鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城 蒙古襲来の前後。

2018年12月11日 | 大鎌倉城
コメントより、、、、  2017-02-16
> (英)さん 
> (個人的には、初期の記事から貫かれていた、頼朝による
> 大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)
> (博多湾で津波の話はあまり聞かないですし。)


 そうです!
初期の頃のブログは、鎌倉城は、朝廷対鎌倉幕府の為の城!
その様に想定しました。
実際に、頼朝の時代の城はその想定で作られたと考えて居ます。
城の縄張りも、七口周囲とその峰の登り口や中間に攻防に耐える、、
寄せ手を攻撃する構造を作ったと考えられます。
七口に登る峰に作られた砦と、最終的に七口の頂点に出入りを塞ぐ土壁を作ったのが、最終の「新田義貞戦」と考えて居ます。
北条家の時代に成り、元寇対策に改造された鎌倉城は、七口の外部に巨大な砦が存在するのですが、新田義貞に対峙した時兵員不足の為、元寇対策の城より守備範囲を狭め、初期の朝廷対策の城(縄張り)に縮小させて戦ったと考えて居ます。その様な訳で、初期の鎌倉城は新田義貞と戦った範囲で在ろうと考えて居ます。
その様な鎌倉城の初期に工作したのは、古代東海道の封鎖と七口周囲の峰の切岸と考えて居ます。
初期の明確なのは、朝比奈に残る幅7mの切通(古代東海道痕跡)の東西に残る古代東海道7m以上9m未満ある道幅を4m幅に改造した道路痕跡です。
更に、東山道武蔵路の切通と考えられる海蔵寺裏の切通を塞いだ土橋です。


さて、話は元寇対策の城ですが、、
元寇対策の城は更に大きく、東は金沢八景西は片瀬の龍口寺辺り。、、
七里ガ浜上の山は、元寇対策の砦で有ったと考えられます。

海岸から見上げれば、、ノドカな丘陵地ですが、、、
山から見下げれば、、、、

この様な急斜面!

特に、鎌倉広町緑地は宅地化されずに残っており、、長窪の平地を再現させた様な騎馬を収納するに良い構造をした場所でもある。

これが、平和な現代の顔と、、峰を越えると裏には騎馬を隠せる広場!それは戦の場です。
浜辺から1㎞の場所でこの様な景観となります。

この西の傍に属する砦の痕跡と考えられるのは、、
龍口寺裏の常立寺(鎌倉城と蒙古襲来9| 2018年09月11日 )にある切岸や、女坂(忘れ去られた鎌倉 手広切通し編3| 2009年09月05日)等が存在します。

そんな訳で、首尾一貫した一つの完成された説として鎌倉城を解説している訳ではなく、、
日を追う毎に、データーは蓄積され、考え方の深さは変わっていく!!
そう、、、日記ですから!!
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする