鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

縄文海進

2017年09月04日 | 古代東海道
有鄰 平成17年1月1日  第446号 
  前略
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html#kaigansen 
神奈川県内各地で明らかになった沖積層の貝化石産出高度は、大磯丘陵南部と三浦半島南部を除くほとんどの地点で、海抜4m前後の高さとなっている。 つまり、6500〜5500年前の海面は、現在より4m前後も高い位置に達していたことを示し、この時代に海水が陸地へ最も深く侵入して内湾を形成した。
縄文海進最盛期には海面が高いだけではなく海水の温度も現在より高かったことが、貝化石やサンゴ化石が示している。 貝塚から出土するハイガイやシオヤガイは現在の南関東沿岸では生息していない絶滅種である。
これらの貝を含めて、相模湾沿岸に形成された古鎌倉湾や古逗子湾、古大船湾、古小田和[こおだわ]湾、古諸磯[こもろいそ]湾などには、タイワンシラトリやカモノアシガキ、チリメンユキガイ、コゲツノブエ、ヒメカニモリなど、現在の紀伊半島以南の暖かい海に生息する貝が分布していた。

おなじ著者と思われるページです。
神奈川県立生命の星・地球博物館資料
http://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_v101.pdf

  これによると、
6000年前の縄文海進で、4mの海面上昇が有ったと書かれている。
その時の海岸線は、八幡様の石段下で有ったと書かれている。
問題は、
この八幡様の石段下は標高12mでして、理屈と実際が合わない!!
その違いの説明は、無い、、、
同一レポート内に矛盾のある文章が有る事は、考えられないのです。
このレポートに信頼性は無いのですが、県立博物館の役職があり、他に与える影響は大きいと思います。
矛盾を解説して欲しいものです。

明確なレポートは
「以前、八幡宮境内に県立近代美術館が建設されたとき、地下から大量の貝化石が出ました。さらに鎌倉市国宝館の資料館ができたときにも、貝化石や昔の海岸を示す地形がみつかりました。これらの情報をもとに市街地の縄文海進最盛期(六千年前)の地形を復元すると、滑川低地は内湾となっていたことが分かりました。」
出処〈http://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/04.html〉
この文から、6000年前の波打ち際は、八幡宮境内石段下まで有り、この標高は12mです。

5000年前より海退が始まったそうですが、、、
石段下まで波打ち際が有り、この標高は現在12mです。
二の鳥居の標高は5mで、
海面4mの時の波打ち際は、前掲出の図の通りで現在の波打ち際と大差は有りません。
話しに矛盾が起きています。

更に鎌倉市内の話として,,,
鎌倉市街は、市内に向けた切岸を造った土砂で3~4mの埋め立て地で街が成り立っている。
更に、地震による隆起等も影響される。

学術論文は、、、一面は真実でも、現実の実相とは符合せず嘘と成っている。
他にもっと重要な要素を考慮に無い事が考えられる。
 その、大事な要素がないので、実相と合わなくなっている。

要は、一面的な学術論文では、、、信用できない訳です。
人為的な、貝塚は、大船駅と戸塚駅の中間にまで存在したとされていますが、
 縄文時代ではこの貝塚は10m以上の場所で大船湾が無い時代で、矛盾が有る。
大船湾が存在した時代は何時なのか? から解説すべきです。
鎌倉周囲から貝化石は幾らでも出ます。一般人が観察できる場所は化粧坂で貝化石が見られます。
貝化石と貝塚の年代扱い問題に説明が欲しいと思います。




コメント
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