■ 記 2006年5月29日 鎌倉の古代 2006年05月29日 | 東山道~鎌倉
鎌倉には、鎌倉時代しかなかった?
いえいえ、、奈良時代や平安時代も当然ありました。
その古代には、巨大な古代東海道や東山道武蔵路が通っていた筈!
頼朝が、城砦として鎌倉を作り変える以前の鎌倉の話です。
東山道武蔵路は、群馬県足利(太田)辺りから東京都府中に向けて作られた道で、
更にその先は、学術的には語られないが、、、、チャンと鎌倉まで痕跡がある!
っと素人のぼ輔が痕跡探しをする話です。
武蔵大路が鎌倉に在ったとする根拠は文献があります、、
鎌倉内の地名として、吾妻鏡(1265)に武蔵大路下と書かれている。
(武蔵大路下の地名は 亀が谷の辻や寿福寺の周辺に在ったと考えられる。)
話は変り、
頼朝に攻められた平家の足利俊綱は 家来の桐生六郎に殺害された。
新編鎌倉志には、桐生六郎が主人の首を持って鎌倉へ賞金目当てに行く話がある。
この時に鎌倉に入れず、鎌倉の外を徘徊する話の中に武蔵大路の名前が出てくる。
これらの文献から言えることは、
1.吾妻鏡の記載を根拠に武蔵大路が鎌倉内に有る。
2.吾妻鏡の桐生六郎記述の項目により、鎌倉の外にもある。
3.その道幅は大路である事。(奈良時代の中路ですが、路面幅9mは巨大な路です。)
鎌倉外部より市内に向けた武蔵路が在り、単なる街道ではなく、大路が有ったと書かれている。
鎌倉城を造る時点でこの街道は封鎖されたと考えるのです。
問題は、その痕跡は?? その答えは「鎌倉の大堀切!」に有り、武蔵大路=東山道相模路と言う訳です。
相模の国の古代東海道の話ですが、
平塚の古代道路発掘現場で「この道は、茅ヶ崎より北上し座間に向かう」と説明された。
そりゃ間違えでしょう! 9mの道幅は、奈良時代の駅路と考えられ、目的地に向かい直線的に作られる。
古代東海道と言えば、足柄峠から東京湾に抜け海を渡って千葉に行くのが経路です。
足柄と東京湾の中間が平塚ですから直線的には鎌倉へ向かうのが筋です。
平塚の駅路の次は東京湾に向かえば次の16Km先の駅路に鎌倉が当り順当です。
茅ヶ崎より北上し座間に向かい町田から武蔵国府なら、、90度折れ曲がり不自然過ぎる!
何故間違えたのか?? 歴史の時系列を無視して間違えたのだと考える。
川を渡った後で、何の障害も無い平地を直角に曲がるのは、古代官路の考えには無い!古代道は目的地に向かい最短距離で道を造るセオリーに外れるのです。
平塚の9mの道幅は、初期駅路であり、後年の武蔵国衙へ向かう道(771年宝亀二年に東海道に編入)と混同した間違いであると<ぼ輔>は考えます。
(赤点は、大路の痕跡または地名が古大道に絡む地点)
初期の古代東海道は東京湾を船で渡り、上総(千葉)へ向かうと有ります。
古代初期の東海道とその後100年経過した(771年宝亀二年に東海道に編入)武蔵国衙へ向け駅路変更をしたかも?と言う憶測で東海道の史実を整理出来にず 錯乱したと考えます。
年代考証を正確にやれば、この様な結論は間違えと気付くハズです。
時代が過ぎて、武蔵野国が東山道より東海道に編入され、その後の東海道は東京湾に出ず、武蔵国衙から陸路を通るのは、ズット後の時代になります。
学識者の中で、東山道武蔵路と古代東海道の解釈及び時系列が混乱をしたのでしょう。
東山道武蔵路ですら、、現在の解釈とは違い、初めから鎌倉に向かう道を作り、その途中に武蔵国衙を置いた。っと考えるのが合理的と思います。
もちろん、茅ヶ崎から神奈川県の海老名国分寺に向かう道も在って不自然ではないのですが、平塚の道路遺構の規模とは別の格下の駅路ではなく伝路と考えます。
東山道武蔵路の埼玉県所沢市の「東の上遺跡」は650~675年頃に作られ、その後宝亀二年(771)に武蔵国は東海道へ所属替えをした。その間100年も有ります。
問題は、鎌倉に古代東海道と東山道武蔵路の巨大官道の遺構は有るか?
有るとすれば、何処に在るか?
