小学生の頃、藤沢駅前から自転車に乗って鎌倉を探索して走ったのが始まりで1950年代の話です。
当時は、江の島の華やかな賑わいとは違い、鎌倉は異質で静かで落ち着いた別世界でした。 単なる山道では無く人手が加わり、行く先々に意外性がある景観の山道でした。
鎌倉は、深緑の細い土道で、薬研堀の道や切通の道を好奇な目で楽しめました。
今思えば、その道は、崖=切岸 坂道 切通し等の造形の変化が面白さの一部で在ったし、思いがけない場所のお寺で在った訳です。今でもその山道の風情は色濃く残って居ます。
鎌倉市街は 新田義貞の鎌倉幕攻めで、焦土と成り 残った建築は円覚寺の舎利殿のみで、鎌倉時代を偲ぶ建物は消えました。
それ程に、鎌倉時代を偲ぶ建築物は消え、明治初頭の市街は大半が畑でした。
絵図の如く、鎌倉市街は八幡様の参道、長谷、極楽寺下の坂ノ下辺りに観光客目当ての家が建つ状況が示され他は畑と成ります。
新田義貞の鎌倉幕攻め以降 その時代を示すオリジナルなモノは、市街を囲む山の切岸を含めた鎌倉城の痕跡ダケと言う結果です。
鎌倉に思いを寄せて訪れる方は、観光ガイドを片手に小町通りの飲食店やお寺巡りをして頼朝を偲ぶのでしょうが、、 私は、、街並みや商店街が楽しくて行く事も多い。 お食事のお勧めは、駅前小町通りの角の「不二家」がお勧めで、マニアックな方なら、「樹」や「エレッジ・カフェ」がお勧めです。
地理的な根拠がない中で地名だけで判断されている違和感を感じながらこのブログに到達しました。
https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/116e61792c2d9b5b03b18191cda0472e#comment-list
その地、八的ガ原は.......。現在の海岸より約2.5k徒歩で7分程の距離ですが当時の鎌倉までの経路と鎌倉七口
のいずれかで鎌倉帰途につくのにどこを通ったか.......。険しい道を選んだかそれとも腰越城のあった海岸縁から
七口のうち仮粧坂・大仏切通・極楽寺切通いずれから鎌倉入りしたのかによって八的ガ原の位置判断が見えてくるのではないでしょうか。
頼朝落馬の地伝説
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-rakuba.htm
弟源義経、叔父源行家らや安徳天皇の亡霊に遭い落馬したとも伝えられ、『北条九代記』や『保暦間記』
によると、義経の亡霊が現れたのは「八的ヶ原」(やつまとがはら)だったとされている。
何処でも構わないのですが、地理的な根拠がない中で地名だけで判断されているのは解せないと感じています。地理的な経路どの様に思われますか?