鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 6

2018年01月20日 | 鎌倉時代の波打ち際
上図は、縄文海進の6,000年前と言う想定の地図です。
今より1000年前まで、この影響が残っていたら、、平塚から鎌倉へ向けた古代東海道は海の中と言う話になる!
新田義貞が洲崎に攻め込んだ時に洲崎は海に囲まれていた??
何か変です!!
縄文海進は最盛時で その波打ち際は現在より4m程高く、その時の図と解釈できる。
真実は何処に在るのか??
 
海岸線が5m上がった想定の図
 
海岸線が8m上がった想定の図
 
海岸線が15m上がった想定の図
 
 その様な訳ですが、
地球博物館の提供した地図の波打ち際は15m以上の標高に描かれている。
縄文海進の 最盛時の高さは現在より4m程高かった。と言う記述とは整合しない。
この図面は6000年前の波打ち際と相容れない15m以上有る海岸線です。
これが結論となります。
 
私には、この問題の矛盾を指摘できても、解明する知識は無い。
恐らく考古学学会の中で資料不足で混乱した部分が有るのでは? っと考えて居ます。
 
   以下は参考です。
>有鄰 平成17年1月1日  第446号  P4
>■■広くて暖かだった縄文の海■■  松島義章
>http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html
>詳細は、上記をお読みください。
 
>この概略は、
>1,5~2万年前は現在の海面より120m低い位置に在った。
>以後海面が徐々に上がり始め、6,000年前の海面が一番高かった。
>これを縄文海進と言い、その最盛時時の高さは現在より4m程高かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉時代の波打ち際 5

2018年01月12日 | 鎌倉時代の波打ち際
「鎌倉時代の波打ち際 4」のジオラマの浜辺は、、、
地形の凹凸が無く、八幡様の源平池から浜まで平らな地形に感じます。
鎌倉に数十年関わっても、そう感じていました。
しかし、、、
これは、単なる平地では無かったのは、この半年で判った事です。
どの様か?
海抜0mより 白⇒紫⇒橙⇒緑 の高度順です。さらに、傾斜の強い処は黒く強調されている。
この図から、坂ノ下(江ノ電長谷駅)周囲の地形が低い為に、津波が大仏の有る場所に向かって押し寄せるで有ろうと、安易に考える事が出来、その文献も過去にある。
更に、八幡様の一の鳥居が高い場所にある事や、下馬四つ角が異常に低い位置に有る事も理解できるでしょう。
鎌倉の海岸線の場所は、1000年前も差ほどの変化はなかった根拠をこの図から示せる訳です。
何故なら、
防衛施設が掘り出された海浜公園駐車場の場所は砂丘の一番海岸に近い場所で有った訳です。
6,000年前の4m程海面が高い時でも、この防衛施設の在った砂丘は海面より出ていたかもしれません。
少なくとも、800年前の鎌倉時代に作られた防衛施設は現在8mの標高です。
鎌倉の基本的な地形を調べる事も無く無視し、縄文海進の波打ち際の場所を無視し、貝塚と貝化石を混同した研究は、間違っていれば否定され、、研究者の地位も虚飾にマミレてしまう。
研究資料も整わないで、結論を急いで業績を上げようと臆測の結論を出した結果なんでしょうが、、
鎌倉の研究には、非科学的な著述が多い。
 
更に、問題は、
縄文海進で「古大船湾」は、無かったと考えられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする