鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦 12

2020年10月23日 | 大鎌倉城

鎌倉時代の戦は 騎馬が攻撃の主力と考えられます。

台村の曲輪の、馬の出入りは、自由でないと戦力を発揮できない!
「台峰の砦 6」の明治迅速地図には、8ヵ所ほどの道が在りますが、
オリジナルは、大手道の水堰橋側、北鎌倉女学園側、の大手道が2ヵ所と、
戦闘時に騎馬の出入りに使った北鎌倉駅から光照寺脇の坂を上る切通と  その延長の江の島へ向かう坂を使う事が考えられる。
大手道は、封鎖されたと考えられ、残る坂の2ヵ所を使い騎馬の出入りをしたと考えられる。
 
新田義貞が洲崎の戦いに勝ち、山崎に入った目的は、この台村曲輪を陥落し、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間に在る封鎖を突破し化粧坂を攻めるのが目的です。 梅松論では、山内(台村曲輪下)で鬨の声が挙がったと書かれている。
化粧坂の直近を攻撃すれば、南は梶原から入り葛原ヶ岡の攻撃となり、梅松論に記されています。
更に、山崎は倉久保谷戸の有る場所で、台峰の大手道を側面から攻撃でき、北鎌倉女子学園グラウンドを攻められる場所です。
葛原岡北の瓜ヶ谷からの攻防は文献が無く北鎌倉の小袋谷川とその防塁を越えられなかった事が考えられます。
 
 
水堰橋ですが、、 何で水堰橋か?
正しい名前は「せいしく橋」(せゐ志くばし)と言われています。
水堰橋=せいしく橋=せゐ志くばし
どの様に考えても、水堰をせいしくとは読めません。
さて、
水堰橋の問題点は、下を流れる、小袋谷川の谷の深さが異常です。
水源から1㎞の水量の少ない小川にしては、谷が深すぎます!
この水量ではこの様な深い谷にはなりません。
小袋谷川の谷の深さは、人工的につくられた っと考えるのです。
根拠は、両岸は同じ幅で垂直に切り立っている!
何の為に人工的に作られたのか?
残念ながら、小袋谷川の川岸は、コンクリートや石垣で補強され、オリジナルの状態が確認できませんが、、、
堀として工作されたのでは? っと考えています。
それこそ後世の城の堀の原型ですね!
これらが邪魔して新田軍は瓜ヶ谷に入れなかった! っと考えれば、この堀切は効果が在ったと言えます。
堀に水が無ければ空堀! 水が在れば、更に強力な防護に成ります。
其の水を入れる時に堰堤で水を堰き止める場所!  
それが「水堰橋」と私は考えます。
 
下は水堰橋と光照寺下橋の中間地点

上は光照寺下の小袋谷川です。
台村の曲輪下に防塁が在る事から見直した砦遺構です。
トテモ強固な防衛ラインに成りますね!
水堰橋に 堰(せき)が在り水をセキ止めたら、、、それは堀になる。
台村曲輪を守る堀と 防塁があり、更に上はキッチリと切岸です。
文面から想像できると思いますが、この一か月でマトメタ考えです。
大半が住宅に隠れて居ますが、地形的には変化は少ないと思えます。
観光気分では、楽しめない遺構でが、見方を知ればエラク面白くなる!
これは、山崎の切通の昔の様子です。
このS字の曲って怪しげですね!
私は50年前にバイクで通過しましたが、、トンネルかと思いました。
 
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台峰の砦 11

2020年10月20日 | 大鎌倉城
   !!写真を追加!!
 
大手道を水堰橋の土塁で塞がれた騎馬の出入り口の話です。
大手道封鎖(北鎌倉女学園とグランドの間)場所の下ですが、台村曲輪との間を横切る道が在った!
その道の詳細は、
 
北鎌倉光照寺と言うのが有ります。(北鎌倉光照寺HPより)
〉「光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、
高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで??
〉光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあった
〉そうです。鎌 倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうと
〉した一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る
〉武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街
筋に一夜の野宿をし、翌 日江ノ島に至り、そこ
〉で踊念仏を修したと伝えられています。その際に
〉野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、
〉一遍上人法難霊場となっております。」
 
  下図のオレンジ色ラインが江の島街道で卍印は光照寺。
 
現在の光照寺の門前の通りは、
毎日 北鎌倉女子学園の生徒が昇り降りする坂で、広い道です。
この道の特徴は、
北鎌倉光照寺の前の道は、江の島へ向かう道。
昔は小さな切通が在った。
【1960年代には、この切通の道幅は広げられているので、
「〉高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで」と
言うのは、間違い情報です。
考えられるのは、北鎌倉女子学園が造られた時(1940)、
工事車両絡みで道は広がったと考えれれる。】
 
