鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

朝比奈峠から六浦へ!

2006年07月29日 | 切通し
東山道の前に、書き忘れです。
「朝比奈から六浦の港へ古代東海道は通っていた!」
これが、前記のブログに述べた根拠を総合した 私の考えた結論です。
横須賀の走水から 千葉に渡った大和武尊根拠は、
文献に偏り過ぎた机上論で現実を見て無いと思います。
古代東海道は六浦から上総の国衙が有ると思われる市原の近くの港へ海上を
直行すると考えます。
ですから、古代東海道は、市原から常陸に向けて存在はしても、
市原から安房方面に向けての古代東海道遺構は無いと推測します。
もし有るとすれば、上総国衙と安房国衙の間を6m若しくは3m程度の官路が有ったであろうと想像します。
何を言っても、、、所詮素人の憶測です。責任は取りません!!
各自、、、自分の目で確かめて考えを深めて欲しいと願っています。

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東山道武蔵路

2006年07月26日 | 東山道~鎌倉

本当は、東山道武蔵路ではなくて、武蔵国府から先の東山道相模路(杉きちサンが言い出しはじめ)を書きたいのが本音です。
都合上、東山道武蔵路から話始めです。

東山道に新田駅や、足利駅が有るそうで、、
そこから、東京都国分寺市に有ったと思われる国府に向かい 東山道武蔵路が作られた。
この道は、1989年に埼玉県所沢市「東の上遺跡」として発掘され、学者間でその規模の巨大さで注目を集めた。
それ以前の発掘もあったようですが、実質これが世に知れ渡った最初の様です。
両側溝間12mの幅があります。
巨大駅路が認知されて、、15年程しか経っていない。
それ程未開の分野の学問という事です。

実際は、武蔵の国府に行く目的の道では無く、鎌倉に向けての痕跡が在った訳ですが、、、

東山道武蔵路は、武蔵国衙の為に造られた路と現時点で説明されて居り、其処から先の鎌倉には言及し無いのが、学識者の現時点での見解です。
道は目的地が在っての敷設ですが、鎌倉迄ある東山道の延長は何と呼んだら良いか??
その先を称して東山道相模路と言う訳です。

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朝比奈峠10

2006年07月24日 | 切通し
朝比奈峠東の小切通しと言えども、、、
8m程切り落としたこの小切通しは大きく見える。
この様な切通しを誰が造ったか?
鎌倉幕府以降は、戦禍で荒れた寒村で、市内に入るに困難な切通しのバリケードを江戸時代に雑に改修したぐらいですから、、、鎌倉以降とは考えられない。
こんなキッチリした造りは、資力が十分にある鎌倉時代の他に無いと考えます。
鎌倉時代以前は、道幅7m以上の古代東海道が有り、この小切通しは道幅を狭めた上に、防衛の為に道路を上から攻撃する目的で造られた構造と考えています。

それが証拠に、一定傾斜の古代道の痕跡と比較すると、この小切通しの部分が一番深くエグラレて道が作られており、確信的に切通しを高く造った状況が観察できます。
小切通しと大切通しの防衛機能が有効であった証拠は、新田義貞が西の方面からモッパラ攻め込んだ事から想像できます。
(元寇が六浦の港におしよせたた時に絶大な効果を発揮したでしょう!)

それにしても、他の七口より道が広く立派な理由は、、、
古代東海道の機能が維持されており、六浦港から資材搬入が有った為と想像します。

写真は朝比奈峠六浦側に残る平場にあるヤグラ。
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朝比奈峠9

2006年07月23日 | 切通し
この切通しの怪とは、
大切通しは、7mの道幅ですが、小切通しは 3から4m幅です。
大切通しと小切通しは、造った背景が違う! っという事が言えると思います。
では、7m幅の道は何処へ?
写真は小切通しのヤグラのある反対側にある崖上から撮った写真です。
何のことは無い、、、ヤグラの造られた時期の道は、、、、反対側の平場に
有ると言う訳です。
手前の平場の草むらとヤグラの間に高さ8m程はあるかと言う切通しが有ります。
そんな溝の存在を感じさせない程自然な写真です。

