鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城西側防衛線 稲村より大仏切通

2024年04月15日 | 稲村ヶ崎伝説

新田義貞の攻めた鎌倉城の防衛線は「鎌倉城の特徴」に書かれた赤いラインで、その下は鎌倉城の城壁の切岸です。
現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ 切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。
鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見える。眺望の有るべき源氏山は、街並みも見えず海も望めない。

下図は、樹木と建物を排除し、稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、赤ラインの下の崖です。

下図は 更に建物の現状の下の図。仮想図で樹木の厚みは表示してない。切岸の傾斜が強い場所は、黒く強調した合成写真です。

切岸に近づくと樹々の隙間から切岸を覗く事が出来たり、峰の上から直線的に削り取られた切岸が見える場所もある。前の図に写真を張り付けただけなので、現実の写真と比べ、樹木の厚みや建物の立体した3Dの状態は無いので注意。

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稲村崎成干潟事のマトメ 4 google Earth

2022年06月24日 | 稲村ヶ崎伝説

.由比ヶ浜から 霊仙崎より 稲村ケ崎迄の全体図でこの地域の地形を把握する図面です。
.現在は「google Earth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。
.そんな「google Earth」の画像です。

.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。
.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残っており、崖上迄続いて居ましたが、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。
.再度訪れて写真を撮る考えでしたが、、植物の繁茂が年々ヒドクて真冬でも現場迄 草刈道具が必要で、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない現状です。
.下図は、一番右に由比ヶ浜の海岸がみえて、稲村路と干潟に成った場所(現在の埋め立て地)の位置関係を示す図です。


.この画像を2D(平面図)で示すと下図の様です。

.七里ヶ浜から極楽寺に向けた点線が急角度で南に向かう地点が針摺橋です。


太平記より、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。
〇これが七里ヶ浜より極楽寺に向かう際=七里ヶ浜の砂浜なら、稲村ケ崎は東ですから、極楽寺坂の様子が窺えるギリギリまで進んだ状況で偵察をした。
〇その場所は、針摺橋辺りが妥当と考えるのです。.
〇更にその場所は南が「稲村ケ崎」=稲村路 でして、
〇稲村路は、霊仙崎と稲村ヶ崎に挟まれた状態で在り、岩場を降りる稲村路の痕跡も現存すると言う訳です。

.偵察で針摺橋迄侵入すると、道は二手に分かれており 北は極楽寺、南は稲村ケ崎!と成っていた。 
後ろを振り返り「後ろは七里ガ浜で稲村ケ崎!」と理屈じゃ書きませんから、道の分岐点での記述と解釈できる。  古文献の記載に矛盾が無いのですが、現代の鎌倉研究者は現地と対比して研究した痕跡も無く、他者の研究本を信用して間違えの上塗りをしています。

以上が稲村路を地形から 広い視野での説明です。

参照記事 カテゴリー:稲村ヶ崎伝説  稲村崎成干潟事 上巻 をご覧ください。

 

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稲村崎成干潟事のマトメ 3 空中写真

2022年06月19日 | 稲村ヶ崎伝説

下は2014年写で、崖の岩肌は、温暖化により殆ど隠れています。道路痕跡は目立たぬ様にピンクでプロットして在ります。

 

下の写真は、2007年で多少は岩肌が見えます。(CKT20072-C26-56)

 道路遺構が、崖を横切る状態で写っています。
PC画面で作図しているので、スマホでは画像が荒いかもしれません。
興味のある方は、国土地理院の空中写真閲覧にて(CKT20072-C26-56)を調べて下さい。
下の写真は1964年で、崖には緑がホトンド無い時代です。

古い空中写真は画素が荒くて1m程度の道幅では画像に出にくい。

垂直に近い崖は空中写真を真上から撮ったら殆ど写らない!
季節により植生が変わり崖の見え方が変わる!
近年の空中写真は画素が緻密で詳細まで写るが、緑が侵食し始め、道路痕跡は隠れる!
冬枯れも殆ど無く、伐採覚悟の草刈道具持参でないと道路痕跡を確認できない。

プールの有る場所は、明治の時代に大潮の時は平らな干潟に成った場所で、関東大震災で1m程隆起し、埋め立てて現在に至ります。 これも歴史の一部なんですがね、、

視野の狭い科学的な研究発表しても、モット重大な要素を無視したら、それは非科学的な嘘になる。 事の起こりは明治の研究者大森金五郎が稲村ケ崎を渡渉し定説になり、稲村ケ崎には石碑迄作られ誰も疑問に思わなかった! でも、古典に書かれた事とは符合しないでしょ??

視野が狭ま過ぎて問題が有る専門家が多いのは残念で、過去の研究書を読み漁って確認もせずに妄信する、自分で考える事もせずにマスコミに拡散する事態に成っています。

この道路痕跡が示すのは、岩の高い場所を狭い砂浜に向かって降りる道で、強い干潮の時は干潟が沖に向かって100m程浮き上がり、古典の記載と矛盾しない場所です。

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稲村崎成干潟事のマトメ 2 干潮の時刻

2022年06月16日 | 稲村ヶ崎伝説

誰でも、、、、稲村ガ崎の突端に行けば、、、
「この海が干上がり鎌倉に歩いて行けた!」 それって本当???
 根底にその疑問が有るので実証しよう!! っと徒渉実験が行われた。

引き潮の時なら、、、軽装で腰ぐらいの処まで浸かり、稲村ヶ崎を回り込む事が出来る。
しかし、其処は洗濯板状態の侵食された岩場であり、次の一歩は胸までの深さになり慎重に足場を探りながら渡渉となります。
人は膝から上に水が来ると途端に行動が鈍り船から横矢の絶好な標的になる。
その上、甲冑(足軽、雑兵の胴巻きで10㎏ 刀1㎏)を着け転倒したら溺れます!
稲村ヶ崎の突端では、潮が引いても船が沖に避難する必要は無い。よって鎌倉軍は船から渡渉する新田軍を狙い横矢を射れる。
その様な観点から、、
稲村ガ崎の突端を徒渉した説は机上の理論であり、実戦には役に立たず 太平記や梅松論の記述とも合わない空論と言えます。(関東大震災以前は 現在より更に1m深かった!)
問題は
腰まで波に浸かりながら歩く干上がり方では無く、数万の兵士が由比ガ浜に向かい浮き上がった岩礁の上を歩ける干上がり方であったのです。【2010ぼ輔記 未掲載】

稲村崎成干潟事とは、普段海中の中の岩礁が潮が引いて海水面から浮き上がった状態を干潟と言います。『干潟』の意味を知らず、誤解したのが従来説です。干潟は由比ヶ浜より霊仙崎の前に向け 長さ1㎞(10町) 幅100mの干潟の出来る場所が在り、現在は市営プールの在る埋立地です。

攻込む場所を間違え、稲村ケ崎の突端と解釈した。これは稲村路の場所を調べなかった間違えです。

更に如何でも良い日時や時間迄、、、科学的な感違えに発展するのだが、何故に古来より月の満ち欠けで日にちが決まった太陰歴の情報を太陽暦に換算する必要が有るのか?? 専門家の視野の狭い詳細な研究は、より重大な要素を無視した誤りを犯した話です。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)の研究では、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

「太平記」 元弘三年五月二十一日 は西暦1333年7月3日
「梅松論」 元弘三年五月 十八日 は西暦1333年6月30日
   ドチラが正しいか?!どちらも正しい!! モノの見方や考え方で左右されます。

さて、潮が大きく満ち引きするのは大潮ですが、月と太陽の位置で決まります。
大きく潮が引いたなら、それは新月か満月の日(1~2日ズレる)です。
基本は旧暦の話で、月の満ち欠けで日は決まる。更に大潮の日も、、、
新月の時は1日で、、、、15日は満月です。(一五夜は毎月満月と決まっています。)
よって大潮は1日と15日(1日2日遅れる事が有り)です。
「梅松論」5月18日と 「太平記」5月21日は大潮には無関係です。

初めから、異常な引き潮であり、新田義貞が鎌倉へ入る前に大館次郎宗氏が由比ヶ浜へ少人数で侵入出来たが、幕府軍の反撃で討ち死にした。その知らせを受けた新田義貞は、化粧坂より稲村路侵攻に切り替えた、っと太平記の記述がある。
依って、新田義貞が黄金の太刀を海に投げ込む前から潮は引いており、戦いが終わるまで潮が引いていたと梅松論には記述が在る。

太陰暦を太陽暦に変換する必要の無い科学的研究の間違え古典の無理解による見落としです。

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稲村崎成干潟事のマトメ 1

2022年06月10日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村路」と言う記載が古典には有ります。
●海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
  ぼ助訳)高い岩の
(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)
●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」  (ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、
針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。依って稲村ケ崎=稲村路と解釈できる。

●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」
  (ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。

稲村路の特徴は、、、
「梅松論」より 石高く道細くして=石の高い場所を通っている。
「海道記」より 険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば=岩の高い場所を降りれば、波打ち際の道に成る。
上記の結果は、高い岩の上から浪打際に降り 其の後広い由比ヶ浜に出る道です。
「太平記」より、稲村路は波打ち際に降りる迄 逆茂木でバリケードを作って有った。

通説の稲村ケ崎の水際に稲村路の痕跡等無いのは、見れば理解できるでしょう。
更に、古典に書かれた「高い場所から降りる路」を作る場所も稲村ケ崎には無い訳であす。

如何でしょうか? 稲村路の痕跡が確認出来ますか?