「昔は小さな切通が在った。」と言う現在の状態。
敵に水堰橋から攻撃を受けたならば、裏の「光照寺前の道」から騎馬は出入できる。
「光照寺前の道」を攻撃されたら、、、
 
南側の江の島へ行く坂から出入りした。
この道を進むと山崎の切通に出て、天神山の脇に抜ける。
 
「山崎の切通オリジナル」と言いたいのだが、北大路魯山人が皇族が来るので、車が通れるように整備した切通と言う話です。
<https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/9ce759617e14405d04af44edfdb0edeb>
  水堰橋攻める敵を天神山の脇に抜けた騎馬で背後から襲える訳です。
 
山崎の切通とは、北大路魯山人が臥龍狭と名付けた場所です。
そして、長窪の切通と同じ道幅と同じに垂直に切り立った壁で作られた共通点が在る。
と言う事は、長窪、山崎、光照寺 の3切通は、同じ目的=騎馬の出入り口と言う連想できます。
この東照寺前の切通と、山崎の切通に共通な事は、
通常切通は直線的に作りますが、、二つの切通はS字に曲がっている。
曲がると見通せず攻め難い事と、思い切って攻め込めず躊躇する敵を正面や上から攻撃し易い。
大仏の切通は同じ構想で直角に切通が曲がっている。
坂だから曲がっていると言う理屈だと、山崎の切通の説明が出来ない。騎馬の出入りで、土塁で塞がない代わりに、この様な造りをしたと考えて居ます。
見る影も無く破壊された山崎の切通ですが、今の長窪の切通と同様な幅の切り立った切通でした。当然東照寺前の切通も同じだと考えて居ます。
 
 次の問題は、、水堰橋ですが、、 何で水堰橋なんでしょうか?
正しい名前は「せいしく橋」(せゐ志くばし)と言われています。
    その謎は???
 
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台峰の砦 10

2020年10月16日 | 大鎌倉城
広い鎌倉城は、均等に守らせたら兵力が足りない。
一ヵ所を集中して攻められたら困ります。
ワザと弱そうな場所を作り其処に集中させて攻めさせれば効率良く守れる。
何故なら関東武士が総出で作った城です。鎌倉城の構造を熟知していたと考えるのです。
 太平記に書かれた事は、新田軍は、
 十万余騎、極楽寺の切通
 十万余騎、巨福呂坂
 五十万七千余騎、粧坂
その様な兵力の割り振りで、大半の兵力は化粧坂を目指し台峰曲輪を攻めた!
梅松論や太平記を読み 地形に語らせたら、、こんな結果に成りました。
 
鎌倉終焉 では、
人数に誇張が有っても、
攻め手の 新田軍の五十万七千余騎、粧坂を目指して攻め込む。
守り手の 鎌倉幕府軍は三万余騎、粧坂を堅めた。
鎌倉軍は約20倍の新田軍をこの砦で迎撃したが、新田軍は攻略できず、稲村ケ崎に転戦し詳細は太平記に記されている。
鎌倉軍は、予備軍が10万人おり、攻め手が多ければ援軍に出したと言っても4倍の敵を
相手にした砦です。
 
主戦場は、山崎の倉久保谷戸と考えましたが、攻めるに困難で、台村砦の水堰橋が大軍が力で押し切るに好都合な場所で主戦場と考えるのです。
台村砦切岸の下の防塁ならば、高さ数メートルの防塁、他の場所より攻め易いはず!
これが「新田軍は洲崎の戦いで勝ち、山崎に入った!」と書かれ、山内で鬨の声が挙がったと梅松論に記された事と考えて居ます。
 
山内には、水堰橋より化粧坂に向かう大手道と、大手道に控える台村の砦=馬出曲輪を守る鎌倉軍が防塁を作って待ち構えて居た訳です。
防塁を設けて攻撃を防ぐ!それは、専守防衛です。
普段から水堰橋で、馬を降りて馬に水を飲ませ隊列を整え台峰で馬を繋いだ訳で、その出入口を土塁で塞ぎ、防戦をした。
何か変に思いません?
攻撃用の騎馬の出入り口が無くなります。
戦の最中に、、この騎馬は何処から出入りしたのか?
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台峰の砦 9

2020年10月14日 | 大鎌倉城
台村の曲輪ですが、 「登ったら宅地造成された団地でした!」
そんな感じの魅力の無い住宅地です。
 見方を変えれば 鎌倉時代からこの平地が有る不思議を!
地名として有るのは、地名が名付けられた時から平地で有った訳です。
 
台村馬繋場の曲輪は、南北220m 東西500m の平地です。
江戸城の本丸は、南北570m 東西に200m で似た広です。
 
台村の曲輪を化粧坂に向け少し登ると、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間が、傾斜が強く雛壇状でこの場所が街道封鎖の場所と考えられます。
封鎖の外に台村曲輪の馬出構造が在る訳です。
鎌倉城以降でも大手口の前に馬出曲輪を造る時が在る。
「馬出曲輪」の名前からして 台村の馬繋場と使い方は同じで、鎌倉の城造りを真似たと考えられます。
 
太田道灌が造った江戸城=江戸城本丸と同じ大きさの台村曲輪ですが、、、
外部から観察したら、凄い防備の山城かも??
期待は裏切られ切岸の上は平らな平地だけ! 此れでは誰も城とは思わない!
 
