鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

化粧坂 上巻

2014年10月31日 | 切通し
■ 記 07月24日  化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その1
銭洗い弁天周囲の旧道は 2019年の台風により一部は崩れ、現在は通行止めです。(2024年記)
古代東海道、その道幅は9mの巨大道路であった!
今から50年前の日本の道事情は、一車線の道が常識で、鎌倉周辺の二車線の道は6m幅の国道一号のみ!
その道と比較すれば、余裕を持って二車線の作れる古代道は巨大な道! っとイヤでも実感できる。
現代の車社会の人間にとって 道幅9mは通常の見慣れた道です。
今の人には、感動も実感も湧かない巨大9m幅道路です。
知識として知っていても、実感として解らないギャップが起きる。
実感からモノの見方や考え方を含め、様々な情報を切り捨てたのが知識です。
知識に振り回され、自分の考えや表現の部分が消える。
知識から実感へ! 是非レベルアップして欲しいと願っています。
 
さて、道の話ですが、
巨大道路遺構を実感して貰うには、、一般的な昔から在る道を歩いて貰うのが一番です。
そんな訳で、
今の鎌倉は道も近代化され、そんな道は限られますが、、
お勧めの道として、銭洗いの道を紹介します。
 とりあえずは、地図と写真です。
銭洗い弁天を巻くように、赤い点を記した処が小道です。
銭洗いのトンネルから入る道は、戦中に葛原ヶ岡に砲台を作る為に切り開いた道でその後トンネルを作った。
謂わば、トンネルの道は裏門に相当する。
 

 ■ 記 2007年07月26日 化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その2
写真は銭洗い表口から登っていく様子。
銭洗い弁天の表口(トンネルは戦後作った裏口)から、葛原ヶ岡や、化粧坂上に行く道で銭洗弁天の脇を巻いて登ります。
現在、銭洗いの境内に入ろうとすると、手堀のトンネルを抜けて境内に入ります。これは、昭和に作られた出入り口で裏口ですね!
トンネルから銭洗い弁天に入ろうとした方は、此処で思い止まって貰い、50m上に登った場所から、この古来から在る小道に入って銭洗い正面に出て欲しい!
帰りは、裏のトンネルから出て源氏山公園へ!
きっと、数百年の歴史(800年と言いたい!)を持つ道で、鎌倉でも希少な情緒ある道です。
若宮大路や小町通りが鎌倉の歴史を しのばせる道ではありません。
確かに歴史は在るでしょうが、、、メジャーな分、現代的に作り代えられた道です。
是非、、イニシエの鎌倉を歩いて堪能してください。
 
 
■ 記 2007年07月28日  化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その3
江戸時代から戦後(昭和30年代)まで引き続いた道の感覚と 現代の道の感覚のギャップは、、、とても差があります。
 明治時代 外から鎌倉へ入る時、一番通り易い道が、、、大仏の切通しで有った事実を重く受け止めて欲しい。
そんなギャップをこの小道を歩く事で感じて欲しいのです。
きっと、
江戸時代は、佐助稲荷、銭洗い弁天、葛原ヶ岡神社から化粧坂への観光コース的なメイン道路で有ったろうと、想像しています。
昔の鎌倉の道を知っている者として、これでも歩きやすく整備が行き届いた良い道です。
 50年前の鎌倉の山道は大半がこの様な道で、この道を基準にすれば 大仏切通しではこの道の3倍程の広さがありますね!荷車程度は通せる道幅と勾配が街道の証しです。
 銭洗いの小道では、間違っても「荷車を通そう!」とは思わない。
この様な道から比較すれば、如何に「大仏切通し」が立派か!!
更にそれ以上の道幅の化粧坂や、朝比奈の道は大きく立派であったか!
この様な比較が出来るという事が、単なる知識でなく実感で理解するという事です。
もっとも、今の化粧坂は、観光公害で崩れ放題!立派な道とは考えられませんが下段の路面はとても滑らかでタタキ路面が残っているのかもしれません。
その立派な化粧坂でも古代東海道には狭すぎて、役不足です。
 
 
■ 記 2007年07月30日  化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その4
鎌倉の峠や切通しの中で、古代東海道にフサワシイ幅の場所は?
その問いに、筆頭は朝比奈の切通し、その次は、化粧坂!
3番目は、、ドングリの背比べで、、、立派な道は無かった。
この様子は、「大仏切通し」で書きましたが、、、、
 
明治時代に一番使い勝手の良い道は、大仏切通しで、人力車が一台通れる幅の道で、、その後、広げて人力車がすれ違える様に広げたという記録がある。
古代官道の痕跡と考えられる朝比奈切通しと化粧坂は、別格ですが、、、
それでも、朝比奈は江戸時代に補修しなければ通れない状態。
化粧坂より、大仏の方が通りやすい状態であった訳です。
亀ヶ谷では、自転車に乗って登るのは不可で、降りようものなら、、、自殺行為!
巨袋呂坂と極楽寺坂を使わずに大仏坂を使った理由は、人力を通す状態ではなかったと解釈しています。これが鎌倉街道の実態です。
それに比べ、、、
地方に行くと、鎌倉街道は6m!なんて言う話を疑問に思いませんか?
それは、鎌倉以前に作られた官道(伝路や平安駅路)を鎌倉街道に使い回した道では?
その様な道は、発掘例を見ると側溝が有ったり路面に硬化面が有ったり!
それって、古代道の特長だったのでは???
鎌倉時代にも使われ続けた駅路も「鎌倉街道」で、、
鎌倉時代に武士が作ったオリジナルな鎌倉街道の区別が無い訳です。
それだけ、学術研究者の頭が混乱していると 理解しています。
 鎌倉の「本家本元の鎌倉街道が2~3mなのに、、、なぜ地方の鎌倉街道は広い?」
と言う答えは、そんな処であろうと、私は思う!
 
