■ 記 07月24日 化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その1
銭洗い弁天周囲の旧道は 2019年の台風により一部は崩れ、現在は通行止めです。(2024年記)
古代東海道、その道幅は9mの巨大道路であった!
今から50年前の日本の道事情は、一車線の道が常識で、鎌倉周辺の二車線の道は6m幅の国道一号のみ!
その道と比較すれば、余裕を持って二車線の作れる古代道は巨大な道! っとイヤでも実感できる。
現代の車社会の人間にとって 道幅9mは通常の見慣れた道です。
今の人には、感動も実感も湧かない巨大9m幅道路です。
知識として知っていても、実感として解らないギャップが起きる。
実感からモノの見方や考え方を含め、様々な情報を切り捨てたのが知識です。
知識に振り回され、自分の考えや表現の部分が消える。
知識から実感へ! 是非レベルアップして欲しいと願っています。
さて、道の話ですが、
巨大道路遺構を実感して貰うには、、一般的な昔から在る道を歩いて貰うのが一番です。
そんな訳で、
今の鎌倉は道も近代化され、そんな道は限られますが、、
お勧めの道として、銭洗いの道を紹介します。
とりあえずは、地図と写真です。
銭洗い弁天を巻くように、赤い点を記した処が小道です。
銭洗いのトンネルから入る道は、戦中に葛原ヶ岡に砲台を作る為に切り開いた道でその後トンネルを作った。
謂わば、トンネルの道は裏門に相当する。
■ 記 2007年07月26日 化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その2
写真は銭洗い表口から登っていく様子。
銭洗い弁天の表口(トンネルは戦後作った裏口)から、葛原ヶ岡や、化粧坂上に行く道で銭洗弁天の脇を巻いて登ります。
現在、銭洗いの境内に入ろうとすると、手堀のトンネルを抜けて境内に入ります。これは、昭和に作られた出入り口で裏口ですね!
トンネルから銭洗い弁天に入ろうとした方は、此処で思い止まって貰い、50m上に登った場所から、この古来から在る小道に入って銭洗い正面に出て欲しい!
帰りは、裏のトンネルから出て源氏山公園へ!
きっと、数百年の歴史(800年と言いたい!)を持つ道で、鎌倉でも希少な情緒ある道です。
若宮大路や小町通りが鎌倉の歴史を しのばせる道ではありません。
確かに歴史は在るでしょうが、、、メジャーな分、現代的に作り代えられた道です。
是非、、イニシエの鎌倉を歩いて堪能してください。
■ 記 2007年07月28日 化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その3
江戸時代から戦後(昭和30年代)まで引き続いた道の感覚と 現代の道の感覚のギャップは、、、とても差があります。
明治時代 外から鎌倉へ入る時、一番通り易い道が、、、大仏の切通しで有った事実を重く受け止めて欲しい。
そんなギャップをこの小道を歩く事で感じて欲しいのです。
きっと、
江戸時代は、佐助稲荷、銭洗い弁天、葛原ヶ岡神社から化粧坂への観光コース的なメイン道路で有ったろうと、想像しています。
昔の鎌倉の道を知っている者として、これでも歩きやすく整備が行き届いた良い道です。
50年前の鎌倉の山道は大半がこの様な道で、この道を基準にすれば 大仏切通しではこの道の3倍程の広さがありますね!荷車程度は通せる道幅と勾配が街道の証しです。
銭洗いの小道では、間違っても「荷車を通そう!」とは思わない。
この様な道から比較すれば、如何に「大仏切通し」が立派か!!
更にそれ以上の道幅の化粧坂や、朝比奈の道は大きく立派であったか!
この様な比較が出来るという事が、単なる知識でなく実感で理解するという事です。
もっとも、今の化粧坂は、観光公害で崩れ放題!立派な道とは考えられませんが下段の路面はとても滑らかでタタキ路面が残っているのかもしれません。
その立派な化粧坂でも古代東海道には狭すぎて、役不足です。
■ 記 2007年07月30日 化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その4
鎌倉の峠や切通しの中で、古代東海道にフサワシイ幅の場所は?
その問いに、筆頭は朝比奈の切通し、その次は、化粧坂!
3番目は、、ドングリの背比べで、、、立派な道は無かった。
この様子は、「大仏切通し」で書きましたが、、、、
明治時代に一番使い勝手の良い道は、大仏切通しで、人力車が一台通れる幅の道で、、その後、広げて人力車がすれ違える様に広げたという記録がある。
古代官道の痕跡と考えられる朝比奈切通しと化粧坂は、別格ですが、、、
それでも、朝比奈は江戸時代に補修しなければ通れない状態。
化粧坂より、大仏の方が通りやすい状態であった訳です。
亀ヶ谷では、自転車に乗って登るのは不可で、降りようものなら、、、自殺行為!
