鎌倉に城がある。
中国では、城主や市民の生活の場を壁で囲い、城と呼ぶ。
頼朝は千葉氏の助言もあり、自然の要害の山が有る鎌倉を幕府の地と選んだ。
初期の城としてやった事は、前の時代に、古代東海道と古代東山道分岐道が鎌倉在った為、この巨大な道を塞ぐ(痕跡は海蔵寺の裏の大堀切)事で城の体裁を整えた。依って出入りは困難に成った。
次に、出入りを出来る場所を七口とし、外部に向けて切岸と言う名の崖をり、鎌倉城は完成した。明確に守る幕府と市街地が有る城です。
初期の鎌倉城は、反幕府勢力に対抗する為に鎌倉の市街地と幕府を守る目的で外に向けて切岸を作ったと考えられ、古代東海道と古代東山道分岐道を封鎖する事と、朝比奈峠の様に道幅を狭くし敵を迎撃出来る砦構造に改造した。
その後、時代は変わり、
蒙古襲来=元寇があり、 博多湾には全長20㎞の元寇防塁を作り、鎌倉城では蒙古と対戦する為の砦として初期の鎌倉城は規模を巨大化した、、、現在残る切岸を主体とした防御遺構が、現存する鎌倉城です。
蒙古襲来時は、
船で襲来する蒙古軍に対し、由比ヶ浜には博多湾と同様な元寇防塁(遺構は由比ヶ浜駐車場より出土)を作り、その規模は七里ガ浜、由比ヶ浜、逗子海岸等の他に金沢八景を主体として東京湾周囲に在ったと思われる。
由比ヶ浜の元寇防塁を破られた時には、鎌倉市内は元寇が占拠するのだが、その対策に、鎌倉城には市街に向けて切岸を作った。
要は七口の内側に向けた切岸は市街地を捨てた砦に変わる、蒙古に対抗する為の由比ヶ浜より押し寄せ市街地を占拠した蒙古軍に対抗した切岸を作ったのです。三方の山から蒙古軍に攻撃を仕掛けて殲滅する砦と言う性格に変わる。
更に、
蒙古軍は、六浦の港から侵入する事を想定した造りに成っていたと考えられますが、、、
40年前に見た六浦の見事な切岸の大半は住宅地として消滅していますが、完全に消えた訳では無い。個個に建てられた個人住宅では、切岸を無くす土木工事はされずに連続した切岸を見る事が出来る。
朝比奈を抜け六浦へ古代東海道が有った痕跡が在り、六浦から海路で上総へ渡る経路です。
六浦は鎌倉時代の外国と交易する港でもあります。
元寇が鎌倉に攻め寄せたら当然攻め込む拠点にもなる場所とも考えられます。
恐らく、波の荒い外海の由比ヶ浜や七里ヶ浜は上陸困難で、元寇は六浦側から朝比奈峠へ攻め込んで来ると考え、
鎌倉城東側防衛線を強固にしたのではと考えます。
すると、、、鎌倉城は更に巨大な大きさに修正する必要が考えられます。
青色線は鎌倉市街を守る防衛線ですが、
桃色の線は、六浦を取り囲む様に切岸が作られています。
更に、橙色の 半ば住宅地に破壊された切岸が確認できます。
問題は、六浦港を囲む巨大な防衛線が存在し、更に、、、、
切岸の痕跡を根拠に鎌倉城を考えると、鎌倉城の縄張りはコンナモンじゃない!