 
■ 記 2007年08月02日化粧坂の前に! 銭洗いの小道 その5
1994年 静岡市曲金北遺跡 道幅9m、側溝の中心間12mの道路遺構を発見。
2001年平塚「構之内遺跡」は両溝中心間は12m、古代の東海道だと思われる。
2004年平塚「東中原E遺跡」で、奈良時代~平安時代の東海道と見られる遺構を確認した。
側溝の間隔は約9.7m
(ぼ輔注釈)
平塚「構之内遺跡」と「東中原E遺跡」は数Kmのはんいであり、同じ延長線上にある。
構之内遺跡周辺は「国厨」と墨書された奈良時代の土器が出土し、国府の根拠となる。
官衙施設周辺の「構之内遺跡」は、立派な12mで、国府から少し離れた「東中原E遺跡」は、
微妙に狭い9.7mなんて、、、官僚のやりそうなことですが、、、
この辺りも、中路規格の裁量とか、程度の揺れが有るのだな~っと感じます。
古代の駅路の特徴は、
 ①道路は側溝がある
 ②硬化面の存在がある。
 ③基本的に目的地に向け、可能な限り直線で作られる
  ④道路幅は中路9m(3丈)、大路12m(4丈)の規格があり、東海道は中路と指定されている。
 
2007年にて、古代東海道の出土は平塚市内の遺跡と静岡市曲金北遺跡のみです。 
「東中原E遺跡」の見学会で、調査団体は「この古代道の想定経路は、川を渡り、
茅ヶ崎から北上し、海老名に向かう」と考えている様ですが、、、
その根拠は、次のホームページに書かれた事のようですね。
 
第9回 温故館日誌 文化財探求講座「古代の道」
http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1176683383881/
> (3月21日)文化財探求講座「古代の道」より抜粋
> (6)海老名市域で検出された古代道路について
>  海老名市望地で発見された道路遺構は、浜田駅想定地との関係から『延喜式』
> 駅路と想定される。規模等から、当初伝路であったものが駅路となったもの
> と考えられる。
> 社家宇治山遺跡で発見された道路遺構も駅路には当たらないが、『延喜式』駅
> 路のほぼ延長線上にあり、伊勢原・秦野を経て足柄に通じる古道であった可能性
> が考えられる。
 
しかし、茅ヶ崎から北上したのでは、、古代駅路の直進性を否定する事になる。
海老名市域で検出された古代道路は、道路幅が狭すぎる。
初期古代東海道は、東京湾を渡り上総に向かう事になっている。
以上の事で、「茅ヶ崎から北上し、海老名に向かう」説をぼ輔は否定します。
皆さんは、、どの様に考えるのでしょうか??
 
 
■ 記 2007年08月08日  再考 化粧坂 その1
S字カーブ
化粧坂は、古代駅路のセオリー破りのS字カーブに問題があります。
極端なS字カーブの道は、特例として考えてもカーブが急すぎる。
重量物を綱で引っ張り上げるとき、化粧坂のS字カーブは物理的に引き上げる事はできない。
大型トレーラの様に、先頭車両の力で後ろの荷物を引っ張るには、とても大回りしなくては回転できないものです。
祭りの山車を引っ張る状態を見て考えて欲しいのですが、トレーラー以上の大回りを要求されるのです。
化粧坂は道の曲がりが強すぎて、重量物を牛馬や人力などで、引き上げる事を考えたとき全く使えない道です。
奈良に立派な都を作る為、全国に散らばる巨大な資材を運ぶ道、そんな目論見が考えられる道のポリシーにはあわないのです。
奈良時代の東海道や、東山道武蔵路の延長としては、不適格とする根拠です。
一般的には、兵を送る為の軍事目的に道を考える様ですが、、、それだけでは説得力に欠ける。
経済有っての、国作りは今も昔も変わらない。物資が運べなければ国造りの計画路としては、バツ!
写真は化粧坂のカーブ。
 

 ■ 記 2007年 2007年08月13日  再考 化粧坂 その2
> 化粧坂 (三品@横浜) さん 2007-08-08 のコメント
>  これは想像ですが、今の化粧坂は、鎌倉時代は、敵を迷わせる罠で、本当の化粧坂
>  は、違うルートだったのではないかと。
 
(三品@横浜) さんに先をセカサレている様で、、、(汗)
この写真は化粧坂上で、藤沢方面より、梶原団地より登り、化粧坂上を見たモノです。
頼朝が800年前に仕組んだ、、古代東海道壊滅作戦の痕跡写真です。
この写真を解析しながら話を進めるのですが、、、
ぼ輔が、この風景から古代東海道を見たのです。
何処が道路遺構か判らない???
どの様に見たのか、、、お楽しみに!
 
