鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 8

2021年07月18日 | 鎌倉時代の波打ち際

現代の地図と明治初期の地図を重ね合わせてみましょう。

上図 重ね合わせた地図より、
砂山の三角点11.53mの場所は、国道134号線に削り取られた状況を示します。

下の写真は現代の状況です。

写真で緑に写る公園が由比ヶ浜南遺跡となります。

> 有鄰  第 430 号 H15/9/10発行
>    以下は 記事の抜粋です。 
> [座談会]中世鎌倉の発掘 仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> 
> 由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。
> この遺跡の発掘調査は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。
> 
> 齋木氏:大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。
> この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りませ
> んが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。
> 門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木み
> たいに太い角材を使っています。
> 
> 屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
> 屋敷の西側土塁の外には木組み護岸の河川が流れて、その西には御成小学校
> の前を通る今小路に真っ直ぐに延びて行く、丁寧に造られた道路があります。
> 
> この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって
> いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。
> 防御的な屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。

 

その防御施設の場所とは、砂丘の崖に相当する場所と考えられます。

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鎌倉時代の波打ち際 7

2021年07月12日 | 鎌倉時代の波打ち際

「鎌倉時代の波打ち際6」を書いたのは2018年でした。
古い時代のデーター探しですが、
現代の地図データで納得してしまいます。
例えば1970年代の地図

これで、ある程度の地形は掴めますが、微妙な事は判らない
近頃は、この微妙な高低差を示す地図が有ります。


此れなら納得でしょ??
こんな処で結論に成っていたのです。
古い地図は明治15年に造られた迅速図と言うのが有ります。

古い分、適当な地図と考えて居ましたが、、
詳細な地図が存在し、 今回見つかりました。

如何でしょうか、
見どころは、海に注ぐ滑川の脇に砂丘が明確に記載されている。
三角点も有り、標高11.53m となっています。
等高線も5mと10mが描かれています。
その価値は何でしょうか??

高低差を示す現代の地図は、ドンナニ正確でも、過去の状態ではない。
この場所は関東大震災で津波が押し寄せた場所です。
長谷駅の周辺の坂の下は津波で全滅した。 
過去の地震では大仏近くまで津波が来た話も有ります。

 
写真は、関東大震災で津波が襲った坂の下や稲瀬川、奥の微妙に高い場所が砂丘です。

その様な訳で、宅地を造成する時は、必ず盛土をしたと想定し、
現代の地図には、屋敷を想定した四角い盛り上がりがある。
明治の地図には、砂丘が書かれ、其の砂丘は由比ヶ浜南遺跡の石防塁が有る場所! 
そして、等高線5mの先は「鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘8」の場所へ、、
由比ヶ浜は、平坦な砂浜では無い証明です。

更に高低差のある場所が砂浜に存在し防塁が存在した訳です。

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