赤紫のマークした場所です。
古典に書かれた状況と合致する場所に成ります。

下図の明治迅速図の青で①のラインは俗に言われた稲村ヶ崎の渡渉の場所。

上記赤い②の場所は、稲村路と想定するルートです。

埋め立て地は、関東大震災で1m浮き上がった岩礁の上であり、新田義貞が岩礁の上を攻め込んだ故事と矛盾しない場所に成ります。

次回は、この場所の公的な写真=国土交通省の空中写真と成ります。

詳細は、 カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

 

 

 

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稲村崎成干潟事 干潟の状態は、、、

2022年06月06日 | 稲村ヶ崎伝説

―――干潟の状態―――
●【太平記・稲村崎干潟事】
誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。
【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。
【渺渺】 広くはてしないさま。遠くはるかなさま
●【梅松論】「北条氏の滅亡」
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。
干潟=干潮の時・・土地が現れる 現象

古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。
更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、
坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が干潟と成り、明治時代にその干潟を写した写真も存在する。更に関東大震災で1m隆起し、埋め立て地にする計画が始まった。

その実態は、10町在り、崖下の稲村路から100m程沖まで干潟が出来たと考えれば「横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。」となり、、矢は200m程飛んでも、狙い撃ちは30m程ですから、効果は無かったと考えられます。
決して、古典の読解力が無い研究者が稲村ケ崎の脇の渡渉実験の様に水に漬かりながら歩いた訳では無く、霊仙崎1キロの波打ち際で幅100mが水面から浮き上がり、その上を由比ヶ浜に攻め込んだ と読みとれます。稲村路の場所が問題と成ります。
次は、稲村路の痕跡の話です。

詳細と写真は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

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稲村崎成干潟事 干潮の時刻は、1

2022年06月04日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9
異常潮位に就いては、上記に記した有ります。

その「稲村ヶ崎が干上がった!」干潮の時刻は??
その時刻を正確に科学的に解説した方が居ます。
その日時が干潮であろうと、満潮でも、、、如何でも良い事!!  机上の科学的と現実は違っていたのです。
何故なら、、、
『太平記』や『梅松論』に記された言葉は、潮位が異常に低くなった!
と書かれている。

新田義貞が黄金の太刀を海に投げ入れ無くても数日前から潮は引き大館が稲村路の逆木を避けながら浮かび上がった岩盤の上を少人数で由比ヶ浜に入れた!
それを新田義貞が知り、正攻法の化粧坂から一部の兵を搦手の稲村ケ崎に送り、自ら指揮をした!
更に 梅松論には合戦が終わるまで潮は引いたままであったと、書かれている。
依って
 異常潮位であり、通常の干潮の時刻を問題にすること自体が見当違い!
異常潮位はどの程度の割合で起きるのか?
それも記事にしてあり、結構頻繁に(年に一度や二度あり、詳細はグラフをご覧ください)有ります。違った立場の異なる『太平記』や『梅松論』の著者が、同じように異常な干潮を記載しているのを無視した。数少ない古文献の重大な記載を信用せずに、平常の潮汐観測資料 で語った間違えを犯している。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)が計算の結果、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

恐らく、古文献を見て無いのか?難しくて読み切れなかったのか?  古文を解釈出来ないママ史実を誤認した研究者のレポートに成りますが、余りにも初歩的な間違えです。渡渉(水の中を歩く)の必要も無く平らな岩礁が浮き上がりその上を由比ヶ浜まで歩けた訳です。

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『現』稲村ケ崎 新田伝説検証。

2022年05月20日 | 稲村ヶ崎伝説

明治の迅速図です。

ご覧の通り、稲村ケ崎が海に突き出た岩礁は記載されていません。

細かい処迄明治政府は調べる余裕が無かった事がウカガエます。

下図は現代の詳細な地図で、海際の桃色に示した場所は波蝕台で平場です。

この桃色の平場が鎌倉街道の痕跡の様に誤解した人が居り、挙句は胸まで漬かりながら渡渉を試みたのが明治の話で、渡れたので「新田伝説は単なる伝説では無い!現稲村ケ崎の脇を渡渉したのだ!!」っと言う古文献を無視した誤解が生まれた! 更に碑迄作られて今日に至ります。

上図の桃色の平場は、人工的な平場ではなく、波蝕台で波浪が岩を削った2m幅の平場で数か所で途切れており道の痕跡では無い。これ等の水面上に出た平場を断ち切る海蝕洞が在り、は数千年を要する侵食ですから、千年後程度の変化は微小です。水面上にでた桃色の平場は道としての資格は無く、古典に書かれた一般的老若男女が通行できる稲村路では無い根拠です。
稲村路は別な処に存在します。

さて、下の稲村ケ崎の航空写真ですが、
海底の岩場には、進行方向を邪魔する溝が多数有り、安易に渡渉するのは困難です。
新田軍が渡渉する時、鎧、武器を持ち胸まで漬かって歩き、溝に足を取られれば、胸の深さでも溺れます! 更に鎌倉軍は船を出し、横弓を仕掛ける準備をしていた。
結果は、新田軍の渡渉はこの場所からは無理と言う訳です。

下の写真は稲村ヶ崎の東側で、詳細な地図に示された桃色の平場は 水際の白い岩場であり、海蝕洞に断ち切られている。稲村路と呼ばれる街道の痕跡では無い根拠です。

下の写真は崖の崩れ状態から関東大震災前の大潮で浮き上がった岩礁で、今の埋め立て地です。波さえなければ問題なく胸まで海に浸かる事なく岩盤の上を通り 鎌倉市内に攻め込めるわけです。

更に、下の写真は同じ場所の明治時代の潮干狩り風景です。岩場が比較的平坦な岩場で在る事に注目してください。 これならば、鎌倉市内に向け新田軍は多人数でこの岩床上を通り攻め込める。

以上が、写真によるマトメです。 

腰まで潮に漬かり、水中を渡渉した訳では無く、この場所を由比ヶ浜に向けて攻撃した訳です。 間違えは、古典に書かれた稲村路を調べずに 憶測で稲村ケ崎の水際と決めつけた事です。

詳細は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

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稲村伝説!【稲村崎成干潟事】

2022年05月13日 | 稲村ヶ崎伝説

2022/5/9 前後のテレビで「鎌倉殿の13人」絡みの解説が在り、稲村ケ崎を新田義貞が渡渉した話を肯定した解説をしたと知人から聞きました、、、
歴史的根拠の「太平記」「梅松論」や「吾妻鑑」に記述された事を理解出来なかった様です。
記述の真偽が問題なら地形や遺構を調べれば間違いが証明できる話です。
私の反論は、既に書き散らかしたが、、、
カテゴリーに「稲村伝説」を作り、マトメテ読み易いようにしました。

◆稲村ガ崎の古道を検証 上巻(2014年11月19日 | 切通し
 〇記2006/11/02  稲村ガ崎の古道を検証1〜5
◆稲村ガ崎の古道を検証 下巻(2014/11/18)
 〇記2006/12/04 稲村ガ崎の古道を検証7〜10
◆稲村崎成干潟事 上巻(2014年11月28)
 〇2010/07/01記 稲村崎成干潟事 序〜5
◆稲村崎成干潟事 中巻(2014年11月28)
 〇2010/07/18記 稲村崎成干潟事6〜10
◆稲村崎成干潟事 下巻(2014年11月28)
 〇2010/09/28記 稲村崎成干潟事 11〜15
◆稲村ガ崎の戦い 上巻(2015年07月13)
◆稲村ガ崎の戦い 中巻(2015年07月13)
◆稲村ガ崎の戦い 下巻(2015年07月13)

  以上が新設カテゴリーの内容です。

当方は、此の番組の内容は知りません!  ご質問等はコメント欄へお願いします。

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稲村崎成干潟事 現在でも同じ現象が起きる!!