 
■ 記 2007年08月17日   再考 化粧坂 その3
化粧坂の問題です。
奈良時代の東海道駅路を問題にした時、道路遺構が発掘された平塚より藤沢を通り、鎌倉深沢、梶原団地より化粧坂の上までの道は、それなりの太さ(12m幅の道を収納可能)を確保できる場所を通っています。
さて、
化粧坂そのものは、3mの道幅と崖際まで加えれば、5m程の幅が取れる道です。
これでも、鎌倉七口としては、朝比奈口に次ぐ立派さ!
私も初期は、このS字坂が古代東海道の痕跡と思っていました。
しかし、
道は、一貫した考えで作られるモノですが、平塚から梶原団地、化粧坂上まで続いた奈良時代東海道の道作りのポリシーは
化粧坂で崩れてしまう。
道幅が狭すぎるのです。
平塚では、9m幅であり、梶原団地から化粧坂上までは9m幅を確保できるが、化粧坂そのものは、3~5m程度!
朝比奈の条件の最悪な場所でも7mはあります。
これは、不自然の極みです。
化粧坂の道幅は、平安時代駅路として、十分な資格のある古代道です。
多少遠回りでも管理が楽な細い道で、その地域に必要な場所を通る実用的な道路が、平安時代の特徴とされています。
その代わり、、、実用的な分平安時代の駅路は、現代の道に取り込まれ、古い道の特徴は消える。
古い道の歴史は、鎌倉街道と言う名で、一括りにされてしまい道の歴史をアイマイにしている。
いずれにせよ、
道幅の狭さと、S字の急なカーブに問題があり、更に坂の傾斜が強過ぎる。
化粧坂は平安時代の道と考えても、奈良時代の東海道として問題外で不適格。
武蔵大路としても、同様に不適です。
 
青い点は、ステレオ写真を見やすくする為に付けたものです。
自分の目の瞳孔間を測り、青い点の間を瞳孔間より狭く画像ソフトで縮小して見てください。はじめは青い点が2つ見える状態ですが、遠くを見る感じでボーッと見ると青い点が4つに見える様になります。それを3つに見える様に努力するのですが、、、
すると、真ん中の画像が急に立体的に見えます。
 
 
■ 記 2007年08月20日  再考 化粧坂 その4
化粧坂の下に碑があり、古戦場と成っていますが、確かにそこでも戦いがあった筈でしょう。
しかし、主に戦われたのは,天神山脇から、北鎌倉女子グラウンド、貯水場の峰を通る道から鎌倉に入り込む「葛原が岡」辺り、もしくは、梶原団地より、化粧坂の上までが主戦場と考えられます。
防衛ラインは、一番高い場所が定番ですから、
化粧坂を下った碑のある場所が主戦場だったら、、、
もう防衛ラインは破られ幕府兵敗走で、稲村から入った新田軍が挟み討ち状態ですね!
化粧坂上から、外に向けた道が語られない事の不自然さ!(私は梶原団地へ下がる坂を指摘していますが、)その様な化粧坂の疑問と、
本来の奈良時代の化粧坂は別に有るかも知れない、、、、
もっとも、奈良時代に化粧坂の名称が在ったかは、不明ですが、、、、、
 
『ウィキペディア(Wikipedia)』で化粧坂を検索引用しますと、、
化粧坂化粧坂(けわいざか)は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市扇ガ谷から源氏山公園を結ぶ。
主に武蔵国の国府(現在の府中市・国分寺市)から上野国へ向かう道(上道)の出口と考えられているが、鎌倉時代初期には武蔵国の東の方へ向かう中道、下道もまたここを通った可能性もある。
 
それが、現在の一般的な見解です。
古代東海道が鎌倉を通過した事など、考慮に無い様です。例え有っても、稲村ヶ崎を通った程度の考えでしょうね!
武蔵の国へは、海蔵寺裏の瓜ヶ谷に切り通しの痕跡が有る事をこのブログで指摘しました。
 
写真はステレオで見れるでしょうか?
15インチの画面だと、、立体視できると思いますが、大画面だと縮小する必要が有るかもしれません。
立体視する必然性がある場面です!(見れなかった人は、現地で見てください。)
2Dの限界を超えた情報です。立体視できなければ、、、コメントしてください。
 
 
■ 記 2007年08月25日化粧坂番外編
> (三品@横浜)さんコメント
>  ところが、霊山越えとか、2006-12-04から書かれている稲村路からならば、
> 「階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる」
> ように見えるのです。
>  それで、若しかして、化粧坂=極楽寺切り通しでは
> なかったのではないかと想像したのです。
>  つまり、「当時、都から鎌倉に入る主街道の名前の無かった坂を慣例で
> 「けわい坂」と呼んだかも」と想像したのです。
 
他人の見方というのは、、、胸にグサッと来るものですね!
面白いコメントで、、、コメント欄ではもったいない!!
 
極楽寺坂とか、極楽寺切通しなどと呼ばれますが、、、
古来の切通に相当する場所が不明です。
成就院から星月夜の井辺りが昔の街道筋である記述も多くあります。
すると、この坂は今のV字の切通しではなく、坂は急でも、もっとユルヤカな底辺の広い坂で、街道筋の両側に家が立ち並ぶ状態ではなかったか??  などと想像しています。
そのような「極楽寺坂沿いに段段に家が立ち、山フトコロまで並ぶ様」を「階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる」と書かれたと思っています。
 
さて、肝心の切通しは、、、
太平記に「明け行く月に敵の陣を見れば、北は切通しにて山高く道さかしく云々」
この様に、江ノ電稲村ガ崎方面から極楽寺に入ると見えた!
これを基に考えると、成就院より更に極楽寺寄りに切通しが有ったと考えます。
今の地形からは、、当時の様子が想像できないで困っています。
関東大地震の時に、極楽寺の拡張した道が崩れ、サーカス団が生き埋めになったそうですが、、、
この場所か?鎌倉の震災写真集が図書館に有ったが、、、、
 
> 霊山越えが街道で有ったと、、
そんな説も有りますが、、、
稲村路より後の時代に作られた道ならば、、、稲村路より歩きやすく便利なハズです。
でも、、、霊山越えは歩くには困難な道です。
鎌倉城としての、城壁を移動する為に七口を結ぶ道、、、、
その経路は 朝比奈、六国見山、百八ヤグラ、八幡宮裏山、小袋谷、亀が谷、海蔵寺裏の土橋、大仏切通し、一升枡、極楽寺切通し、霊山、稲村ヶ崎!!!
一部はハイキングコースにもなっていますが、、、
霊山越えは、この道の延長の戦略的な道で、街道とは違うものと考えています。
 