大仏切通しに有ったバリケード! そんな危機感からすれば、写真の様な
太い道は攻め込まれた時に簡単に突破されてしまう!
それに対応する防衛施設として、、、この様な細工を施したと考えるのです。
古代東海道を 平場として本格的戦闘用に造り変えた訳です。
この平場と比べれば、峠から市内に向けた平場と称する場所は、戦闘に通用
しない事が理解できるできると思うのですが、、、、
御自分の目で見て、実感して判断して下さい。
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朝比奈切通し8

2006年07月21日 | 切通し
朝比奈切通し六浦側は、私自身があまり興味が無く無視しそうになりましたが、、、
古代東海道を意識した時には、外せない場所で見方を変えるととても面白い場所です。

さて、平場はどの様に成っているか?
ご覧になる方は必ず平場に上がって前後の平場を見て頂きたい。
それは、平場の傾斜が前後にある平場と関連しており、前後を繋なげれば道と考えても不自然では無い状態を観察してください。
ずいぶんと謙虚なかきかたですが、、、
言葉の裏は、「古代駅路の痕としか考えられないでしょ!!」と言う事です。

古代道路の痕跡と言う事で、次回は小切通しの怪になります。
朝比奈大切通しから六浦に下りた処にある切通しです。

写真は、大切通しに近い平場で、ステレオ写真になっています。
見方が判らない人は、質問ください。
右下に現行の道がチラリと見えます。
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御柱

2006年07月18日 | Weblog
長野県茅野に行ってきました。
古代東海道に対する、東山道の有る場所ですね。
義理の息子に会いに行ったのですが、田んぼの向こうに見える道は御柱の通り道!
7年に一回のお祭りです。
山から下ろした大木を諏訪神社まで持って行く。
巨大な丸太をどの様に運ぶか!
何の事は無い、、、綱を付けて引きずり回すのです!
何やら、、、奈良の大仏殿を支える柱の出所は、、、こんな所かも?
などと思い巡らして居ます。
長い道中で、都まで引きずったら柱は磨り減るでしょうから、途中は修羅に乗せるでしょうが、、、
そんな時に、直線の道と、硬い路面の道が必要で有ったのかも、、、
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朝比奈切通し7

2006年07月08日 | 切通し
朝比奈の図を提示すれば、証拠として充分だ!
と私は思うのですが、、、
納得する可否は、現地を見て 以前とは違う見方で歩いて 貴方自身の目で決めて欲しいと思うのです。

人によっては古代駅路ならば「路面に硬化した場所が有る筈です!」等言われかねないので、一言。
800年経って写真で御覧の通りの立派な砂岩の道で、始めから硬化させる必要の無い場所です。化粧坂も同じです。一般的な土の場所に作られた駅路と混同しないで下さい。(現化粧坂は、ヒドイ荒れ方ですが、この40年の観光破壊です。)

理屈っぽい人は「これは、状況証拠でしょ?」なんてね、、、
他にはどの様な証拠を必要ですか?

写真は、朝比奈の平場と称する駅路跡です。
地蔵浮き彫り慰霊塔のある場所より、峠に向け写しています。
右には、平場に絶対に無い側溝が有ります。
っというよりも、、、
駅路定番の側溝ですね!
左下には鎌倉時代に作られたと考えられている4m幅の道が写っています。
鎌倉時代の4mと、平場の2から3mをプラスすると6から7mの駅路が出来上がる!
朝比奈大切通しの幅と同じになり、道としての整合がとれます。
写真をクリックすると拡大されます。

さて、バリケードのネタでトンデモナイ話がこれから始まる!!
大仏でバリケード、朝比奈でもバリケード、他に有っても不思議ではない!
素晴らしい保存状態のバリケードが現存します。

記事一覧 ★★http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/★★
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朝比奈切通し6

2006年07月07日 | 切通し
次の山場も控えているのですが、、、
7月13日に次の書き込みをします。

写真は、供養塔(地蔵の浮き彫り)の有る場所で、峠に向かい上って行く状態です。
右手が問題の平場です。
平場に上ると、、、、
単なる平場には無いモノがあるのです。
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朝比奈切通し5