注目は、鎌倉の街を継ぎ目なく囲った切岸です。自然の山を利用して、人工的な切岸を切れ目なく造り城壁にした。
鎌倉の市中には 古来からの巨大道路の東海道と東山道相模路が通っていたが、防衛上の理由で封鎖した痕跡もあり、ここで紹介した状態です。
下の図は、鎌倉の都を囲む城壁(青線)と長窪砦より馬を降りて鎌倉の都に入る(緑線)ルートに成ります。
この長窪の砦自体ででも、大きな城の規模です。
因みに江戸城の大手門より半蔵門迄1.4kmで 長窪砦は1.2kmと言う比較で如何に鎌倉城の規模が大きいかを考えて戴きたい。
緑の樹木に隠された鎌倉城ですが、上の赤色地図が土壌の形状を示した図で 現地を見た時の理解に成ります。
鎌倉と言えば「イザ 鎌倉」と言う言葉が示す様に、、、、
鎌倉に事が起きたなら、日本国中の武士が先を争って鎌倉を目指して終結する!巨大な城は、兵員が無いと守れない訳です。
そのシステムは
馬を使って鎌倉に向かわないと取り残される。
その馬の数は、集まった兵の数に近いと考えられます。
馬を繋ぐ場所は、鎌倉城の大手道に在る台の馬場と長窪だけでは、不足で当然他にもある訳です。
『太平記』では新田義貞の討幕軍60万騎、鎌倉幕府軍14万騎で、話し半分で新田軍30万騎 鎌倉軍7万騎程度と考えると、新田軍30万騎+鎌倉軍7万騎=37万騎が当時の日本の総兵力であり、、、蒙古が押し寄せた時の鎌倉城を守る兵力と考える訳です。
その鎌倉城には騎馬37万頭を繋ぐ空き地が必要と成り、蒙古軍を攻撃する為の出撃基地と成ります。単なる身を守る為の城では無く攻撃基地と言う側面が有り。通常考える天守を守る城郭とは別のモノです。
その様な訳で、、後世の石垣が有り 天守の有る城の守りが主体と成る城とは異質な元寇を返り討ちにする攻撃的な城造りと成り、、、結果は城の外に馬場が有り、城を攻める元寇を背後から騎馬にて襲え、上陸した元寇に騎馬にて駆け付ける機動性を持っていたと考えて居る。
後年の戦国時代の城は、鎌倉の城造りが契機となり急に地方の士族が城を作り出したと解釈しています。
朝比奈切通の以前は、古代東海道が鶴岡八幡宮前より朝比奈切通しを経て六浦まであり、六浦港より海路で上総へ渡る経路と考えられる。
六浦は、鎌倉幕府が外国と交易する港でもあります。
元寇が鎌倉に攻め寄せた時に海路案内人が行き慣れた六浦港が 攻め込む目標と鎌倉幕府は考えた節があり、東側の守りは堅い。
元が六浦港に船を入れ 鎌倉を攻め込むと考えた時に、最大の防御地点として朝比奈切通が存在する。
古代東海道として平塚に9m幅の道路痕跡が在り、その方向は六浦に向かっています。
更にその道路痕跡として、朝比奈切通は、鎌倉の切通としては破格の広さの7mと成って居り、これが古代東海道の痕跡である根拠です。
この古代東海道を鎌倉時代に朝比奈氏が改造して4m幅にしたと考えて居ます。
その改造の結果、古代東海道の痕跡が朝比奈切通のアチコチに残って居ます。
青色線が鎌倉城の切岸=城壁 で有り、黄色線は朝比奈切通と名越の切通と成る。
七里ヶ浜や由比ヶ浜は、外海で波が荒く遠浅の砂浜で在り、外洋船が停泊しにくい為、主船団は六浦から攻撃してくると幕府は考えた様で西側より東側の六浦面の防御は強固と考えられる。
結果は、
新田義貞は攻撃に楽な鎌倉の西側を攻めた訳ですが、、、それでも化粧坂は落とせなかった!
鎌倉城北側防衛線ですが、小袋切通しより大平山に向けた尾根道の状況です。
赤色地図は、故意に峰の兵員移動の道を紫色破線にしています。
白い処は、傾斜が少ない処で移動が楽に出来る場所です。
赤い場所は傾斜の場所、強い傾斜は黒っぽくなり崖状態に成った場所=切岸です。
更に
防衛ラインより張り出した峰の下も切岸と成っており、複雑な構造と成り この峰を使い敵の背後を攻める構造でもあります。
これらの樹木の茂った峰は単なる山に見える訳ですが、、、人が登れない様に人工的に切岸は作られている。= 「三方を山に囲まれた天然の要塞!」では無い!!
実態は、自然の山裾を切岸にして作り上げた人工的な城です。
種々の城を見て詳しい人ほど、、、世界でも指折りの広大な城を、見破れない!っというより広過ぎて調べてない!