2017年12月15日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村崎成干潟事」の新田義貞が攻め込んだ時に起きた、、、
潮が引き陸地が現れた現象です。

 似た様な現象に旧約聖書の『出エジプト記』に
 海が割れて海底を対岸に渡る話が有るが、
 「稲村崎成干潟事」は 検証不能な話ではありません。 
その現象が現れた場所は、現在の鎌倉の市営プールやホテルが有る埋め立て地となります。
同じ現象が逗子の浪子不動前の海で起きます!!

この写真は、逗子の浪子不動前の海です。
海中に見えるのは不如帰の碑です。
この場所と稲村ヶ崎から長谷の坂ノ下迄の状態は良く似ています。


そして、干潮になると、、、
ご覧の様な平らな岩場に成ります。
これならば、新田義貞の軍勢は、この波蝕棚上を鎌倉市内に攻め込めた訳で、単なる伝説では無い。

江ノ島の波蝕棚と共通の、稲村路前(現鎌倉市営プール)、浪子不動前(不如帰碑)は6000年前から始まったと考えられる波蝕棚です。

明治の学者が、太平記や梅松論等の古典を解釈出来ず、、、
その為、
稲村路の存在場所を知らないママ、強引に現在の稲村ヶ崎の脇を渡渉した。
間違いは、現在の「稲村ヶ崎」を渡渉したのではなく、市営プール脇「稲村路」から潮が引いた波蝕棚上を通り攻め込んだ訳です。
その明治の学者の記念碑が、、、今、稲村ヶ崎に在る 新田義貞古戦場の碑です。
立派な碑が在れば、、、一般人は無条件に信じます。 これが一般常識です。
学者の功名に焦る研究がそんな行動をさせたのかも、、、

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続 稲村崎成干潟事 現在でも同じ、、

2017年12月13日 | 稲村ヶ崎伝説

            2017-12-19 15:27:56

これは、関東大震災前の写真です。場所は由比ヶ浜の稲瀬川辺りで撮影し、仏法寺の有る霊仙山を写し出している。


これは、関東大震災後で岩壁が崩れた状態です。
注目点は岩壁が崩れた岸の状態です 満潮で上げ潮!ですので水面が上がっている。


関東大震災後で岸の状態が見どころです。
干潮で水面が下がり、岸の在るべき処に浮かび上がった岩礁が写っています。
新田義貞が鎌倉攻めで黄金の太刀を海に投げたら浮かび上がった岩礁です!!
この岩礁の上を新田軍は鎌倉に攻め込んだ!
鎌倉軍は船上から新田軍を横矢で攻める戦法でしたが、岩礁の為に船を沖に出したので遠くなり、新田軍を有効に矢を当てられなかった。


更に、埋め立て途中の山の切り崩している状態です。


現在の状況で埋め立て地には色々建築物が在ります。


問題意識を持って探せば、、上記の様な証拠は出てくるものです。
現代の鎌倉研究本は根底に、
鎌倉を本気で調べる気持ちが無い。
古文献を理解せず、現地遺構も調べずに書かれた近世の研究本を机上で調べて、
新しい鎌倉紹介の本ををマトメタ研究者が大半です。

研究なら、机上論だけでなく、自前で調査した資料も使って語って欲しいモノです。

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稲村ガ崎の戦い 上巻

2015年07月13日 | 稲村ヶ崎伝説

旧記事を読みやすくするため 上、中、下巻に編集しました。
■ 記 2011年01月04日  稲村ガ崎の戦い 1 

写真は、逗子マリーナから見た稲村ヶ崎です。
「稲村崎成干潟事4」を詳細に再考しようと思います。
写真の中ほどの山の中腹にある白く見える建物群と其処から斜めに坂ノ下(右下に下りる道)に降りる白い道がこれからのテーマです。
白く見える訳は、ガードレールの白です。
「稲村崎成干潟事4」の黄色の点線の道は、由比ガ浜から見るとこの様に白く見えるのです。
私も、稲村ヶ崎の道を思うと、真っ先にこの道を思い浮かべます。
明治の地図にこの道が載っている。
現在も道幅を広げられて状態で現存しているが、、、しかし
調べると、大正の関東大震災で、明治に在った道は崩れて消失していた。
「稲村崎成干潟事3」の写真は、その崩壊の状態が写っているので証明できます。
今有る道は、古来より有る道とは違うのです。。


■ 記 2011年01月11日 稲村ガ崎の戦い 2


稲村路を考える時に、
単に「稲村路らしき物が見つかった!」というだけでなく、
稲村路と、仏法寺、霊仙山、霊仙ヶ崎及び、ガードレールの道の関係を総合的に考える必要が有る。

ガードレールの白い道現代の道ですが、、明治の時代にこの場所に道があったと考えられ震災で破壊された。
そうであるならば、、この道の存在理由は何か???
ガードレールの白い道と「ぼ輔説の稲村路」を対比してみましょう。

◆稲村路について、文献を調べると、、、、
> 『太平記巻第十』
>  ・・・南は稲村崎にて、沙頭路(砂浜の道)狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て・・・
> 『海道記』
>  ・・・稲村といふ所あり。さかしき(危険な)岩のかさなり臥せる浜を
>   つたひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪の花の如くにちりかかる。・・・
> 『梅松論』
>  ・・・稲村崎の波打ち際。石高く道細くして軍勢の通路難儀の所・・・


上記をまとめると、稲村路は
 波打ち際を通る。
 砂浜の道は狭い。 波が有ると岩に当たり飛沫を被る。

それだけでなく、
 石高く(岩の高い場所)を通り道細く、危険で伝い歩きをする必要が有る道である。
  この結論を、道に当てはめましょう。

「稲村ガ崎の古道を検証 10」2006-12-14には、ガードレールの道(赤いライン)と「ぼ輔説の稲村路(紫の点線)」が記されています。(明治15年の地図)
一、ガードレールの道(赤いライン)は、
砂浜の狭く波の飛沫を被る様な場所は通らない!
 よってガードレールの白い道は、稲村路では無いと言えます。

二、現在の稲村ヶ崎の波打ち際に道が在ったと主張する方も居られますが、
それでは、岩の高い所は通りませんから、、これも却下される話です。

明治時代に学者が稲村ヶ崎脇を渡渉し由比ヶ浜迄歩けたので、此処を新田義貞が歩いたと定説になり、石碑も立っているのだが、、、
『太平記巻第十』『海道記』『梅松論』等の文献には、全く不一致な場所である事がご理解頂けると思います。
基本的には、稲村路は街道ですから、老若男女の一般人が通る道です。海の中を浸かって歩くのは「稲村路」では無い。
明治の稲村が崎の渡渉は、文献を理解する事無く行われた実験と言えるでしょう。
研究姿勢として、問題が有り過ぎです。

今回は「ぼ輔説の稲村路」の正当性についてでした。

次回は、ガードレールが白い道の存在理由は何か???です。



■ 記 2011年01月15日 稲村ガ崎の戦い 3


「稲村崎成干潟事3」の震災の岩壁崩壊ですが、、、
写してある場所は、、仏法寺の下の崖まで写って無かったのかも、、、
取り敢えず、、仏法寺の下の崖は無事であった想定でこの記事は書くわけです。

この写真に妙なモノが写っているのです。
霊の、、いや例の稲村路の話では、即その痕跡まで近づけて確認が取れたのですが、、、
この道はガードが固く近づくには覚悟が必要です。
私一人なら如何様にでもなるのですが、何時も同伴者がいて、足が悪いとキタモンデ、、
確認できるのは、、いつの事やら、、、、
これが、仏法寺の参詣道ならば、大門の場所が推定できたりなんて夢でしょうか?
江ノ電極楽寺から攻めるか、海側から攻めるか?はたまた成就寺から責めるか??
崖崩れが大きな場所です。事故対策が必要でしょうね。
仏法寺に辿り着く為のルート等もお願いします。