> それで、若しかして、化粧坂=極楽寺切り通しでは
> なかったのではないかと想像したのです。
 
この女性は、極楽寺に既に参詣した後化粧坂を歩く訳ですから、、、、
一番歩きやすい極楽寺坂を使った事と、極楽寺坂の状況を書いたと考えています。
そして、「化粧坂(けはひざか)といふ山を越え」という文から、誰かにけわい坂の名前を聞いて書いたニュアンスが伝わり、勘違いには思えないのです。
そんな意味で、当時は極楽寺坂を「化粧坂」と呼んでいたのでは、、
っと考えるのです。
 
波の花が咲くと書かれた稲村路ですが、、、
霊仙ヶ崎の埋め立てる前、、、あそこで波乗りを楽しんだ奴がいた!!
稲村ジェーンの更に昔の話です。
「あそこは、良い波が出来る場所で、、、埋め立て以降波が立たなくなった!」
と言う事です。
 
話は変わり、
今のサーファーは、寒くなると、ウェットスーツを着るのが当たり前ですが、、、
ウェットスーツを着て冬の海で遊び出したのは、、 ぼ輔が最初です。
   そんな話、、誰も興味ない、、、、(汗)
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化粧坂 中巻

2014年10月31日 | 切通し
■ 記 2007年08月26日  再考 化粧坂 その5

如何ですか?
平塚から梶原団地、化粧坂上まで続いた奈良時代東海道は、、、
化粧坂を下らず、、頼朝像へ直進していた痕跡がある!
その証拠が、写真で見るフラットであるッと指摘した場所です。

写真だけの映像と、、、
写真を超えた立体視の世界の情報量の差は実感できたでしょうか?
モットモ、、、、
現場を見ても、、、見方と注意力が無いと、、、
この様には考えない様ですが。
単なる知識でなく、、、、
モノの見方、考え方、実感を伴った理解をして欲しいと願っています。
図面にすれば、、ご理解いただけると思ったのですが、、、
如何ですか?


■ 記 2007年09月03日  再考 化粧坂 その6


化粧坂上は尾根筋で、道を特定するのは簡単ですが、源氏山公園の頼朝像周辺は広場になっている。この周囲は、道の痕跡は一つでは無い!!
問題は先送りして、
取り合えず、、、化粧坂上を通過する事を考えましょう。
この図面で、古代東海道の痕跡と、化粧坂上の概要は掴めたと思います。

誰が、化粧坂を作ったか?
そんな文献は有りません。 
化粧坂は鎌倉時代の道幅としては広いので 平安時代から在った可能性と、鎌倉時代も使われたと ぼ輔考えています。
メインの古代東海道の話は、、、
これからが ヤマ場!
どれだけ、、、納得してイタダケルカ?
ぼ輔の理屈の見せ所!!!

話は少し横道に入り、奈良時代の文献についてです。
ドンナ文献か?  それは、
「私は貴方が好きです!だから、待っていてください」っと言う内容です。
古代東海道の関係は 如何に???
今度は国文学の常識に横槍をいれる事に、、、(汗)

■ 記 2007年09月10日 奈良時代の文献 1

化粧坂についての奈良時代の文献など、、有るヨウナ、、、無い様な、、、、
奈良時代の希少な文献で、万葉集というのが有ります。
地方から、大和国防衛軍として九州に旅発つ人が歌を詠む
そんな防人の歌が多く載った本です。
その中に鎌倉で詠まれたモノがあり 問題にしたい歌の紹介です。

本文: 可麻久良乃、美胡之能佐吉能、伊波久叡乃、伎美我久由倍伎、己許呂波母多自、
読み: かまくらの  みこしのさきの   いわくえの   きみがくゆべき  こころはもたじ

ひら仮名が無い奈良時代の文章は、写真の状態で、それでも後世の人が脇にカタカナを
振って読み易くしてある。
現代になり、更なる読みやすさを求め「ひらがな」と「意味を持つ漢字」を当てました。
 これを訳と言います。
訳 : 鎌倉の見越しの崎の、岩崩(いはくえ)の、君が悔ゆべき、心は持たじ
      っと  こんな処が一般的に述べられた訳です。
「訳」とは、オリジナルな歌ではなく後世人の解釈を加えた物です。
解釈を加えた分、、、オリジナルな処が消え、異質になる!
正確に訳されたでしょうか?
読みと訳を対比する限り、、、間違えがある様に思えない!!!
そこが、、、、落とし穴!
この時点で、落とし穴を見つけた人は尊敬に値する!


■ 記 2007年09月13日  奈良時代の文献 2

訳 : 鎌倉の見越しの崎の、岩崩(いはくえ)の、君が悔ゆべき、心は持たじ
この訳は一般に流布している様で、、、問題を起こしている。

見越しの崎とは? 現在の鎌倉に相当する名称の岬は有りません。
では、何処だ?
腰越の小動ヶ崎説、稲村ガ崎説、甘縄神社の裏山説。
この様に説があり、解釈は混乱しています。
何故混乱するのでしょうか??? その元凶に、訳の間違いは無いのか?

この歌は防人に行く男か?見送った女性?が鎌倉で詠んだと想像できますが。
問題は、詠んだ場所は何処だ!
別れを惜しんで、鎌倉の外れまで見送った状況が感じられます。
当時の都へ行く道は、古代東海道と考えられます。
しかし、、、、、
化粧坂を登り、梶原団地に行く通路の何処にも稲村ガ崎、腰越の小動ヶ崎、甘縄神社裏山の見越ヶ嶽が見える処は無いのです。

古道で見える処があれば、古代東海道が通っていた根拠になりえる!

