明治の迅速図です。
ご覧の通り、稲村ケ崎が海に突き出た岩礁は記載されていません。
細かい処迄明治政府は調べる余裕が無かった事がウカガエます。
下図は現代の詳細な地図で、海際の桃色に示した場所は波蝕台で平場です。
この桃色の平場が鎌倉街道の痕跡の様に誤解した人が居り、挙句は胸まで漬かりながら渡渉を試みたのが明治の話で、渡れたので「新田伝説は単なる伝説では無い!現稲村ケ崎の脇を渡渉したのだ!!」っと言う古文献を無視した誤解が生まれた! 更に碑迄作られて今日に至ります。
上図の桃色の平場は、人工的な平場ではなく、波蝕台で波浪が岩を削った2m幅の平場で数か所で途切れており道の痕跡では無い。これ等の水面上に出た平場を断ち切る海蝕洞が在り、洞は数千年を要する侵食ですから、千年後程度の変化は微小です。水面上にでた桃色の平場は道としての資格は無く、古典に書かれた一般的老若男女が通行できる稲村路では無い根拠です。
稲村路は別な処に存在します。
さて、下の稲村ケ崎の航空写真ですが、
海底の岩場には、進行方向を邪魔する溝が多数有り、安易に渡渉するのは困難です。
新田軍が渡渉する時、鎧、武器を持ち胸まで漬かって歩き、溝に足を取られれば、胸の深さでも溺れます! 更に鎌倉軍は船を出し、横弓を仕掛ける準備をしていた。
結果は、新田軍の渡渉はこの場所からは無理と言う訳です。
下の写真は稲村ヶ崎の東側で、詳細な地図に示された桃色の平場は 水際の白い岩場であり、海蝕洞に断ち切られている。稲村路と呼ばれる街道の痕跡では無い根拠です。
下の写真は崖の崩れ状態から関東大震災前の大潮で浮き上がった岩礁で、今の埋め立て地です。波さえなければ問題なく胸まで海に浸かる事なく岩盤の上を通り 鎌倉市内に攻め込めるわけです。
更に、下の写真は同じ場所の明治時代の潮干狩り風景です。岩場が比較的平坦な岩場で在る事に注目してください。 これならば、鎌倉市内に向け新田軍は多人数でこの岩床上を通り攻め込める。
以上が、写真によるマトメです。
腰まで潮に漬かり、水中を渡渉した訳では無く、この場所を由比ヶ浜に向けて攻撃した訳です。 間違えは、古典に書かれた稲村路を調べずに 憶測で稲村ケ崎の水際と決めつけた事です。
詳細は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。