鎌倉市内を囲む今回示した切岸は、源頼朝時代から鎌倉を囲む城壁と考える。
其の後
元寇の対策として、鎌倉市内の防衛ラインより外部に張り出した峰も切岸を作り、攻撃の拠点としても使える馬場なども作られたと考えて居ます。
当時、鎌倉に居住した南宋の僧より元寇の情報を得て 鎌倉幕府は対策を取って城を作り上げたと考えられる。
その脇で日蓮が「私を信じなければ、国難が起きる!」と布教して捕まった訳で、精神的な問題じゃなく物理的な防禦体制を取らないと話に成らない事を、鎌倉幕府は南宋の僧から聞かされ危機意識を持っていたと考えて居ます。
実際の国難は、武力と博多湾の元寇防塁及び神風に依って排除され、、日蓮の警告は意味を為さなかった。
鎌倉城は単純な専守防衛の城では無く、攻撃基地の性格も併せ持つ構造と考えて居ます。
新田義貞の時、幕府側は兵力が足りず、今回紹介した防衛ラインを守るのが限界で在った訳です。
日本全国の武士が鎌倉に集まり元寇を倒す為の城を作った訳ですから、幕府側の兵員だけで守るには兵員が足りない とはいいながら、 新田義貞が化粧坂の防衛ライン正面突破を仕掛けたが、、、幕府側より数倍の兵士で攻めても、不可能だった訳です。
鎌倉城の切岸に就いては、、、
■鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8 (2016/02/24)
■鎌倉に城は無かった!なんてね、9~12(2016/02/24)
■日本城郭大系 (2015/06/22)
■日本城郭大系2 (2015/06/26)
■鎌倉城の 成り立ち(2015/06/15)
■武家屋敷跡 (2014/10/10)
以上に書かれていますが、
これ等の切岸をどの様に感じるか?と言う問題がある。
城としての実感を持感じたくても、樹木に隠された現風景と、60年前の景観は別なモノで、当時の景観を再現したら巨大な防禦施設を実感できます。
モットも 巨大過ぎて視野に入るのは 城全体の数パーセントですから、後世の城郭研究者の常識で鎌倉城を見た時には単なる山に見える為に、鎌倉城を語る文献は無いも同様です。
権威の有る「日本城郭大系」が地方の豪族の作った城を基準に鎌倉城を見て、決定的な間違えを犯した。世界最大の軍隊を迎え撃つ為に、日本の総力を挙げて作った城を巨大過ぎて城とは見抜けなかった訳です。
鎌倉の山の斜面は人工的に直線的な加工をされ、直登が困難な山肌に成っている全容が見えたのが、今では樹木に隠された山です。
モットも 50年前の再現を望むなら、、、空中写真の立体視が在ります。
バーチャルながら、国土地理院地図(電子国土Web) ⇒「地図の種類 トップ」 ⇒「標高・土地の凸凹」 ⇒「赤色立体地図」を選ぶと下の図の様になる。更に「ツール」 ⇒「並べて比較」した状態です。
左下は大仏切通、そして右の中程のブルーのラインが切れた処が小袋坂です。
黄色いラインは、鎌倉城の大手道と考えられる化粧坂より台の馬場(緑のラインで囲ってある)へ抜ける道です。
新田義貞は この黄色いラインの大手道を攻撃した=化粧坂に向けて攻撃した。 と言う事です。
ご覧の通り、この黄色いラインに下から攻め上がる事は無理であった理由は、この図や、過去ブログ「新田軍は化粧坂に2〜4」(2018/10/20以降)や、 「台峰の砦2〜11」(2020/09/24以降)を参照してください。
今回のテーマは、これ等の城郭遺構と,周囲の見処を併せて紹介しようと言う考えでして、鎌倉在住の方には周知の事ですが、これは序盤です。
鎌倉城の城壁をご覧になり、如何でしょうか?
注目点は、
自然地形のハズが、、都合よく鎌倉山の峰で囲えたものだ!