巨袋呂坂と極楽寺坂を使わずに大仏坂を使った理由は、人力を通す状態ではなかったと解釈しています。これが鎌倉街道の実態です。
それに比べ、、、
地方に行くと、鎌倉街道は6m!なんて言う話を疑問に思いませんか?
それは、鎌倉以前に作られた官道(伝路や平安駅路)を鎌倉街道に使い回した道では?
その様な道は、発掘例を見ると側溝が有ったり路面に硬化面が有ったり!
それって、古代道の特長だったのでは???
鎌倉時代にも使われ続けた駅路も「鎌倉街道」で、、
鎌倉時代に武士が作ったオリジナルな鎌倉街道の区別が無い訳です。
それだけ、学術研究者の頭が混乱していると 理解しています。
鎌倉の「本家本元の鎌倉街道が2~3mなのに、、、なぜ地方の鎌倉街道は広い?」
と言う答えは、そんな処であろうと、私は思う!
■ 記 2007年08月02日化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その5
1994年 静岡市曲金北遺跡 道幅9m、側溝の中心間12mの道路遺構を発見。
2001年平塚「構之内遺跡」は両溝中心間は12m、古代の東海道だと思われる。
2004年平塚「東中原E遺跡」で、奈良時代~平安時代の東海道と見られる遺構を確認した。
側溝の間隔は約9.7m
(ぼ輔注釈)
平塚「構之内遺跡」と「東中原E遺跡」は数Kmのはんいであり、同じ延長線上にある。
構之内遺跡周辺は「国厨」と墨書された奈良時代の土器が出土し、国府の根拠となる。
官衙施設周辺の「構之内遺跡」は、立派な12mで、国府から少し離れた「東中原E遺跡」は、
微妙に狭い9.7mなんて、、、官僚のやりそうなことですが、、、
この辺りも、中路規格の裁量とか、程度の揺れが有るのだな~っと感じます。
古代の駅路の特徴は、
①道路は側溝がある
②硬化面の存在がある。
③基本的に目的地に向け、可能な限り直線で作られる
④道路幅は中路9m(3丈)、大路12m(4丈)の規格があり、東海道は中路と指定されている。
②硬化面の存在がある。
③基本的に目的地に向け、可能な限り直線で作られる
④道路幅は中路9m(3丈)、大路12m(4丈)の規格があり、東海道は中路と指定されている。
2007年にて、古代東海道の出土は平塚市内の遺跡と静岡市曲金北遺跡のみです。
「東中原E遺跡」の見学会で、調査団体は「この古代道の想定経路は、川を渡り、
茅ヶ崎から北上し、海老名に向かう」と考えている様ですが、、、
その根拠は、次のホームページに書かれた事のようですね。
第9回 温故館日誌 文化財探求講座「古代の道」
http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1176683383881/
> (3月21日)文化財探求講座「古代の道」より抜粋
> (6)海老名市域で検出された古代道路について
> 海老名市望地で発見された道路遺構は、浜田駅想定地との関係から『延喜式』
> 駅路と想定される。規模等から、当初伝路であったものが駅路となったもの
> と考えられる。
> 社家宇治山遺跡で発見された道路遺構も駅路には当たらないが、『延喜式』駅
> 路のほぼ延長線上にあり、伊勢原・秦野を経て足柄に通じる古道であった可能性
> が考えられる。
しかし、茅ヶ崎から北上したのでは、、古代駅路の直進性を否定する事になる。
海老名市域で検出された古代道路は、道路幅が狭すぎる。
初期古代東海道は、東京湾を渡り上総に向かう事になっている。
以上の事で、「茅ヶ崎から北上し、海老名に向かう」説をぼ輔は否定します。
皆さんは、、どの様に考えるのでしょうか??
■ 記 2007年08月08日 再考 化粧坂 その1
S字カーブ
化粧坂は、古代駅路のセオリー破りのS字カーブに問題があります。
極端なS字カーブの道は、特例として考えてもカーブが急すぎる。
重量物を綱で引っ張り上げるとき、化粧坂のS字カーブは物理的に引き上げる事はできない。
大型トレーラの様に、先頭車両の力で後ろの荷物を引っ張るには、とても大回りしなくては回転できないものです。
祭りの山車を引っ張る状態を見て考えて欲しいのですが、トレーラー以上の大回りを要求されるのです。
化粧坂は道の曲がりが強すぎて、重量物を牛馬や人力などで、引き上げる事を考えたとき全く使えない道です。
奈良に立派な都を作る為、全国に散らばる巨大な資材を運ぶ道、そんな目論見が考えられる道のポリシーにはあわないのです。
奈良時代の東海道や、東山道武蔵路の延長としては、不適格とする根拠です。
一般的には、兵を送る為の軍事目的に道を考える様ですが、、、それだけでは説得力に欠ける。
経済有っての、国作りは今も昔も変わらない。物資が運べなければ国造りの計画路としては、バツ!