鎌倉城なんて、地味なもんだ、、、っと私自身思っていたんですがね、、
しかし、
台村の曲輪の巨大さや囲む切岸と、更にその下の防塁を検出した時には、、先入観をひっくり返された!
そんなに細かく考えられた城であったのか!!と見直した。
地味な割には見どころ満載なのが鎌倉城!
 
関東武士全員が力を合わせてこの鎌倉城を作り上がたと考えられる。
城の構造を熟知した関東武士=新田義貞軍が一番の弱点と思われる化粧坂(水堰橋から台峰化粧坂へぬける大手道)を攻めたのは、主力の兵をこの場所に集中させた事で想像できる。
洲崎で勝利した新田軍は台峰の南麓の山崎(倉久保谷戸)に移動した。これは、太平記に書かれた事。
更に梅松論では、山内・小袋坂・極楽寺にて「合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」と書かれた。
山内とは、水堰橋から北鎌倉駅のある台村曲輪北麓の下です。
これで、台峰は、南と北麓に新田軍が配置された様子が窺える。
そして、主戦場はこの台峰曲輪で争奪戦と成った様子が梅松論に書かれた訳です。
幕府軍は、台村曲輪を攻撃される事を予想しており、、妨提を用意してあったと考えるのです。
何故か?  他の場所は切岸が高く、数メートルの土塁で「台村が攻め易い場所」っと新田軍は考えたのでしょうね。
その様な訳で、高さを3倍に誇張した図を載せました。
他の場所の切岸は高く、台村曲輪は低いから攻めやすい!
この事から、
この台村曲輪は、国内向けに造られた砦と私は考えるのです。
鎌倉城の一面は元寇対策であり、他面は国内造反対策も有った!
 
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台峰の砦 8

2020年10月10日 | 大鎌倉城

前回の峰の砦 7に書いたことは、

〉水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。
〉この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。
〉この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。
〉この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、
〉水堰橋から登る道だけの様です。
〉それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。
 
 っと言う事が、、全くの間違いで在りました。
それは、大きな切岸の下に「防塁」を設けて在ったのです。
残念ながら、総ては宅地となっており、その確認は困難ですが、
国土地理院の傾斜量図を見ると、建築物に誤魔化されない防塁が検出できます。
黒いラインは、傾斜の強く高い切岸です。
切岸の外側に何段もの薄いラインが有ります。
恐らく3m前後の防塁と考えられる場所の平場に住宅地が建てられた!
大手の造成会社の手が入らない時代ですから、こんなに整然と段が付くのは、個人の資力ではない。歴史の有る段と考えます。
赤ラインで示すと、、、
この様なラインが引けます。
それに住宅を表示すると、、、、
この様な状態になり、、、数メートルの防塁等、、住宅に隠れてしまう!
ワザと攻めやすい防塁を作らないと、、攻めてくれないし、、
基本が専守防衛の戦国時代の城とは違い、、鎌倉城は、攻撃の基地的な考え方で作られている様に感じますが、、、
この台村の馬繋場で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、
攻撃されれば、他の馬繋ぎ場から攻撃の背後を騎馬隊が襲う事が出来る連携が考えられる。
 
 
 
 
 
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台峰の砦 7

2020年10月06日 | 大鎌倉城
緑のラインは鎌倉の大手道で、中道として鶴ヶ峰に向かう鎌倉街道です。
水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。
この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。
この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。
この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、水堰橋から登る道だけの様です。
それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。
水堰橋(せいしくばし)の伝承ですが、
鎌倉城に出入りする際、この場所で隊列を整えた!
と言う話です。
この話が緑のラインの道が大手道であろうと考える根拠です。
更に、何故この場所で出入りの際 隊列を整えたのか?
その必然性に迫る伝承は無い。
 