写真は、化粧坂上にある、古代駅路の特徴(側溝、硬化路面、道幅直進性)の一つ、硬化路面と考えられる地層。
半分から上が積層された硬化路面状態、半分から下は積層状態が無い鎌倉地帯特有の砂岩です。
だったら、、ここが古代東海道跡???
それ程、、、単純な話でもない!


■ 記 2007年09月19日  奈良時代の文献 3

この周辺で、御輿ヶ岳の見える処は、、、有りますが、、、
そこは、、、源氏山公園の頼朝像のある場所!
さて、その場所で万葉集を読み返しましょう!

読 み :かまくらの みこしのさきの いわくえの きみがくゆべき こころはもたじ
一般訳:鎌倉の 見越しの崎の、岩崩(いはくえ)の、君が悔ゆべき、心は持たじ
ぼ輔訳:鎌倉の 見越しの「先」にある 霊仙ガ崎や、稲村ガ崎の岩崩れの様に、君を後悔させる心はありません。

源氏山公園の頼朝像前からの画像を見て、、如何ですか?
甘縄神社 社殿の裏山は、御興ケ嶽(見越ケ岳)と呼ばれているそうです。
御興ケ嶽が見え、その先に霊山山がある。
霊山のふもとから霊仙ガ崎や、稲村ガ崎に掛けての岩崩れが在るでしょう?
ぼ輔の訳なら、、、何の矛盾も無い。
源氏山公園の頼朝像のある場所は、その様な場所であり、
防人に行く男と見送る女性は、この場所で別れを惜しんだことになる。
っと考え、
写真を撮りに源氏山公園に行った処、、、見えない!
海も見えなきゃ、見越ヶ嶽も、稲村ガ崎も、、、何にも見えない!!
木が生い茂り壁になっている。

その様な訳で、カシミールと呼ぶ地図ソフトで、バーチャルな作図をしました。
結論は、万葉時代 源氏山の際に古代東海道があり、この場所で別れを惜しんだと言う根拠の文献があります! っと言う事です。
見越ヶ嶽と岩崩れの場所を同じ場所と解釈し、岬でもない見越ヶ嶽を見越ヶ崎と捏造した為に、国文学者は矛盾を作り、解釈に混乱を招いた!

注・・・見越しヶ岳は、色々な字を当てて居るようで、、、
ぼ輔も、読みが同じなら良かろう! そんな考えが文章に反映して見越ヶ岳、御輿ヶ嶽、など書き方に一貫性が無い状態で申し訳ありません。


■ 記 2007年09月30日  奈良時代の文献 4

この記事の名誉の為に、、、
バーチャルな画像で誤魔化した訳ではありません! っと言う証拠です。
写真の赤く染めた場所が源氏山公園です。

「奈良時代の文献 3」のコメントも見て下さい。(T.M.@横浜)さんが写真を送ってくれました。
たなごっち(北霞漁協雑魚部広報課)サンのブログに東海道の痕跡と思われる写真があります。

山のテッペンに登れば、、、見晴らしの良さを期待する!そんなのは、当たり前!!
この緑の壁は、人の期待を完璧に裏切る景観です。
1970年代は、周囲の木は低く、見晴らしが良かったのです!
今では手入れを故意にやらず、木は伸び放題で、視界は断たれた!
切通しも木の根で破壊が始まっているようです。 過剰な自然保護による、、景観破壊!!!
もっとも、鎌倉市役所でもこの辺りの問題にしているようです。
公園の伸びよ放題の木の手入れをして貰えれば嬉しいのですが、、、


■ 記 2007年10月05日  古代駅路「源氏山」編

取りあえず、、、
今までの経過の地図を載せて、、、みました。
D点は、八幡様から巌谷小路へ抜け、寿福寺の前にでた場所です。
E点は化粧坂。
そして、梶原団地のS字坂下の古代東海道の経路です。
何を言い出すのか??予想してください。
早い話が、、、
D点と化粧坂上を直線で結ぶ!
なんですがね、、、
趣向はソンナモンジャない!
これからが、話の山なんです。
昔は、山師と言いまして、、大半が嘘のデカイ話をする!
山師ー鉱脈を探して一山当てよう! っと言う人で、
ぼ輔は、源氏山師!
考古学者の方は、是非見てください。
土を掘り返すのが、馬鹿らしくなるぐらい 笑えますよ~!

地図は 国土地理院1:10000地形図(横須賀5-3-3)を参照
「鎌倉街道を探そう」ダイジェストは 


■ 記 2007年10月15日  古代駅路「源氏山」編 その2

今回が、源氏山にまつわる話のピークですが、、、
踏み切りがあるD点より、英勝寺へ行く道は墓地を抜けて源氏山へ、、、
寿福寺の南脇を通るハイキングコースは、源氏山東斜面を抜けて英勝寺墓地上で上記の道に合流する。
私が毎年初詣に使う道ですが、今年になって、その道の異常さに気が付いたのです。

写真を見て、その道の路面の状態を不思議に思いませんか?
化粧坂の貝殻混じり砂岩路面とは異質のモノです。
朝比奈道の鎌倉特有な岩の路面とも違います。
現代的な砂利道ではありません。
では、、何でしょう???

無理やり結論を出せば、、、笑うしかないのですが!