そんな好都合な山の峰が本当に有ったのか? 奇跡です。
キット人工的に塞いだ場所も有ったでしょうに、、、(そこ迄 調べた事は無いが、出来過ぎた城壁です。)
新田義貞は陸上より攻めたが、鎌倉軍の防衛線としては、兵を配置す為の峰通し道となり、その下は鎌倉城の城壁である切岸になっている。
現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ 切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。
鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見えます。眺望の有った源氏山は、街並みも見えず海も望めない。
下図は、樹木と建物を排除し、赤色で高低差を表現し、急な崖は黒く表現した地図です。 稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、ブルーラインの下は崖です。
如何でしょうか?自然地形に手を加えて切岸にしたのですが、、 地方の小さな城とは比較に成らない巨大さと、短い年月で世界一巨大な国の軍隊を迎え撃つ「砦」とも「要塞」とも鎌倉の都を守る「総構の媚を売る訳でも無く、ミタクレを気にした城では有りません。
下の図。切岸の傾斜が強い場所は、黒く強調した合成写真です。
切岸に近づくと樹々の隙間から切岸を覗く事が出来る場所が有りますが、現実の写真と比べ、樹木の厚みや建物の立体した3Dの状態は無いので注意。
鎌倉の街を囲む城壁が有ります。
城壁に出入りするには鎌倉七口とも称し中身は切通しと坂です。
その他に、新田義貞が鎌倉攻めに使った稲村路と逗子の披露山から逗子市新宿へ下りる古代東海道と間違えられた道が在ります。
ブルーのラインがその城壁の上で在り、下は城壁として切岸と成っている。
敵の想定は、陸地の外側から攻められた時にもその峰の下は切岸で有り、海岸から船で攻められた時には、砂浜の処で防塁が有り、其処が破られたら山に避難し、切岸に守られ攻撃を再開できる構造です。
この構造を、歩いて観察し易いように地図と起伏図を併用して紹介しようとおもいます。
鎌倉城西側防衛線 はその為に書き始めたのですが、、、
書き換えるつもりです。
赤いラインは、鎌倉の市街を守る防衛ラインで、その下は切岸です。
青いラインは鎌倉七口の切通。 緑ラインは稲村路
鎌倉城を解説した研究書は殆ど無い。
在っても断片的で有ったり、全体の城としての構造や機能迄の解説は無い。
鎌倉終焉の時に、この城の特徴が示された。
関ヶ原の戦い - Wikipedia
西軍8万人 対 東軍9万人の戦い。
関ケ原の戦いより規模が大きい、鎌倉の戦いでは、
推定 新田軍 25万人 対 鎌倉幕府 5,5万人
太平記は 新田軍六十万七千騎 対 鎌倉幕府十五万騎
攻撃新田軍の圧倒的な人数に対し、鎌倉軍は少ないが、3日持ち応えてた。
新田軍は正面突破が出来ず、城壁の途絶えた稲村路より、干上がった海より鎌倉に侵入出来た。それ程強固な鎌倉城の実態を調べた研究書を私は知らない。
現代の研究は、参考文献を調べて研究書を作る訳ですが、鎌倉城を示す研究書は太平記、梅松論、吾妻鑑、軍忠書等限られ、その範囲で研究する訳です。
挙句は、2010年以降「鎌倉に城は無い!」と言う説が鎌倉市内の講習会で流布する珍事まで起きた。
その原因は、何故なのか?
文献のみを根拠に研究し、鎌倉の土地に残る鎌倉城の痕跡を調べた研究書は無かった。
余りにも巨大な城遺構は個人の調査で調べられる規模ではない。
新田義貞の攻めた鎌倉城西側(稲村ケ崎より小袋坂の建長寺まで)だけで直線距離4Kmある。
モロニ調べれば、その3倍12㎞の城壁にあたる切岸があり、鎌倉を守る防衛線だけの話。
鎌倉城西側防の衛線より張り出した砦遺構の切岸は、その十倍以上となる。
通常語られる日本の城遺構とは、比べようの無い広大な城で、世界的にもこれ以上の城跡は在るか無いか?のレベルです。
その理由は、世界一の軍隊と戦う事を想定した城で在った訳です。
馬繋場はこの台村曲輪で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、
鎌倉時代の戦は 騎馬が攻撃の主力と考えられます。
十万余騎、巨福呂坂
五十万七千余騎、粧坂