仏法寺跡 (酔石亭主)
2011-01-15 19:43:35
仏法寺跡へは極楽寺駅で降りて、目の前の墓地に上がり、墓地の
右手端から尾根に登る山道があります。
登り詰めると五合枡遺跡の前に出るので、右手に行けば仏法寺跡です。
下に降りられそうな道もありました。
なお鎌倉記憶帖によれば、以前は成就院墓地から霊山中腹、金山経由
稲村ケ崎に出る道が通行可能だったそうです。
当時の古老の話で80年程度前でしょうか。


■ 記 2011年01月18日 稲村ガ崎の戦い 4

下の写真の解説
  :上は解説用で左端赤マークは道路の切通。次の黄色い色は
   「太平記」その他の古文献に書かれた稲村路。
   次の赤マークは埋め立てに削り取られた山。
   一番右は仏法寺の平地と参詣の道路。
   青に赤の印の下に小さく三角に見えるのは、極楽寺坂と陣鐘の峰。
   (鎌倉の防衛ラインの外から唯一鎌倉内を覗ける場所です。)
   中は明治の写真
   下は2015年夏

大仏切通しより稲村ヶ崎先端の範囲で鎌倉に入る道を考える時に、、

先ず古い道として、
① 稲村路を考えるのです。
  七里ガ浜より針磨橋に行き、方向を南に向け岸壁に出る道です。
② 次に、極楽寺の参詣道路に組み込まれた極楽寺の切通し。
③ 極楽寺の末寺として海の際を通る仏法寺の参詣道路
④ その他にもう一本の道として。
  それは、鎌倉城の城壁の上に造られた兵を送り込む為の道です。
  (通常の道とは違い、屈強な兵隊が通る細く険しい道です。)
仏法寺の霊仙山周囲にこの四本の道が考えられる。

> コメント  (酔石亭主)
> 仏法寺跡へは極楽寺駅で降りて、目の前の墓地に上がり、墓地の右手端から
> 尾根に登る山道があります。
この辺りから登る計画を考えたいですね。
当面日程は組めませんので、行かれた方が居られたら、状況を教えていただければ幸いです。

> なお鎌倉記憶帖によれば、以前は成就院墓地から霊山中腹、金山経由稲村ケ崎に
> 出る道が通行可能だったそうです。
> 当時の古老の話で80年程度前でしょうか。

この鎌倉雑記帖の詳細を知りたくて調べると、

HP[北道倶楽部」より拝借の記事<http://www.ktmchi.com/rekisi/nkc_000.html>
>  鎌倉七口切通し 稲村路より、
> 「鎌倉記憶帖」(S61)によると古老の話でしょうか、成就院墓地から霊山中腹を
> 経て、金山、稲村方面に至る道が通行可能で極楽寺坂を登るより楽だったとか。

問題にしたいのは「極楽寺坂を登るより楽だった」と言う記載です。
明治の時代まで、極楽寺坂はとても困難な道であった!
小袋坂も亀ヶ谷も化粧坂も困難で、まともな道は大仏切通しだけであった。
何故?
新田義貞の攻撃を防ぐ為に、道路を封鎖したバリケードが残存したと「ぼ輔」は想像します。
どの様なバリケードか?は朝比奈と大仏切通しに残存する痕跡をこのブログに記し、現在も残っています。
極楽寺坂の迂回路として、鎌倉終焉以後この道が造られたと考えられますね。
⑤ 成就院より仏法寺まで中腹の道が在り、大震災で崩れ去った事が考えられます。
  極楽寺坂も大震災崖崩れで、通過中の曲馬団(サーカス)が遭難。

これらの道が交錯し、古代東海道跡と連想されたり、稲村路が確定されていない為の
「新田義貞は稲村ヶ崎の外海を徒渉した!」という混乱になっていると思います。

写真は、明治(白黒)と現在の写真の稲村ヶ崎の比較です。
図書館の本から鮮明な基画像を、、、、などと思うのですが、、、
「鎌倉記憶帖」木村彦三郎著<http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/Kimura.html>
鎌倉の図書館も行きたいのですがとても行きにくい場所です!


■ 記 2011年01月28日 稲村ガ崎の戦い 5


鎌倉の地図ですが、、、

① 古い道として稲村路(赤マーク)を考えるのです。
  七里ガ浜より針磨橋に行き、方向を南に向け岸壁に出る道です。
② 次に、極楽寺の参詣道路に組み込まれた極楽寺坂(緑マーク)の道。
③ 極楽寺の末寺として海の際を通る仏法寺の参詣道路(桃色の実線と破線)
④ その他にもう一本の道として。
  それは、鎌倉城の城壁の上に造られた峰を守る場所であり、兵を送り込む為の
  道(青マーク)です。
  通常の道とは違い、戦闘の攻撃拠点で峰の一番高い所を通ります。
  下から登ってくる敵!それは、みうごきも自由にならない敵で上から弓で狙い
  撃ちが出来るのです。
鎌倉の砦構造は、皆峰の上はこの様な構造で、所々に平場が在ります。

仏法寺の霊仙山周囲にこの四本の古い道と大正時代に作られた平場と其処へ向かう白いガードレールが特徴の現代の道(黄マーク)が在る。

今回「ぼ輔」が仏法寺に向けて歩いたのは、極楽寺駅から青マークの峯筋を登った。
赤い矢印を書き込んだ道です。
基本的に安全で一番楽で迷いにくい道です。
他の峰は、ふみ跡こそ在りますが、一般道に出る時に住民の庭を通らなければ一般道に出れないとか、崩れやすい崖を横断する目に会います。
来た道を折り返すのが無難です。(経験者の告白)

今回は、仏法寺の東断崖に在ると考えた、坂ノ下から寺への参詣道を確認する為の現地行きです。
寺への参詣道には、寺の門が在って当然で、稲村路を攻め進む新田軍を弓矢で苦しめたと言う文献に残る場所です。
その門の場所を確定するのは無理でも、、、
その参詣道の存在を確認する事に意味を感じるのです。



■ 記 2011年01月30日 稲村ガ崎の戦い 6

先ずは、「江ノ電極楽寺駅」へ行ってください。
駅を降りたら、其処は緩い坂で、、、正面は目的「霊仙山」のフモトです。
この山に登るには、、何処から登ったらよいのか?
民家の間には、隙間が無くて山に入り込めないのです。

坂を50mほど登ってください。
左は自転車置き場で右を注意すると写真の登り階段があります。

階段を登ると其処は墓地です。
道路から見ても墓地の雰囲気は判ります。
墓地の脇を谷側(江ノ電が見える右側)の端を歩くと山の入り口の写真の状態です。
基本的には霊仙への道は、この場所だけです。

この墓地の人は、通り道を親切にコンクリート舗装をしてくれたのです。
其処を登ると、、、
これでも道なんです。

ハイク道ではなく、山道で踏み跡が頼りです。
基に在るのは、寄せてくる敵が登れない様な急な崖です。決して自然な崖ではなく、、
人工的に故意に造った傾斜の崖で、守備の人間としては、転げ落ちた敵兵は大怪我をして再起不能になって欲しいと願って造った砦の崖です。
そこらの山のハイキングと一緒にしないで欲しいと考えています。
峰の山道を高みを目指して歩き続けると、北里柴三郎と細菌学者コッホの碑があります。

本物は誰でも行ける稲村ヶ崎の公園に移したのです。
これは、、レプリカの様ですね、、、
これが、霊仙山の頂上です。
ここから、100m程行けば仏法寺が下に見えてきます。
意識的に冬枯れの時期を選んで行きました。

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稲村ガ崎の戦い 中巻

2015年07月13日 | 稲村ヶ崎伝説
■ 記 2011年01月31日 稲村ガ崎の戦い 7
 
霊山(りょうぜん)霊仙山
 
「梅松論」では、
> 五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前
> 浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あ
> はてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。
> 高時の家人諏訪・長崎以下の輩命を捨て防ぎ戦ける程に、当日の浜の手
> の大将大館(=宗氏)稲瀬川において討取らる。その手引退て霊山の頂
 > に陳を取る。
 