地図は 国土地理院1:10000地形図(横須賀5-3-3)を参照


■ 記 2007年10月17日  古代駅路「源氏山」編 その3

(古代駅路「源氏山」編 その2)のコメント
> 高射砲 (T.M.@横浜) 2007-10-16 22:18:13
> 戦争中は、源氏山に高射砲の陣地があったそうですが、何か関係ありますか?
高射砲の陣地の話は、初めて聞きました。
調べたら、銭洗い裏口のトンネル脇の広い道は、その為に作られた道で、そのまま葛原が岡に続きますが、高射砲陣地の場所が特定できません。
言葉通りに源氏山に高射砲の陣地があったとすると、化粧坂上をトラックが通過できても、頻繁に使うには厳しいものがある。陣地であれば、化粧坂上をもっと通りやすく改造したと考えます。それと、頼朝像周辺に砲台を埋め立てたと思われる平坦な場所が無い。
日野俊基の墓周辺に相応な平地があり、基地を作ったかも?と想像しますが、、、

この周辺の二次大戦遺構は、江ノ島、稲村ガ崎、披露山等、構造物はセメントを使用しています。
そんな訳で、
戦時中の工法は、セメントが主体であったと考えています。
道路舗装もアスファルト舗装など、原油不足で論外でしょうね。
道路も、戦後間もない時期は、セメント舗装でした。
それを考える前に、砂利道が道路の大半でしたが、、、

話は本筋に戻し、源氏山の路面の写真はいかがですか?
決して、自然な路面ではなく、人工的に手を入れた路面です。
それが証拠に路面の真ん中にラインがあり、道の曲がりに合わせてラインも曲がる!
この不自然な中央線が、人工的に作られた路面の証拠です。
何故こんなラインが在るのでしょうか?
この道路の舗装は、セメントでなければ、、、何でしょう?
そして、
作られた時期は?


■ 記 2007年10月25日  古代駅路「源氏山」編 その4

前回の{古代駅路「源氏山」編 その3}にある道路の人工舗装面と中央線は、どんな状態であるか?
 まずは、どの様な範囲で在るのか? それから始めるのですが、
それを、図示したのが今回の地図です。
赤いラインと青いたラインは、それぞれが、舗装面を持つ道です。
その赤と青が一つの道に合わさった処B点とD点の間に中央ラインがあります。
さて、、
ここで問題が発生するのですが、B点より頼朝像側は、二股に分かれている!
なお、D点より寿福寺側でも二股に分かれる!
これは、、、何を意味するものか?
結論を急ぐ事はない。 
必要なのは、結論を出す以前に、もっと詳しく調べる必要がある。
この人工舗装の路面は、どの様な工法で作られたのか?
作ったとすれば、何時の時期に作られたのか?
少なくとも、戦後のコンクリートや、アスファルトではない。
明治以降から戦後の地元民しか使わない道を、大規模な舗装をするとは考えられない。
今あるぼ輔の結論は、明治より古い道であろう!  っと考えるのです。
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化粧坂 下巻

2014年10月31日 | 切通し
■ 記 2007年11月05日  古代駅路「源氏山」編 その5

古代駅路「源氏山」の路面の話です。
現代のセメントは、1824年イギリスで発明され、200年弱です。
何百年耐えれるか、実績は無い。
セメントは空気に触れる事で年々弱くなる。
理由は、強アルカリ性で長い目で見れば不安定な素材!
空気中の二酸化炭素によって中和され変質するのです。
固まった直後から、空気の触れたコンクリートの劣化が始まる。
この現象を含め様々の理由で、鉄筋コンクリートは耐久性が50年程に設定されている。
例えば、セメント堤防は機能するのが15年で、その先は塩害の支障がでる。
その様な例の前に、貴方の周囲の50年程経ったビルが、次々に取り壊されているのをご存知と思います。
考えられている程、鉄筋コンクリートは耐久性が無いと言う事です。

さて、話は変わり、日本古来の土木に「たたき」と呼ばれるものがあります。
昔は、古い家には土間と言われた場所が有りました。
玄関の土足で入れる場所や、炊事場が土間ですが、「たたき」と呼ばれる事もあります。
これは、叩いて土を固めた場所と理解していたのですが、、、
そうではなく、
たたき=「三和土」と書かれており、
土、消石灰、苦汁(にがり)を水で混ぜ、叩いて土の粒を密着させる。
すると、、、
一見土ですが、コンクリートの様に固まってしまうのです。
室内で使われ野外では通用しないヤワな土木工法ではなく、、、、
野外で使うと、、、
「長七たたき」で作られた四日市の潮吹き堤防は百年以上経て、今も現役です。
なんと、「たたき」は鉄筋コンクリートより耐久性のある代物であったのです。

さて、話は源氏山の道に使われた舗装ですが、
この「たたき」によって作られた舗装ではないか?
っとこれも勝手な ぼ輔の想像です。
でも、セメントの発明以前から、日本に伝わっている工法です。
人の手で土を叩いて土の粒を密着させる事の出来る厚さは、10~20CM程度と考えると、
この土の舗装の厚みを出すには、幾層にも作らなければならない訳です。
この、幾層にも造られた断面は、化粧坂上の地層(奈良時代の文献 2 2007-09-13)の写真のとおりです。(積層した状態の、、写りが悪い!!)
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」2006-05-27  の路面でも、今回示したステレオ写真には、この厚みの積層された路面に共通性があります。(もっとも、長期間水に浸された状態で、スポンジの様に膨れあがっていますが、、)

■ 記 2007年11月09日  古代駅路「源氏山」編 その6

たたきには、二和土と三和土とあり、二和土は土と消石灰、三和土は土と消石灰と苦汁(にがり)を混ぜた様です。
苦汁を加える理由は、乾燥し過ぎて起きるヒビ割れ防止の様です。

万里の長城にも石灰が使われており、秦の時代は単なる石積でしたが、、
明の時代(1368年-1644年)から煉瓦積みで、その隙間の固定材に石灰を混ぜた土を使用しているそうです。
その使用実績は、300~600年ですね!