写真は化粧坂のカーブ。
■ 記 2007年 2007年08月13日 再考 化粧坂 その2
> 化粧坂 (三品@横浜) さん 2007-08-08 のコメント
> これは想像ですが、今の化粧坂は、鎌倉時代は、敵を迷わせる罠で、本当の化粧坂
> は、違うルートだったのではないかと。
(三品@横浜) さんに先をセカサレている様で、、、(汗)
この写真は化粧坂上で、藤沢方面より、梶原団地より登り、化粧坂上を見たモノです。
頼朝が800年前に仕組んだ、、古代東海道壊滅作戦の痕跡写真です。
この写真を解析しながら話を進めるのですが、、、
ぼ輔が、この風景から古代東海道を見たのです。
何処が道路遺構か判らない???
どの様に見たのか、、、お楽しみに!
■ 記 2007年08月17日 再考 化粧坂 その3
化粧坂の問題です。
奈良時代の東海道駅路を問題にした時、道路遺構が発掘された平塚より藤沢を通り、鎌倉深沢、梶原団地より化粧坂の上までの道は、それなりの太さ(12m幅の道を収納可能)を確保できる場所を通っています。
さて、
化粧坂そのものは、3mの道幅と崖際まで加えれば、5m程の幅が取れる道です。
これでも、鎌倉七口としては、朝比奈口に次ぐ立派さ!
私も初期は、このS字坂が古代東海道の痕跡と思っていました。
しかし、
道は、一貫した考えで作られるモノですが、平塚から梶原団地、化粧坂上まで続いた奈良時代東海道の道作りのポリシーは
化粧坂で崩れてしまう。
道幅が狭すぎるのです。
平塚では、9m幅であり、梶原団地から化粧坂上までは9m幅を確保できるが、化粧坂そのものは、3~5m程度!
朝比奈の条件の最悪な場所でも7mはあります。
これは、不自然の極みです。
化粧坂の道幅は、平安時代駅路として、十分な資格のある古代道です。
多少遠回りでも管理が楽な細い道で、その地域に必要な場所を通る実用的な道路が、平安時代の特徴とされています。
その代わり、、、実用的な分平安時代の駅路は、現代の道に取り込まれ、古い道の特徴は消える。
古い道の歴史は、鎌倉街道と言う名で、一括りにされてしまい道の歴史をアイマイにしている。
いずれにせよ、
道幅の狭さと、S字の急なカーブに問題があり、更に坂の傾斜が強過ぎる。
化粧坂は平安時代の道と考えても、奈良時代の東海道として問題外で不適格。
武蔵大路としても、同様に不適です。
青い点は、ステレオ写真を見やすくする為に付けたものです。
自分の目の瞳孔間を測り、青い点の間を瞳孔間より狭く画像ソフトで縮小して見てください。はじめは青い点が2つ見える状態ですが、遠くを見る感じでボーッと見ると青い点が4つに見える様になります。それを3つに見える様に努力するのですが、、、
すると、真ん中の画像が急に立体的に見えます。
■ 記 2007年08月20日 再考 化粧坂 その4
化粧坂の下に碑があり、古戦場と成っていますが、確かにそこでも戦いがあった筈でしょう。
しかし、主に戦われたのは,天神山脇から、北鎌倉女子グラウンド、貯水場の峰を通る道から鎌倉に入り込む「葛原が岡」辺り、もしくは、梶原団地より、化粧坂の上までが主戦場と考えられます。
防衛ラインは、一番高い場所が定番ですから、
化粧坂を下った碑のある場所が主戦場だったら、、、
もう防衛ラインは破られ幕府兵敗走で、稲村から入った新田軍が挟み討ち状態ですね!