さて、これが問題です。
「その手引退て霊山の頂に陣を取」をどの様に解釈するか?
・・・・・・霊仙山、つまり仏法寺遺構の頂きに大館宗氏の軍勢は陣を構えた。・・・・・・
  この事が可能か??
状況を考えると、大将大館を討ち取られ敗走し、最後は稲村ヶ崎駅近くの十一人塚に埋葬された軍が 、霊仙山の仏法寺に陣を構えた鎌倉軍を追い払い占拠できるのか?? 
砦を構えた軍を破るには、その数倍の兵力を必要と考えるからそれは、無理な話です。
「仏法寺の頂きに大館軍勢は陣を構えた」と解釈したら、敗走する大館軍が仏法寺の鎌倉軍を攻めて壊滅させた、、、など無理な話と私は考えるのです。
 
『有鄰』平成15年9月10日  第430号  P3
> ・・・・・・・前略・・・・・
> その後19日、20日、21日とすさまじい攻防戦があったことが、軍忠状の
> 中でも明らかにされております。5月21日に鎌倉方が霊山寺(仏法寺)の
> 大門に引きこもり、新田軍に散々矢を射たので、なかなか破ることはで
> きなかったけれど、三木俊連が自ら峯を駆けおりて、多分奇襲戦法でも
> したのか、それで大門を打ち破って、さらに霊山寺の峯を攻め登る。
> そういう中で夜中まで戦いが続いたと書かれています。
 > ・・・・・・・後略・・・・・

ぼ輔は、軍忠状を妄信するのですが、鎌倉方が霊山寺の大門にて陣を張った状況が伝わります。
仏法寺(霊山寺)に大門が存在し、その場所は「稲村路を攻撃できる場所である。」
事が判ります。
 
三木俊連が峯を駆けおり大門を打ち破った、さらに仏法寺の峯を攻め登った。
と有ります。これから考えられる事は、
①大門は、仏法寺より低い場所に在り、弓矢で下を通る人を狙い撃ちできた。
②三木俊連は、仏法寺の峯とは別の高み(峰)から駆け下りて大門を攻撃し落とした。
③その後仏法寺に攻め登り、霊山(霊仙)の頂きに向かう。
④大門や仏法寺は、数万の新田軍を迎え撃つべく、準備された陣地であり、極楽寺
坂を通る新田軍を挟み撃ちにする為の重要拠点と考えられる。
 この様に強固な守備の鎌倉軍に対し、、大将大館宗氏を討ち取られ敗走する兵に
 仏法寺の幕府陣地を破り居座る力は無いと断言できますね。
 
◆酔石亭主「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その3」「その4」
にそのヒントがあります。
それは、霊仙山を、仏法寺の在る峯と霊仙ヶ崎の在る峯に分けて考えるべきである。
それは、両方ともに霊仙山。
そう主張されているのです。
そう考えると、見えて来るものがあります。
 
鎌倉勢が重視したのは、仏法寺とその大門が有る霊仙山2であった。
大館宗氏が稲瀬川で討ち取られ退却しながら陣を構えたのは霊仙ヶ崎の頂であり、
三木俊連が大門を攻撃したのは、この霊仙ヶ崎頂上から駆け下りた!
この霊仙ヶ崎の頂は霊仙山1と考えるのです。
 
仏法寺の大門が有った場所は、③にしたい所ですが、、
所詮、、古来の歴史のある道とは違う現代の道です。③にある平場は近世に造られた場所と想像しています。
 
では、大門のあった場所は??
霊仙山の東の海に面した斜面で、下には稲村路がある場所。
仏法寺を参詣する道即稲村路を上から攻撃できる平場と考えるのです。
実線のピンクラインは、ぼ輔が実際に歩いた場所で、大門の在った場所はピンクの点線であろうと考えています。
理由は、実線部分では、下の波打ち際までは距離があり、弓矢で狙い撃ちが出来ない事にあります。
その様な訳で、ガードレールの道に沿って参道が在り、その延長の何処かに山門が在ったと考えています。
 
コメント
 
和泉和田荘の三木一党。 (三品)
2011-02-05 13:23:19
少し面白い参考文献を見つけました。
奥富敬之、奥富雅子著、「一度は歩きたい 鎌倉史跡散歩」、
人物往来社、2010年9月のP278からの第五章に、
以下が書かれています。
 1 霊山を守った北条方は、甲州・信濃の山国育ちの兵である。
 2 稲村路沖を守ったのは、伊豆・駿河の兵を載せた軍船である。
 (P285-286)
ということは、大仏貞直が引いた兵は、鎌倉育ちではないのです。
 
 3 軍忠状が残る「和田系図裏書」の「和田系図」は、金剛領
 和泉和田荘(堺市和田)の惣下司職の和田氏の系図である。
 4 新田方で、霊山攻略に参加した、三木俊連一党は、和泉和
 田荘から援軍に駆け付けた。
5 そこには、大塔宮護良親王の采配が働いていた。
  (P313-316)
ということは、霊山を攻略したのは、赤坂・千早城で旗揚げし
た楠正成との関係が深い
 一党が、鎌倉攻めに参加していたことを意味しています。
 つまり、鎌倉を舞台にして、鎌倉育ちではない軍兵が戦っていたことになります。
 
なお、軍忠状の現代語訳も載っています。(P314)
 
Unknown (三品)
2011-02-05 13:34:32
    以下がその軍忠状です。
五月二一日(元弘三)、敵霊山寺の大門に引
き籠り、大手(稲村崎)の軍勢を散々に射る
の間、打ち入り難きの処、俊連峰より折(降)
下って先懸し、まず敵の籠る大門を打破し、
数輩疵を被るといえども、身命を捨てて戦う
の間、朝敵を追落しおわんぬ。
また、俊連霊山寺の峰に責(攻)め上り、夜
闇に及びて戦うの処、また若党奥富兵衛三郎俊家
(右肩の上を射らる)、疵を被る。
 
三木一党 (ぼ輔)
2011-02-14 21:26:03
守る兵士の出処まで判っているのですか!
それと、三木一党の活躍の状況など、、、
太平記や、梅松論には出てコナイ話ですね。
取りあえずは、ぼ輔の解釈の切り口ですが、
これ等の事を踏まえて別な解釈は出来ないものでしょうか?
 
Unknown (三品)
2011-02-15 23:16:19
>これ等の事を踏まえて別な解釈は出来ないものでしょうか?
 
 想像はできるのですが、それでは、創作の世界になってしまいます。
 もう一つ見落とせないことは、新田義貞が鎌倉を攻めたのは、
 足利高氏が六波羅探題を攻め落としてから、半月以上たってい
 ることです。近畿の三木一党が鎌倉攻めに参加したということ
 は、西方から鎌倉までの街道を、後醍醐天皇側がおさえている
 ことを意味します。
 
後醍醐天皇の意志 (ぼ輔)
2011-02-17 10:19:33
六波羅探題を攻め落す以前は、鎌倉側の力が強く、街道筋を
反幕府の兵員を動かせなかった状況だと、言う事ですね!
後醍醐天皇の意志と足利高氏の行動、都の変化と勅命を受けた
新田義貞の動きが連動した状態を調べる事が出来ました。
文献は必要最低限の知識に留め、現実の遺構を見る事から疑問
を感じ調べる手法を取っているので、意外と歴史に弱い!!
この様な書き込みが無いと、、、文献調べは後回しになります。
ありがとうございます。
 
■ 記 2011年02月07日 稲村ガ崎の戦い 8
 
踏み跡は不鮮明! コースの行き先表示は一切無い。間違えれば降りるに困難な崖!
夏は緑が生い茂り、周囲がサエギラレル状態が想像できます。
木にはポリテープが散見し、これを信用するのは不可。霊仙山不案内の人が帰り道の為の目印。
歩ける場所は、峰の最上部ノミで例外は仏法寺の参道に当たる場所です。行動は総て自己責任の山道です。
 
北里柴三郎と細菌学者コッホの碑がある霊仙山の頂上から100m先の峰の上から海側を見ると下に平地が在ります。これが仏法寺遺構です。
仏法寺遺構に降り立ち、海側の崖を覗くと、、寺の参道の在ったと考える跡があります。
急激な崖ではなく、歩いて降りられる坂です。
写真の赤い矢印へ降りて行くのです。
幕府終焉後、バリケードで通行不能の極楽寺坂を迂回する為にこの参道の一部が使われたと想像しますが、、、
それも成就院と仏法寺間の関東大震災で崩壊の為か、、この道の痕跡は確認できない。
 