特に、吸湿性や吸気性がある処がコンクリートとの違いの様です。
良く使われた路面は、更に圧迫されて締まり路面は凹むが強固になり、
そんな状況が掘り出した駅路に有るそうです。

「古代駅路は、路面の硬化がある!」そんな言い回しをしますが、、、
これは、、路面が舗装してある!と修正しても良いのでは?
踏締められて硬化する以前に、舗装をしてあった訳でしょうから。
少なくとも源氏山の路面は、人工的に硬化された舗装です。

たたきの硬化はどの様に起こるか?
消石灰と空中の二酸化炭素が反応し 炭酸カルシウムが生じて土の粒を結び付ける。
消石灰と土の間にできる各種カルシウム系水和物も土の粒を結び付ける作用をします。
カルシウム系の化合物が土の粒と粒を結合する基となる訳です。
その時点で、「たたいて」粒と粒の空間を狭めると、尚一層強固に結びつく。
これが「たたき」と言われるユエンです。

さて今回の写真は、源氏山路面の硬化した状態を顕微鏡的にご覧下さい。
近頃のカメラは進歩して、接写すればコンナ写真まで写せる!
土、、、というより、砂の粒子が、白いモノに囲まれている様子が確認出来るでしょうか?
白いモノ=カルシュウム生成物と、、、ぼ輔は解釈するのですが、

■ 記 2007年11月18日古代駅路「源氏山」編 その7

さて、この古代駅路「源氏山」の舗装が造られた年代を考えてみましょう。
戦後にこの様な人手の掛かる工事は考えられません。
なぜなら、ハイキング程度に使われた道で舗装する理由がありません。
脇の排水溝がコンクリートで作られたのは、私の記憶では、1970年代で公園としての整備をした時に作られたと記憶しています。
その様な訳で、例え作るとしても化粧坂上のコンクリート舗装(雨水で路面の崩壊を補修)と同様に舗装されたでしょう。
明治から戦中は地元の人だけが使う道!この程度の使用頻度の少ない山道は、砂利も使わないでしょう。
江戸時代なら、、重要な朝比奈峠ですら、雑な工事をした程度で、、、
それでも工事をした石碑を作った訳で、、、
源氏山の様な使用頻度の無い道に立派な舗装をする財力は全く無いと考えられます。工事をしたならそれなりの石碑を残すでしょう。
鎌倉時代に、、、この様な舗装と道幅の山道を作る事は、大仏の切通しを考えれば防衛上に問題が起き、全面否定出来る程、立派な道ですね!
では、、、何時作ったのか?
ぼ輔には、鎌倉時代以前しか考えが浮かびません。
しかし、、、奈良時代初期の道としては、規模が足りません。
古代後期の道と考えるのです。
もしくは、古代前期の道を縮小した後期の道かもしれません。

■ 記 2007年11月27日  古代駅路「源氏山」編 その8

古代道路を語るとき、現存する遺構路面の大半は耐久性から自然石の路面(石畳)を持つ遺構と思われます。
しかし、人工硬化の舗装で使われ続けた古代路は、世界的に見ても稀、日本でこの路面以上に古いものは現段階で私は知りません。
古代道で有名なアッピア街道の石畳の道ですら、ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが、教皇ピウス6世の命により修復され再び利用されたっとなっています。
(ピウス6世:ローマ教皇在位:1775年2月15日-1799年8月29日)
その様な訳で、
無補修で、人工硬化の路面が使われ続けた古代路となると、世界的にも稀な道ではないでしょうか?
だからって、世界遺産にしよう! ってのは論外、、、
化粧坂の観光破壊の例があり、、、遺構の保存体制の取り組み方から考える必要を感じます。
現状のポリシーの無い商業的な世界遺産では、、
鎌倉大好き人間には迷惑な話です。
 写真は、化粧坂上にある積層された路面跡と考える地層。


■ 記 2007年12月09日古代駅路「源氏山」編 その9

写真の場所は、化粧坂を登り、銭洗い弁天や葛原ヶ岡神社に向かう尾根道です。
写真の上に写っている車止めは、銭洗い弁天脇から葛原ヶ岡神社へ向かう道です。
とても平らで5m程の道幅がある表面が硬い道で、私の知る40年前と同じ状態の路面です。
方や、化粧坂は鎌倉特有な砂岩路面が40年で見るも無残な荒れ様です。
写真の場所は古代東海道の痕跡路面とぼ輔は考えていますが、源氏山のセンターラインのある道とは違う異質なモノを感じます。
異質なモノとは、、、
道を作るポリシーの違いを感じるのです。
この周辺は古代と言っても、時代により様々な考えで道を作り直したのではないか?
鎌倉の時代は800年前、奈良時代の初期は1300年前、その間500年の間が有るわけです。
その間の道筋も作り直しが何度か有ったようにぼ輔は考えています。
 問題は、この路面の平らな理由、この路面の滑らかな理由、この路面幅の広い理由。
その理由をどの様に考えるか?
そして、この路面を誰が作ったのか?
ぼ輔は、古代東海道と解釈しましたが,
他に考え様が有りませんか?