化粧坂上から、外に向けた道が語られない事の不自然さ!(私は梶原団地へ下がる坂を指摘していますが、)その様な化粧坂の疑問と、
本来の奈良時代の化粧坂は別に有るかも知れない、、、、
もっとも、奈良時代に化粧坂の名称が在ったかは、不明ですが、、、、、
『ウィキペディア(Wikipedia)』で化粧坂を検索引用しますと、、
化粧坂化粧坂(けわいざか)は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市扇ガ谷から源氏山公園を結ぶ。
主に武蔵国の国府(現在の府中市・国分寺市)から上野国へ向かう道(上道)の出口と考えられているが、鎌倉時代初期には武蔵国の東の方へ向かう中道、下道もまたここを通った可能性もある。
それが、現在の一般的な見解です。
古代東海道が鎌倉を通過した事など、考慮に無い様です。例え有っても、稲村ヶ崎を通った程度の考えでしょうね!
武蔵の国へは、海蔵寺裏の瓜ヶ谷に切り通しの痕跡が有る事をこのブログで指摘しました。
写真はステレオで見れるでしょうか?
15インチの画面だと、、立体視できると思いますが、大画面だと縮小する必要が有るかもしれません。
立体視する必然性がある場面です!(見れなかった人は、現地で見てください。)
2Dの限界を超えた情報です。立体視できなければ、、、コメントしてください。
■ 記 2007年08月25日化粧坂番外編
> (三品@横浜)さんコメント
> ところが、霊山越えとか、2006-12-04から書かれている稲村路からならば、
> 「階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる」
> ように見えるのです。
> それで、若しかして、化粧坂=極楽寺切り通しでは
> なかったのではないかと想像したのです。
> つまり、「当時、都から鎌倉に入る主街道の名前の無かった坂を慣例で
> 「けわい坂」と呼んだかも」と想像したのです。
他人の見方というのは、、、胸にグサッと来るものですね!
面白いコメントで、、、コメント欄ではもったいない!!
極楽寺坂とか、極楽寺切通しなどと呼ばれますが、、、
古来の切通に相当する場所が不明です。
成就院から星月夜の井辺りが昔の街道筋である記述も多くあります。
すると、この坂は今のV字の切通しではなく、坂は急でも、もっとユルヤカな底辺の広い坂で、街道筋の両側に家が立ち並ぶ状態ではなかったか?? などと想像しています。
そのような「極楽寺坂沿いに段段に家が立ち、山フトコロまで並ぶ様」を「階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる」と書かれたと思っています。
さて、肝心の切通しは、、、
太平記に「明け行く月に敵の陣を見れば、北は切通しにて山高く道さかしく云々」
この様に、江ノ電稲村ガ崎方面から極楽寺に入ると見えた!
これを基に考えると、成就院より更に極楽寺寄りに切通しが有ったと考えます。
今の地形からは、、当時の様子が想像できないで困っています。
関東大地震の時に、極楽寺の拡張した道が崩れ、サーカス団が生き埋めになったそうですが、、、
この場所か?鎌倉の震災写真集が図書館に有ったが、、、、
> 霊山越えが街道で有ったと、、
そんな説も有りますが、、、
稲村路より後の時代に作られた道ならば、、、稲村路より歩きやすく便利なハズです。
でも、、、霊山越えは歩くには困難な道です。
鎌倉城としての、城壁を移動する為に七口を結ぶ道、、、、
その経路は 朝比奈、六国見山、百八ヤグラ、八幡宮裏山、小袋谷、亀が谷、海蔵寺裏の土橋、大仏切通し、一升枡、極楽寺切通し、霊山、稲村ヶ崎!!!
一部はハイキングコースにもなっていますが、、、
霊山越えは、この道の延長の戦略的な道で、街道とは違うものと考えています。
> それで、若しかして、化粧坂=極楽寺切り通しでは
> なかったのではないかと想像したのです。
この女性は、極楽寺に既に参詣した後化粧坂を歩く訳ですから、、、、
一番歩きやすい極楽寺坂を使った事と、極楽寺坂の状況を書いたと考えています。
そして、「化粧坂(けはひざか)といふ山を越え」という文から、誰かにけわい坂の名前を聞いて書いたニュアンスが伝わり、勘違いには思えないのです。
そんな意味で、当時は極楽寺坂を「化粧坂」と呼んでいたのでは、、
っと考えるのです。
波の花が咲くと書かれた稲村路ですが、、、
霊仙ヶ崎の埋め立てる前、、、あそこで波乗りを楽しんだ奴がいた!!
稲村ジェーンの更に昔の話です。
「あそこは、良い波が出来る場所で、、、埋め立て以降波が立たなくなった!」
と言う事です。
話は変わり、
今のサーファーは、寒くなると、ウェットスーツを着るのが当たり前ですが、、、
ウェットスーツを着て冬の海で遊び出したのは、、 ぼ輔が最初です。
そんな話、、誰も興味ない、、、、(汗)