① 白いガードレールの道に下り稲村ヶ崎へ向かう道が戦後の写真に残っています。
現在は、白いガードレール道は崩落防止ネットが造られ、ネットに阻まれ通行不可能です。
 
② 石碑「東洋平和発祥之地 頭山満」亡命した中国革命の孫文が、この地の義烈荘に滞在した記念碑。その脇を登れたのですが、、現在は登り口が私有地となり通行不可です。
私有地の前に「新田公遺蹟陣鐘山之碑」※注 と李烈鈞の「黒光庵」碑がある。この碑の直上に「東洋平和発祥之地」の碑が有り、更に高みを目指して登ると霊仙山だが登り口は無い。
 
③ 成就院の墓地奥から登れる話があります、、、「仏法寺に行きませんか?1」の登り口を指すのでしょうか?っとすれば極楽寺駅前ですね。ぼ輔の知る登り口はこれ一つだけです。
通常のハイキングコースに比べると「本当に道か?」と 言う踏み跡程度で峰筋が頼りの道です。
逆を言えば、峰筋以外は崖です。例外として、仏法寺の参道に当たる場所が歩けますが、落石防止ネットで通行不可! 引返す事を覚悟してください。
山頂周辺は鹿島建設がナショナルトラストに寄贈という未確認情報です。
その様な訳で、以前は幾つかの出入り口が有ったようですが、現在安心して歩けるのは極楽寺駅より入る道だけの様です。
 
※注 「新田公遺蹟陣鐘山之碑」が此処に有るのは不自然です、、、
    昔の検証が半端な雑学で書かれたモノか?ハタマタ陣鐘の峰から移設されたか??と解釈しています、これが又誤解の種と成るんでしょうね! (義烈荘跡地です。)
 
コメント
 
Unknown (三品)
2011-02-12 00:11:32
道を教わったので、今度、行ってみます。
 
霊仙山登り口。 (ぼ輔)
2011-02-14 21:44:53
義烈荘跡地の「新田公遺蹟陣鐘山之碑」が有る場所から、霊仙山に登れたレポートが2011年に出ていますが、私有地の塀が出来上がり、通れなくなっています。
現在は、極楽寺駅前の墓地より入るつルートが一つ在るだけです。
他にご存知の方が居られならば、是非レポートを頂きたく、お願いします。
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稲村ガ崎の戦い 下巻

2015年07月13日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2011年02月15日 稲村ガ崎の戦い 9


霊仙山に登って、何を感じたか?  人それぞれですが、、、
「鎌倉には城など無い」等の根拠に問題の在る珍説もあります。
鎌倉城の戦う構造が見れる場所がこの霊仙山です。
決して、自然の地形ではなく、細部まで手を入れた防御の構造です。戦国時代の山城の基になった防御技術の原点が、、、この場所に在ると考えるのです。
峰以外は人が移動できない様に、崖の傾斜を工作してある事で、理解できるでしょう。
自然地形の崖は、傾斜が緩急色々で登れる場所は多々あります。此処は砦で手を入れた場所ですから、、登れる場所は限られる。
峰筋は馬の背状態で、人が一人通れる幅です。
人が行動できる場所は、尾根だけで、崖は両手足を使ってヨジ登るしかない。
攻める兵は両手を使えず攻撃する事が出来ない。尾根の守備は、攻撃できない敵兵を上から狙い撃ちでできる。
稲村路を通る新田軍を 上の仏法寺大門から矢を射掛けた鎌倉軍ですが、更に上の峰から三木俊連(新田軍)が奇襲した! それ程、当時の戦法は上位を取る事が重要なのです。
その様な戦う城の城壁としての構造を見れる場所です。

##########################################
太平記に依ると、
鎌倉軍は、三手に分て新田軍と対峙する。
粧坂は金沢越後左近太夫将監を差副て、三万余騎で堅めたり。
極楽寺切通は大仏陸奥守貞直を大将として、五万余騎、堅めたり。
##########################################
これが、鎌倉城の守りです。※注

攻守の兵数が実数より多過ぎな太平記ですが、兵の割振りから化粧坂より極楽寺切通の守備を重要視したと考えられる。
其の中でも、、霊仙山は、マトモニ七里ガ浜から寄せる敵兵の表面に晒される場所で、守りの最重要拠点と考えられます。
その場所が良い状態で残っているのです。

※注
其の他に、鎌倉城外で決着をするべく、城の掘割にに相当する柏尾川で新田軍と向かい合ったのが、赤橋前相摸守盛時を大将とした六万余騎の鎌倉軍です。

文献に残る仏法寺大門の場所を推定できる参道の確認です。
門の場所を確定するには掘り出す必要があり、アマチュアの範囲を越えますが、、、
推定ならば、仏法寺参道に大門はあり、、、其処から弓矢で狙い撃ちを出来る高さの場所と推測できますね!

赤い矢印を降りるとこの様な道らしき踏み跡があり楽に降りて行けます。

コメント

Unknown (三品)
2011-02-17 22:28:58
 ”大門”って、どのような門なのでしょうか?
建長寺や光明寺にあるような大きな山門だとすると、平坦な場所で
ないと建てられませんが...

仏法寺の大門 (ぼ輔)
2011-02-23 20:54:58
建長寺の門を見た時に、上に登る階段を取り外せる構造になって居
たのを思い出しました。
この構造は何故?っと疑問に思っていたのですが、、
武士が二階に立て篭もり下を攻撃するには良いですね!
実用的か否かは別ですが、、、、
仏法寺の場合はこの様な門と言うより木戸に近い門でしょうが、そ
れにしても道幅より広い事が要求されると考えます。
岩崩れでこの道は埋まっても、掘り出せる可能性は有るのですが、
ガードレールの道に破壊された事も考えられる訳です。
この様な破壊が無い前提なら、通常の道より広い場所を見つけ出せ
ば良いと考えるのです。

■ 記 2011年02月28日 稲村ガ崎の戦い 10

仏法寺下の崖は、他の周囲にある崖とは別で緩やかです。道を造れる余裕の在る傾斜をしています。
とは言え、波打ち際から登るのは不可で、坂ノ下へ向かい現在のガードレールの在る道に沿って在ったと考えています。

数~十年前まで使われていた踏跡が山道状態で在ります。
数百年の放置された道と震災のがけ崩れを考慮すれば、この程度の荒れ方は納得できる。
保安林の棒が立っているのは、此処が道として使われた証拠ですね!
その棒の先は、埋立地に建つホテルの上に出ます。↓

埋立地の間には、白いガードレールの道と、落石防止のネット!!
これが邪魔して、、、この場所から登る道は消えた!!
防止のネット設置以前は、このまま稲村方面へ向かう道が在った様です。

参道はこの場所からスイッチバックして坂ノ下方面へ下る訳ですが、、、、
この辺りが微妙に門を作れる様な広さの在る場所でもあり、、、
もっと坂ノ下寄りかましれません。
稲村ガ崎方面を見ると、下の写真です。



一番海側にはR134の道路があり、鎌倉市民プールがある。この埋め立てた場所は浅く平らな岩礁で、、、、
岩礁の上を歩いて新田軍は鎌倉に侵入したわけです。
 この崖は仏法寺の参道を作るに適切な場所ですが、他に参道を造るの場所が無い事も確認できました。
仏法寺へ、鎌倉の民が坂ノ下から参詣した道がこの場所に存在した考えられるのです。
この参詣道の何処かに大門跡が埋まっている可能性を期待するのです。

自動車でこの場所にこられる方は、駐車場の困難があります。
鎌倉駅周囲は観光地値段ですが、由比ガ浜駅の脇に一日900円の駐車場があり、江ノ電にて稲村ヶ崎へ!帰りは、鎌倉駅まで行き、食事買い物等をして由比ガ浜駅へ戻りました。

霊仙山は戦う砦構造と言うより、、人を通さない城壁構造で有ったと考えるのです。
ですから、歩いて目に見えるのは、単なるナダラカな尾根道です。
しかし、その尾根を外れたら崖の下までずり落ちる!
戦う構造としては、極楽寺の切通しに在ったと推測します。
戦う為の切通しと、壁として立ちハダカル霊仙山、そして、、稲村路!!
新田軍は、これ等の中から一番弱点の稲村路を攻めたのです。

 霊仙山の城壁ですが、、、これだけでも地方の山城の規模を持つ大きさです。
この規模の砦が十も二十も集まり出来上がっているのが鎌倉城なのです。
全国の武士が寄って集って作り上げたのが鎌倉城であるなら、、、
 鎌倉には城が無いとした説には、
「それ以前には城の概念が無かった!だから、、鎌倉時代にも無かった!!!」
そんな説でしたが、、、それが本当ならば!
本格的な築城技術は「此処より始まり、地方に持ち帰った」としても問題ないでしょう。
「戦い守る」城の概念の無い平安京を攻め滅ぼしたのは、源氏の一族です。
天下を取り、自分達が守る番に成り考えたのでしょう!平安京の平家の二の舞はしたくない!
それが、強固な鎌倉城を造る基に有った考えと、、、ぼ輔は想像するのです。

では、、戦う為の砦構造は???
戦いの初期に新田軍主力は、化粧坂に向け攻撃しましたが、、、
どうにも落とせない!!