結論から言えば、明治の初期には平地で在った地形は、鎌倉時代からの平地と考えられる。
更に、北鎌倉女子学園の校舎とグラウンドの間は、新田義貞との攻防で大手道は土砂で封鎖された筈で、
馬の出入りは出来ません。
その時に 騎馬は、封鎖の外に置かれた筈で、長窪の砦も同様な考えで作られていたわけです。
騎馬は、外部に出やすい場所だが、外部から攻撃できない場所に確保するのが前提です。
いざ鎌倉の時は、関東周辺の騎馬が集まり 数万の騎馬を確保する場所としてこの曲輪が馬繋場であったと考える訳です。
近代的な城として足軽が鉄砲を使い、馬が主力で無い城には、不要な曲輪です。
この時代は、騎馬が主力で数万の騎馬を 鎌倉の狭い市街には確保できる場所は無い。
鎌倉の市街に騎馬を置いたら、攻撃には使えなくなる。
鎌倉城の封鎖外には、その様な騎馬を確保する馬繋場が多数あったと考えて居ます。
 
元寇時には日本中の騎馬武者が集まる事が前提の鎌倉城です。
集まる騎馬数は、
太平記の鎌倉攻めでは、新田軍60万騎+鎌倉幕府軍15万騎 これは誇張が過ぎます。
話半分で30万騎+8万騎
実質は、更にその半分で、15万騎+4万騎程度で戦ったのではないかと臆測します、、、
それでも、日本の武士の合計は19万騎です。
後年の関ケ原の戦いでは
西軍は80,000以上   東軍は74,000 - 104,000 っと考えられており、この数字程度の規模と思います。
蒙古襲来で鎌倉に攻め込まれたら、、全国の騎馬武者19万騎の馬繋場が必要です。
この広い台村の曲輪は、騎馬の戦いで使われた馬繋場の一部で有ったと考え、
馬を係留する前に、小川で水を飲ませたり、馬を降りて鎌倉市内に入る準備をしたり、、、
逆に、出陣の時に馬に乗るまでの支度をして、水堰橋に降りて隊列を作る。
これが水堰橋伝説の私の回答です。
 
馬繋場の特徴は、
鎌倉を封鎖した外側で、広い曲輪だが、攻撃を避けられる場所。
尚且つ自由に出入りできる場所!
そんな矛盾に答える場所です。
 
 
 
 
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台峰の砦 6

2020年10月03日 | 大鎌倉城
明治の迅速図(明治16年程)で、未だ横須賀線は敷設されない時代。


同じ地図のモノトーンです。  問題は紫色に囲った部分で、台村(旧字体)に注目!
同様に右上の紫は、、長窪の砦です。 共通するのは、異常に広い平坦地です。
現状は、魅力に欠ける造成された様な平坦な住宅地を如何に面白く見せるか!

明治15年の地図ですから、江戸時代からの平坦地と考えられる。
この場所は、鎌倉街道が通過する場所です。
そして、台村に上がる手前には  「水堰橋」と言う曰くある場所と成ります。
吾妻鏡(奥州攻め )には「二品者大手自中路」 とあり、この緑ラインの道が鎌倉城の大手道と考えられます。
    次回は、この状況を踏まえた台村と言われた平坦地の話です。

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台峰の砦 5

2020年10月01日 | 大鎌倉城
緑のラインは 水堰橋より台峰を通り、葛原ヶ岡から化粧坂に向かう鎌倉城の大手道です。
この大手道はどの様に守られて居たのか?
「新田軍は化粧坂に4 戦う砦跡」に この台峰の曲輪を示してあります。(国土地理院の地図を再掲載)

黄色で示したのが、平場(曲輪)の有る場所です。
総ての曲輪は、峰通しの兵員輸送の道で繋がっている訳です。
これが、鎌倉の山は自然の要害の地ではなく、人工的に切岸を作り、曲輪を作り、有機的に峰の道を使って兵員を補強できる機構が出来て居た訳です。

基本は、垂直に近い切岸ですが、切岸の間にこの場所を攻めて下さいと言う曲輪が在ります。
更に谷の奥にはやはり曲輪が在ります。
在る時は 枡形の虎口の様な曲輪であり、雛壇の様に切岸を攻めるより数段攻め込みやすい構造で在ったり!
攻め手を誘惑して入り込ませる構造です。
どの様な関連性を持って曲輪が造られているのか?
それらの曲輪は、峰の道を通って、総ての曲輪は意図的に繋がっています。
敵が一か所を集中的に攻めれば、峰の道を使い、援軍を補強出来る訳です。
明治時代に、塞がった七口を回避して、峰の兵員配置の道を生活道路に使い鎌倉外に出入りした訳で、
この峰の道を「鎌倉街道だ!」等と書かれた記述も在ります。
総て間違った記述は、鎌倉の山の全体像を把握できなかった事から生じた間違えと考えます。
この記述でも、更に詳細が発覚すれば訂正する箇所が出て来るでしょうが、、、、(-_-;)


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