鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

篠窪から関本へ2

2019年10月26日 | 古代東海道
平地では、直線的に作られた古代駅路ですが、、
残念ながら山間地ではどの様にカーブを描き作られたのか?
平坦地の古代駅路の発掘例は、幾らも有りますが、山間部の道路遺構の発見例は無い。

もし在るとすれば、このブログが唯一扱っているだけです。
例えれば、
鎌倉朝比奈の道路遺構、足柄峠の道路遺構、富士十里木峠を越える足柄道の道路遺構、
そして、今回の
平塚道路遺構から下大槻道路遺構を通り、関本に抜ける道路遺構です。
上記の山間部遺構に文献は一切有りません。
しかし、、
足柄の矢倉岳から金沢八景の六浦港迄の直線上に存在する合理性を持っています。
更に、道路が直進しない場合は、曲がるだけの合理性のある理由を持っており、全体から見れば直進に造られています。
何が何でも直進と言う訳ではなく、程度の問題を含む直進です。

(google地図)右の黄色いマークは、Z路でその後尾根道(赤い点)を通ると考えられます。
理由は、篠窪へ降りると地形が複雑で太くて直線的な道が造れない。
尾根には、太い道路を作れたと思われる広い尾根が続いています。

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篠窪から関本へ1

2019年10月22日 | 古代東海道
Z字遺構より尾根の赤点を辿る訳ですが、
この道のイワレは、
明治、大正の時代は「郡道」で有ったそうです。
同様な道に、関本から秦野まで矢倉沢街道が並走しますが、、
関東大震災以降は、こちらの「郡道」がメインに成ったと考えられます。
更に鎌倉時代を考えれば、頼朝の時代に「富士の鷹狩り」が盛んであった様で、「曽我の五郎十郎」の話があり、その鷹狩に使われた道との事です。
富士より一直線で鎌倉に向けて作らた古代東海道が、平安時代を経て鎌倉時代も使われていた根拠がこの話と考えます。
前回の西方向の図とは違い、 下の図は北向と成り尾根道を解りやすく見るアングルです。
右手の黄色いピンマークがZ字道路遺構です。(Google Earth画面)

更に広い範囲の図を示します。(Google Earth画面)
これ等の場所は、関東大震災(1923年)の震源地で断層を生じた場所が松田から秦野であり、当然地形のが影響さてたと考えて居ましたが、、それなりに残っていたようです。
更に言えば、自然災害に影響されにくい場所を選んだ道造りが尾根道と考えられます。
道には品格が在ります。
 道幅が有る(経年劣化を考慮)
 目的地に向かい直線的である。(直線でない時は障害となる地形地質を考慮)
 坂道の傾斜は緩やかである。(急激な傾斜の時はZ字の形をとる)
 谷筋は自然災害に弱い為に、尾根筋を通る。
 これらは、一般的な古道とは異質な要素です。


江戸時代の箱根の石畳は、江戸東海道として有名で現在でも立派な石畳が見られます。
しかし、大半は地震等で土砂に埋もれ、現在みられるのは近世に観光用に作られた石畳で、脇に土砂に埋もれた石畳が並走しているのが観察できます。
現代人はこ れらの街道の幅や道の曲がり、急な坂道を基準に、古代道路もこの程度と考えて居た訳ですが、実際の古代道路は、非常に直線的で幅広い道でした。
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栃窪Z路から関本へ6

2019年10月05日 | 古代東海道
とても特徴的なZ字で、マサカ直線的な古代東海道がZ字をしていたなんて誰も言わなかった話です。
急激な傾斜を登って行く時は、、電車のスイッチバックと同じ方式になる訳です。
長く重い材木を峠越えさせる時、引っ張る人間も込みで考えるとこの坂の作り方になる訳です。
写真は、グーグルアース画像の矢倉沢向き(西向き)です。

更に、 その先の道を 赤い点線で記入しました。
篠窪に降りると地形が複雑である事と広い道路を確保でき無い為に尾根を通るのが安定した道に成ります。
其の為、尾根を通る事になり尾根が幅広く続いています。
結果は、赤いラインが示すルートに成ります。
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