2006年07月06日 | 切通し
朝比奈の峠から、市内に向けた図です。
この道は、特異な平場がある事を前に書きました。
通常の敵を攻撃する構造では無い。
軍事的な平場とは異なると言うことです。

図面からは読み取れない情報がありますが、
それは、
1、平場が傾斜している。
2、その傾斜は、次の平場の高さに受け継がれる。
要は、本来有った広い道の半分を堀下げて今の道が作られている。
そんな状態を図面から読み取ってください。

実際に見る事により 実感を持つ事は、単なる文章の知識とは別次元の
膨大な情報量が得られる事です。
実際に見ても 観光客気分なら、同じかな?
問題は、見る人により 感じ方が違う。
見方の違いが、、、面白いと私は思う。
図が小さい様ならクリックして下さい。 拡大されます。
茶色に着色してある処が、平場です。
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朝比奈切通し4

2006年07月05日 | 切通し
以前の記事で写真が本文の脇に小さく有る様でしたら写真や図面をクリックしてください。拡大されます。
元は横幅800ピクセル、、、モニターの2/3程度の画面です。

写真は、朝比奈峠より市内側にある4m幅の道で、、、
古代東海道としても、、、平安期の駅路としては 資格十分の品位(道幅、傾斜、直線性)を持っています。
9m幅の道は??
ほら!
この写真に写って居るんですが、、、
チャンと判る様にします!
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朝比奈切通し3

2006年07月03日 | 切通し
朝比奈切通しが
思いの他に短期間に作れたとなれば、その理由は、、、、
既に前の時代に道が有った事と、その道を改修した事で短期間に出来た訳です。
前の時代の道とは、、、奈良時代の駅路です。
平塚から路面幅9mの道がこの朝比奈に向かい有ったと言う事です。
あれだけの規模の切り通しです。
駅路の道幅9mが、7mに成っても、、文句は言われないでしょう。
それ以上に重要な価値は、、、
1200年以上前の道路遺構が現存しているのが、朝比奈切り通し!!
800年前の鎌倉時代の朝比奈道路遺構を世界遺産にしよう!
そんな事で鎌倉では騒いでいますが、、、
この様な矛盾を正面から見て検証して欲しいと願っています。

ここまで書いたら、、
朝比奈の坂と切り通しは、奈良時代の巨大道路を平安時代に細くして、鎌倉時代に防衛し易い道に改修した。と言う、、根拠!!
要は、古い駅路は何処に隠されたのか?
説明が必要ですね!
説明する図面はこれから書かなくては、、、、、、、、

奈良時代の駅路は平地には真直な道を作った。 山が有ったら、、、どの様な道を作るのか?
前例になる資料は無いに等しい!
図はそんな東海道の道筋です。(素人の与太話!責任は持ちません。)
でも、、現状の遺構に即した話って 面白いでしょ!
それなりに目的地を向いて道が有る!
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朝比奈切通し2

2006年07月02日 | 切通し
朝比奈の歴史について、文献に有るのは、朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り
開いた道という伝説が有り、恐らくこれが一番古い文献でしょう。
よって、朝比奈切り通しは、鎌倉時代に作られたと思われている。
どんな土地にも平等に、平安、奈良の時代は有ったし、縄文時代も有ったのです。
文献に無いからと、、それ以前を無視するのは如何な物か??
朝比奈三郎は、どの様な道を作ったのか?
今有る、峠より鎌倉市内に向けての道は4m程の道幅が有ります。
六浦に向けての道は、3m程の道です。
平安時代の東海道駅路としても通用する幅ですね。
さて、問題は朝比奈大切り通しの岩壁の幅は7m有ります。
あんな巨大な切通しを、、誰が作ったのでしょう?
朝比奈三郎義秀?
悪い冗談は止めてください。
工事が遅れて、主人が馬に乗り使用人の先頭に立って工事を急いだと文献に有ります。
余裕が無く急ぐ工事ですから、、、
4mの道幅なら、4mの切り通しを作る筈です。
流暢に手間の掛かる 7m幅の巨大切通し等、、、作る訳がない!!
いや、、、鎌倉時代の道ならば、、大仏と同様に2mでも良いはずです。
大仏のバリケードで書いた危機感が有れば、、こんな無駄は間違ってもやらない。
続く、、、、
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