

以上はgoogle地図からの情報です。

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鎌倉時代の波打ち際 18

2021年10月14日 | 鎌倉時代の波打ち際

大正12年の関東大震災の坂下の惨状です。

震災の津波に洗われても、それなりに土塁のラインが黒く写っています。

浜辺は1m程浮き上がり砂浜は広くなり、新田義貞の攻め込んだ岩礁も浮き上がり埋め立てられ 戦後には稲村ケ崎を切通し国道134号線が開通した。

震災前とは違い、土塁の際迄民家が造られています。

その土塁の段差は、段差を強調した下図と見比べれば理解できると思います。

桃色の矢印の間の点線が国道に侵食されて無い、、、元寇防塁の想定部位です。
A点は国道と別れた場所で、B点は元寇防塁の終わる場所です。
次回は、稲瀬川とA、B点の現状を見てみましょう。

 由比ヶ浜に「元寇防塁」が存在する事は、、2017年では考えもしなかった。
その状況は「コメントより、」2017年02月記載
その様な訳で、このブログの主張は決して「正しい史実を記載した。」訳では無く、思考していく経過を書いて居る訳です。
更なる情報を入手したらば、、結論は違ってきます。歴史に真実を求めること自体無理が有ります。  しかし、根拠の無い憶測は排除すべきと考えて居ます。

例え反対意見でも、、「他人の見方や考え方は、刺激に成ります。」そんな訳で、、
(素朴な疑問)さん に謝意を表します。

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鎌倉時代の波打ち際 17

2021年10月12日 | 鎌倉時代の波打ち際

先ずは、明治15年作図の迅速図です。

トテモ 農地が多いのが目立ち、寂れた観光地の雰囲気です。
更に鎌倉に入り込むには道路が貧弱で、街並みの様子から出入りには極楽寺坂経由が定番で在った様です。

下図は大正10年の地図で、地図の作図は丁重で土塁も記録されています。

3,40年で、観光地として街並みが出来上がったのを感じます。

坂の下の土塁の状況を写した画像が有ります。成就院の高みから写した写真です。

山の上からの写真なので真っ白い砂浜に対して、土塁は黒いラインとして写っています。
土塁と家屋の間は広い空き地とななり、人が点のように写っています。
よって、家屋を保護する土塁では無いと考えられます。
 稲瀬川の先には 家屋が少ないのに土塁が在る。
住居民には、、意味の無い土塁と言う事から存在理由は「元寇妨塁」と考える訳です。

大正10年の地図の家屋と土塁の間は 写真からも確認できる訳です。

これが震災前の状況です。

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鎌倉時代の波打ち際 16

2021年10月09日 | 鎌倉時代の波打ち際

由比ガ浜を滑川、稲瀬川で区切ると、、、
東より材木座、滑川、由比ヶ浜南遺跡、稲瀬川、坂ノ下に分けられる。
材木座、由比ヶ浜南遺跡の土塁は、国道134号線に埋もれた状態です。

国道134号線に埋もれず、、土塁が残って居る場所は、、、、
稲瀬川より極楽寺坂間の 坂ノ下が在ります。

坂ノ下では、海際に国道134号線が在り、その山側に傾斜地を示す黒い線が在る。これは国道が出来る前から存在する段差と考えられるます。

上図で国道134号線が急に南に向け曲がる場所は、震災で浮き上がった岩礁を埋め立てた場所で、新田軍がこの岩礁の上を攻め込んだ場所です。

埋め立て前の関東大震災以前は海で在った場所で、本来の砂浜は元土塁の段に沿って浜が在った訳です。

その当時はヘリコプターも無く、民間人が乗る様な飛行機も無い時代で、鳥観図は、想像で描く時代です。坂ノ下の街並みと土塁が描かれています。

想像力で、此れだけの再現力は素晴らしいモノと考えて居ます。
これは、人が描いた絵ですが、、、
実体はどの様であったのか??

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鎌倉時代の波打ち際 15

2021年10月05日 | 鎌倉時代の波打ち際

明治29年作図の鳥観図で、由比ガ浜が描かれています。

由比ガ浜には砂浜を囲む土塁が描かれています。
「相模国鎌倉名所及江之嶋全図 」とあり「早稲田大学」で検索できます。この図を「検索」して貰うと、拡大した部分図を見る事が出来ます。

拡大して見ると、単なる崖では無く、ある部分は石組みらしき処も有り人工的な土塁が由比ガ浜を囲む様に描かれており、人家の無い場所にも在る事から 個人的資産で造られた土塁とは考えられません。

図面は他にも有ります。

この図は、大正4年の作図で、江ノ電が記入されています。
砂浜を囲う土塁が描かれ 大正12年震災以前の作図です。
大正12年震災後の写真は 津波でも土塁は残った訳です。
上記の図版にも 土塁が描かれています。

一般民衆には、土塁を作る財政や労力は無いし 自分の土地なら財力が在れば土塁を作るでしょうが、浜全体を囲む土塁は政治力を使わないとできない話です。 

図面左端の坂ノ下の土塁の段差は、時系列を追える場所で 焦点をこの場所に絞り一段深く掘り下げましょう!

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