大半の学識者は、「そんな道は調べた事が無い!」誰もそんな説を出して無いと言う訳です。
「巨大な道路遺構は、鎌倉に無い!!」という見解です。
その常識を崩す反論として「朝比奈切通しは 巨大道路の遺構でしょ?? 目を開けて観察したら!!」
リアルタイムの謎解きです。
写真は、足柄峠にある、古代東海道と思われる遺構。
唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に居る母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
その時に通った道は、前の時代、、、奈良時代に作られた東山道武蔵路と考えています。(武蔵路について、これまでのマトメ・2011-11-05記を参照してください )
鎌倉へ行く道ですから、鎌倉街道と呼ばれても、不思議はありません。
しかし、、藤沢市に有る道路遺構から考えると、その規模から奈良時代の官道の跡!(道路を作る為に2011年消滅)
路面幅9mは有る巨大道路です、、、、
学者は掘り出さないと見つからないと考えるでしょうが、、、、、
確かに平地は畑になり、宅地になり、、掘り出すしか仕様がありません。
頭を使えば、急な崖の場合、切通すのがパターンなのは、今の高速道路も同じで、その様な場所を捜索すれば、、、この様な場所が見つかります。
文献の根拠も大事でしょうが、地の利が有る者が丹念に地図を見ながら探せば、文献では限界の有るモノが見つかるのです。
貴方も探して見ませんか?
東海道と言えば、五十三次の江戸時代、箱根の石畳を歩くと、1間(両手を広げた程度)の道幅です。平地では、1〜3間?(宿場では、広かったようです。)
800年前の鎌倉時代に鎌倉街道が作られましたが、1~2間程度のもので、中道は3.3m(2間)の遺構も有る。す。
鎌倉の出入りは、峠を切り崩して道を造った切通しと呼ばれる細い道を通ります。
切り通した場所は七つ有り、七口と呼ばれるが、これは水戸黄門が鎌倉見物の際書き記したモノの様で、実際はその他に数カ所の切通しが存在すると言われています。
一番自然な形で残されたのが、大仏の切通し。
観光用に見栄えがあるのは、整備された朝比奈切通し。
観光客に路面を削られたのは、化粧坂。
数十年前にバイクで登った私も責めを負いますが、、、今では通行禁止だけでなく、物理的に上れない程荒れた。
紫陽花を見たいなら、名月院よりも、、名越の切通し。でも、今は整備されて紫陽花は引き抜かれた模様です。(この文は2014.10修正)
江ノ電に乗りたいなら、極楽寺坂。
北鎌倉から、八幡様に行くときは巨福呂(小袋)坂がパターンです。
北鎌倉から亀返し坂を通り銭洗い弁天は、落ち着いた雰囲気です。
取りあえず、、、一般的な鎌倉の観光コース解説です。
この中で、鎌倉時代に造られた切通しのオリジナルな状態が残ると考えられるのは、大仏切り通しの藤沢側の部分と朝比奈峠の大半。
(江戸時代に補修されている石碑が在るが、新田義貞の鎌倉攻めのバリケードを切り崩した工事と考えられる。)
にほんんお
日本の古代駅路や官路に対する研究が始まってから日が浅く、実体の道路遺構発見は1980年代であり、、古代路を語る文献が少ない。
文献が少ない為に、古代道に対し学識者の憶測が先行する研究が多く在るのが現状です。 知られている処は部分的な為、全体を語る時は、憶測の部分が入り込む不完全な研究と成ります。その様な発展途上の学問です。
古代駅路の特徴は古代東海道の場合、、、
①★路面幅9m、(中路の幅)
②★両側に側溝があり、(側溝まで含めれば、11~15m幅のある道になります。)
③★路面は、硬く舗装をしてあり耐久性もあります。
④★計画道路の特徴として、目的地に向かい出来る限り直線で作られている。
⑤★この道は、山に入ると切通した道となる。
以上の5点は、今でこそ一般道で在りますが、50年前は日本で一番大きな巨大な街道だったのです。
この巨大さに何の意味があるのか? 防衛の軍事目的?物を運ぶ為?
朝廷の力を誇示する為、、裏は「租税の取立て」っと考えるのです、、、
結果は不必要な巨大さ! 維持管理が出来ず使われなくなった。
5点を頼りに道を探すと、、巨大な特徴は古代道を特定する根拠になる。
路面舗装に関しては、踏み固められた訳ではなく、石のように硬く舗装してあった。
その舗装は、鎌倉では源氏山で見られます。
会津若松と日光を繋ぐ会津西街道にある大内宿もこの舗装で両側に排水路を備える。
驚く事に、アスファルトより、、、寿命が長い様です。
鎌倉散歩のお供に、、、チョッとした知識を如何ですか?
車は、止める場所が少なく、自転車やバイクが最適な鎌倉ですが、「案内書に書いてない」そんな鎌倉です。