化粧坂には、戦う場所としての構造があり、新田軍の攻撃に耐えた訳です。
平場を多数設けて雛壇状に作られた戦う構造が在るのです。
特に、化粧坂に向かい攻め上がると、戦う構造の場所が多々在ったのです。
化粧坂は、既に防衛ラインを越えた内側ですから、、、防衛構造の在ったのは、柏尾川と化粧坂の中間地点です。
それは、別の機会に!!!

コメント

仏法寺 (酔石亭主)
2011-03-01 18:50:11
仏法寺から海側に下る道は参道ではないと思います。
極楽寺は前浜の漁業権、和賀江島の港湾管理権を手中に収めていますので、
海に向かって開けた仏法寺は商船と漁船の監視所としての機能を有していた
はずです。
海で問題が起きた場合、監視員は直ちに海岸へ駆けつける必要があります。
その目的で、寺は海側手前に道を付けたのではないでしょうか?
この道は寺の業務遂行に必要な専用道路ですから、一般の通行は多分禁止さ
れていたものと思われます。


■ 記 2011年06月18日 稲村ガ崎の戦い 11


写真は、仏法寺(霊仙山)のステレオ写真
>> 仏法寺 (酔石亭主) 2011-03-01 18:50:11
> 仏法寺から海側に下る道は参道ではないと思います。
> 極楽寺は前浜の漁業権、和賀江島の港湾管理権を手中に収めていますので、海に向かって
> 開けた仏法寺は商船と漁船の監視所としての機能を有していたはずです。
> 海で問題が起きた場合、監視員は直ちに海岸へ駆けつける必要があります。
> その目的で、寺は海側手前に道を付けたのではないでしょうか?
> この道は寺の業務遂行に必要な専用道路ですから、一般の通行は多分禁止されていたものと
> 思われます

社寺には、表の顔と裏の顔が有るとかんがえています。

建長寺の山門の立派さとその高さ!
二階へ上る階段は、取り外しが出来る事に気が付きました。
あの山門の二階の部屋は何の為に作られたのか?
押し寄せた敵兵を平場で抑えられない代わり代わりに、2階から弓矢で攻撃できる様に成っている! そんな解釈をすると、ぼ輔的には納得が行くのです。
適が二階に上がれぬように、二階へ上る階段は、天井に持ち上がると、、解釈しました。
鶴岡八幡宮の砦構造など、、、その場所に陣を引いたら半端でない防御施設と考えます。
八幡宮の裏山は、大部隊が立て籠もれる平場も備えている。
考えられる事は、大きすぎてそれを守る兵自体も無くなった状態を考えてしまいます

広報かまくら平成22年度9月1日号8面
前略
江戸時代前期成立の『極楽寺境内絵図』に、仏法寺の建物と池が描かれていますが、これについて、極楽寺が火事で焼けた後、明暦3年(1657)に仏法寺の建物が移築されて方丈(住職が生活する建物)となったという話が極楽寺に伝わっています。以後、仏法寺は廃寺になったようです。

さて、、
以上の様に、実際に防御施設として鎌倉に攻め込む兵を防御する事に使われたのですが、、、
平常時には、鎌倉に入る船を監視する為に使われた事が言われています。
例えば、
六浦道の荏柄天神の辺りで通行税を取る事と同じと考えています。
この「船を監視」するのは、税金を取る為で、武力絡みの緊急性の有る監視では無いと考えるのです。
あくまでも平常時は、牙を隠したお寺で有るはずです。

◎◎◎コメント◎◎◎
これはすごい (@塾長)
2007-02-19 23:09:51
全く、予想だにしていませんでした。
桟道は海岸の岩場かと思っていました。
下に積もった土砂を見る限り、相当崩れていますね。
噂では、関東大震災で崩れたと聞いています。

Re:これはすごい (ぼ助)
2007-02-20 09:53:18
関東大震災でこの辺りが大きく崩れた様ですが、
それでも痕跡が残る処が岩場の道と言うことですね!
私としても予想外の物を見ました。
人が通れる幅は有りません。
登山技術があっても、崩れやすい砂岩です。
鷹取山の砂岩の岩場で何人も事故を起こし岩登り禁止になったのと同じ岩の質です。
無茶はしないで下さい。

コメント (3)
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稲村崎成干潟事 上巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年07月01日稲村崎成干潟事 序

図は、国土地理院明治15年迅速図
新田義貞の主力は鎌倉の化粧坂を攻めたが、強固で突破できない!城壁の切れた稲村ヶ崎より鎌倉を攻めるのですが、
「合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
梅松論にて、冷静な記述で書かれた稲村崎干潟となる現象です。
この干潟が今回のテーマです。
稲村路の存在と、どの場所を新田軍が攻めたかを考察すると、大鎌倉城の戦う砦としての構造が浮かび上がる。

明治15年の地図です。
A極楽寺坂
B五合枡と呼ばれる方形陣地。
C仏法寺(大館宗氏は稲瀬川にで討取られ、残党は退てこの場所に退避する)
D稲村路
E新田義貞が夜中偵察し、これより南が稲村路と言わしめた場所。
F稲村ヶ崎
G潮の満ち引きの差を地図で表した場所。

この地図の焦点は、潮の満ち引きの差です。
この地図では、潮が引いて干潟が出来る場所の記載は無いと言うことです。
但し、明治15年の時点ではの話です。

新田義貞鎌倉攻めの際、梅松論に書かれた稲村路の特徴は、
「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
この地図からぼ輔の想定した稲村路の(赤くマークしたライン)の検証をしよう!
ット言う訳です。
稲村路の明治時代の波打ち際は、即 崖の下っという様子がこの地図から読み取れると思います。(現状は埋め立てられて実感が湧かない)
数ある古文に書かれた事項の真偽の可否や、資料と符合する程度は?
新田義貞がこの稲村路から鎌倉市内に浸入したとすれば、、
干潟の出来る場所を特定し、稲村ガ崎の先端を渡渉(歩いて水中を渡る)して浸入した話しの真偽性に決着を付けようと言う事です。


■ 記 2010年07月05日稲村崎成干潟事1

 新田義貞稲村ヶ崎の奇跡は、この文章から始まった。

> 太平記(国民文庫)より抜粋<http://www.j-texts.com/taihei/thkm2.html>
> ○稲村崎成干潟事 
> 去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰
> 越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜
> 半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へ
> ば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べ
> て並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、
> 澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も
> 此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を
> 脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の
> 主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給
> へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を
> 尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安と
> なり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道
> を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜
> て、海中へ投給けり。
> .......以後省略.......


  この文章が根拠となり、、
  明治35年に歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
> 「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、長い年月を経た
> ので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたのであろうか、今は跡形もない。それ
> 故、元弘3年5月に、新田義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能
> のことではなく、何の不思議も無いことである。」

と結論をだした。

     稲村ヶ崎の海浜公園の碑には
> 「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日 新田義貞此の岬を廻り
> て鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて 潮を退けんことを海神に祈れ
> りと言うは此の処なり      大正六年三月建之   鎌倉町青年会 」

     となっている。

ここで上記の検証に疑問を提起するのですが、、、
太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」の文字だけ注目すれば稲村ヶ崎が干上がった事になる。
しかし、
この文中に書いてある事は、これだけではなく、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」


新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜方面より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。この場所は、、、前回「E]と赤字で示した針磨橋と考えられる。
これから北へ一歩進めば、鎌倉軍と合戦が始まる。南へ進路を取れば「稲村崎」!!!
この「稲村崎」は現在の一般常識「七里ガ浜の磯伝い」の稲村ガ崎ではない事が伺える!!
それは前回赤いラインで示した「稲村路」と呼ばれる極楽寺切通しが出来る前から在る道を指して、太平記では「稲村崎」と書かれている。
これらの視点が上記の研究者には無く、太平記を理解をしてない事が伺われる。

針磨橋の碑
(鎌倉町青年団 鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ 附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセ シ者住ミシケリトテ此ノ名ア リトイフ)

絵は 月岡芳年「月百姿」:江戸から明治時代の浮世絵師。 礫川浮世絵美術館


■ 記 2010年07月07日稲村崎成干潟事2

>○稲村崎成干潟事  太平記(国民文庫)より抜粋
>   .....前略......
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
>   .....後略...... 


 新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け偵察隊を出した。
七里ガ浜の磯伝いは初めから稲村ヶ崎が見える浜ですから、「南は稲村崎にて、、」等と言う場所は無い。
江ノ電の電車の脇を極楽寺に向かい針磨橋で、分かれ道(稲村路の分岐)となる状態ならば「南は稲村崎にて、、」という状況が生まれる。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
 南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。これでは攻めても、引き下がる他は無い!(大館が討ち取られたのも無理は無い。)」
北の極楽寺切通しが目的ではなく、南の稲村路を通り「稲村崎」を攻めるために播磨橋に着いた状況が書かれています。

それ以前の状況は、
新田義貞は軍勢を三手に分け、一方は極楽寺へ、他方は巨福呂坂へ、残る一方は義貞が直接指揮し仮粧坂へ。
しかし、巨福呂坂も仮粧坂も難攻不落状態であったのです。

そんな強固な鎌倉の防衛で、唯一盲点が城壁の切れた海岸際であり、、
極楽寺の攻撃は初期から稲村崎を経て鎌倉内に踏み込む事が出来たのです。※1
(もっとも、義貞勢浜手の大将大館宗氏は稲瀬川において討取られ、11人塚の顛末となり名を残している。)
大将大館宗氏が鎌倉城の弱点を死んで証明した稲村崎から攻撃を決断するのです。
新田義貞は自ら指揮し化粧坂の軍の内二万余騎を連れて、稲村崎を目指し移動を始めた。

そして、太平記の次の文章では、
「誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。」

そこで、新田義貞は播磨橋より南の稲村路の海に出た場所で馬を降り、兜を脱で海を伏拝む事になります。
新田軍は、七里ガ浜から黄色い線を通り播磨橋(E)へ!
播磨橋から赤い線を通り稲村崎(D)に着き新田義貞は馬を下りた。

※1 「梅松論」では、五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。」


 記 2010年07月10日稲村崎成干潟事3

地図は明治15年の迅速図であり、、写真は由比ガ浜より霊仙岳を写した物です。
時期は、関東大震災の直後の岩壁崩壊の状態を写したものですが、、注目は岩壁で無く海です。
この場所こそ新田義貞が「稲村崎成干潟事」を起こした場所です。
波が無いのは??何故でしょう???
海に赤く淡いラインを書きましたが、、海面より上の岩礁で、写真の範囲は総て干潟です。
関東大震災により、、海面より土地は1m浮き上ったのです。
関東大震災以来、、干潟は当たり前の現象になってしまった!!!

どんなに穏やかな日でも波が有るのが海です。
波の無い理由は、波打ち際はもっと沖にあり、写真に写る干潟まで波が来ないだけの話しです。
この干潟に目を付けた地元民が居り、考えた事は干潟を埋め立てて土地にする事でした。
  齋藤養之助氏顕徳碑 
この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、
その後 斎藤氏の所有するところとなったが、昭和二十四年九月十七日
斎藤氏は本市の伸展は文化観光施設の充実にあるとの信念から、この
埋立地の内壱萬坪を将来の都市計画用地として欣然無償供与せられた
のである。 道路開鑿記念之碑   昭和十三年三月建 


関東大震災1923年(大正12年)後埋め立ては道路開鑿記念之碑の昭和十三年の間は15年間で、この間しか干潟は見れなかった。
関東大震災以後「稲村崎成干潟事」は当たり前の話であったと思います。
震災前の明治の人は、干潟の奇跡を考えた。
埋め立て後の人は干潟の状況は知らずに、、、明治の人の言葉を信じた!
こうして、、稲村ガ崎の奇跡は作り上げられた。
現在は、埋め立てた場所≒干潟の有った場所です。


■ 記 2010年07月12日  稲村崎成干潟事4

稲村崎の新田義貞!その後に起きたことは?
 「太平記」(1374)巻10稲村崎干潟となる事

(www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html )
 ......前略......
 龍神は其願を聴き入れたものか、其夜月の入る頃、これまで嘗て
 干た事のない稲村崎が俄に二十余町も干上つて、砂原が広々と開け、
 横矢を射かけようと待ち構へてゐた五六千の兵船は、潮と共に退
 いて沖の方遠くに浮き漂された。全く不思議だ、こんな不思議な
 事はあるものでない。
......後略......


「梅松論」では、
 稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
 俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護と
 ぞ人申しける。

以上の様な結果が起きました。
ここで重要なの事は「太平記」と「梅松論」と言う立場の違う著者が違う言葉で同じ状況を述べていることで、異常気象の存在を確認できる事です。
  齋藤養之助氏顕徳碑  この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、      道路開鑿記念之碑   昭和十三年三月建 


この道路は現在のルート134号で、埋立られた干潟の一番外側と考えられます。
引き潮により、この道路まで鎌倉軍の船は追いやられたとなれば、船から波打ち際までは距離が長すぎる、、たとえ届いても横矢で狙い撃ちできる距離ではない。

干潟は20町であったそうです。この埋立地だけで10町の面積で、この程度の誇張は、許せる範囲

とするぼ輔でした。

この写真は、、海底が良く映し出された写真です。海底の岩の状態をご覧ください。
真っ青の海に対し、緑の海草が有る岩礁が海底に写っています。

この様な岩の状況は、逗子の海岸でも見られ、不如帰(ホトトギス)の碑が海底から突き出しており、大潮にはこの海の中を歩けるのです。

この地図の状態で干潟が出来れば、、、稲村路から干潟を通り簡単に無理なく攻め込める。
太平記の「稲村崎干潟となる事」の項目は、調べるほどに、奇跡でなく、無理なく起きた異常気象とぼ輔には感じる。
大潮の時は、その前後数日間は、潮の引きが大きく出る。
細かく大潮の日時を、数日前!などとノタマウ方も居られますが、机上論でなく、、その程度を実感をして頂きたいと思います。
異常気象で潮位が1m上り霊仙崎(稲村路)の岩場が干上がっても、稲村ガ崎の周囲の岩礁は海中に在ります。
現在言われる稲村ガ崎外海が干上がった訳ではないのがご理解頂けると思います。

「梅松論」にて、 合戦の間干潟にて有りし事、 と文章として異常気象と書かれています。



■ 記 2010年07月14日稲村崎成干潟事5

浜の手の大将大館宗氏が鎌倉城の弱点である進入経路を死んで証明した。それが針磨橋から南の稲村崎へ向かう文献に書かれた稲村路の存在。
従来説は太平記を基にしながら、詳細な記述を無視して現在の七里ガ浜の磯伝いの稲村ガ崎を回り攻め込んだと誤解したわけです。
稲村路という古来から道の存在を知らずに「稲村崎」を七里ガ浜の磯伝いと考えた!

稲村路を認識した上で「太平記」を読むと、文章に矛盾を感じないで理解できる筈です。
ぼ輔だけの考えではなく、絵でもその状況を意識して描かれた物があります。

時刻は二十一日の夜半(頃明け方)であり、この時に総攻撃が始まり、翌日には「高時竝一門以下東勝寺に於て自害の事」で鎌倉は終わるのです。

この絵は、稲村路より稲村崎へ出た特徴を持った新田義貞の絵です。
山間の道に軍が連なり、、左の山は稲村ヶ崎で、右の山は霊仙岳側です。

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