■ 記 2007年12月18日  コメントのReです。

> T.M.@横浜 さん記 2007-12-13
> この道は、何回も歩いています。でも、私は、全く
> こういうことに気がつきませんでした(^^ゞ  

ぼ輔も同様でして、、、
気にしていたのは、初期の頃からでしたが、、、
公園として整備したので、、この様に平面なのか?
その次は、化粧坂と同様に下は鎌倉特有の砂岩で平らなのか?
でも、、、この様に平らで、広く、滑らかな平面は葛原ヶ岡にも、源氏山にも無い!!
この場所特有な人工的に造られた特徴です。
そんな問題意識は、この数年で出来上がったものです。
尾根道で、周囲は崖で1200年の歳月と、頼朝が細工をしたかも等を考えれば、
5m程の道幅は残っているだけでも上出来かもしれません。

写真の上に写っている車止めは、銭洗い弁天脇から葛原ヶ岡神社へ向かう道で
戦時中に高射砲陣地を作る為に作られた砂利道と考えていますが、、、、
その砂利がこの滑らかな平面に流れ込んでいます。
これらの路面を対比をして貰えると、この路面の滑らかさは普通で無いのが
理解していただけると思います。

それに引換え、、源氏山の路面は少々粗いのが気になります。
風雪にモロニ晒された路面と、常時上から雨水に少量の土砂が運ばれカバーされ
た路面の違いなのか???
造られた時代がより古いと考えるこの場所の滑らかな路面状態が不思議です。

#######################################

> 陸路も重要ですが…
> 杉きち さん記

> 鎌倉から走水へ行き、房総には10キロ近く海を渡ります。

奈良時代初期の駅路のみを考えると、その痕跡は路面幅9m規格の道で
その様に作られた道路遺構は、朝比奈から六浦へと考えられます。
逗子、葉山から走水へは、路面幅9m規格の道が作れないし痕跡も無い。
朝比奈は路面幅が確保でき、東京湾に最短距離で行かれます。六浦港へから上総の国府へ直行するとなれば、走水から富津ではなく、
六浦より海路で市原へと考えるのが荷物の載せ代えをせず楽に行けるので合理的です。
古代の初期はそう考えていますが、
六浦港から、下総の市川へ船で行き、常陸国府の石岡へ行くのが合理的と考える様になりました。


> 早馬の頃には、鎌倉より大井の駅(東京・品川、荏原)を重視されますが…
> この辺りが、小生も混乱を来たしております。

東京湾が荒れて船が無理ならば、、
茅ヶ崎より海老名国分寺、武蔵国府、大井へ、
茅ヶ崎より中原街道、大井へ、
ハタマタ、江戸東海道が古代東海道のリメイクで有った可能性が有るならば、
六浦の状況を藤沢で受け、即江戸東海道に陸路で迂回できる。
藤沢より江戸東海道を抜け大井へ通る訳ですが、、、
池上本門寺の脇で伝路程度の道を掘り起こされた記録が有ったと思います。

> 「更級日記」の頃は、鎌倉の北の方を通ったとすると、
> この頃には、横浜北部・川崎中部・東京浅草辺りを通り平塚方面に至りますよね。

江戸東海道が古代伝路のリメイクであったなら「更級日記」の主人公が通った話の
ツジツマが合うのではないでしょうか?
当時、権太坂から柏尾川辺り戸塚へ入る手前が国境で、川を越したら相模の国!
遊行寺から茅ヶ崎に掛けた砂地の平地と山の切り立った状態を「屏風の様な山」
と例えたり、、、
如何でしょう?

> 御成小学校が鎌倉郡衙跡ですので走水や、また、荏原郡衙・橘樹郡衙・
> 高座郡衙への道
> 陸路では江戸東海道を、海路では六浦より鶴見、品川、へ、その先多
> 摩川より武蔵府中へ等が考えられます。
> 相模国衙・武蔵国衙・下総国衙への路へとの連絡路を鎌倉から描き出す
> のは、なかなか難しいですね。

高座郡衙、相模国衙へは古代東海道が直線的にあります。
しかし、連絡路的な伝路は道幅が狭く地域に根付き後世の生活道路にも使われ古道と判別が困難たと思えます。
例えば、藤沢市辻堂の四谷から平塚に向けた古代東海道の痕跡と考えてもよい道は、後年3mの道に改造され維持が楽なので大山道の名称を付けられ江戸時代に使われた。
江戸東海道の様に古代道か否か判定できない状態が多いのではないでしょうか?
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大鎌倉城 台峰上(化粧坂の砦)

2014年10月17日 | 切通し
■ 記 2014年09月01日
> 待ってました! (isana)
> 土橋(?)上の道が、頼朝以前にまで逆上ることのできる古道である
 > のは、考古学調査の結果からも、どうやら間違いないようですよね。
 あのグランド周辺を掘り返して3m程の道路遺構が出土した話が有りますが、、
ご存知でしたら詳細を知りたいのですが、、、

> また、臥龍峡へ向かう台峰上も、平場っぽい地形の連続です
> (戦中は畑でもあったようですが)。
> ということで、グラウンド周辺の防衛遺構の配置について、お考えを
 > もう少しご教示願えませんか?
 
 話は、「臥龍峡」より北西の台峰先端です。
青いラインは、化粧坂より北鎌女子グランドを通り、先端の赤丸地点迄が台峰で、その南側の谷は「倉久保の谷戸」と呼ばれる場所です。
この倉久保の谷戸には、北大路魯山人が魯山人窯芸研究所・星岡窯を作り、現在は、山崎小学校の脇で「臥龍峡」の名を付けたのも魯山人です。
この「臥龍峡」は、山崎小学校を作る際に東側の壁を破壊し、車が通行出来る様に道幅を拡張された。どの様な切通しで在ったかと言えば、似た様なのは長窪の切通しです。
途中の細いピンクのラインは「臥龍峡」の切通し。
更に先の赤丸が今回の問題にした砦跡です。
「臥龍峡」に切り裂かれた独峰で峰の先端まで600mあります。
これが、砦と想定して、、地方に在る山城と比較しても中程度の大きさですから、、
この事から、鎌倉城の巨大さを考えて欲しいと思います。
現在は単なる住宅の山に成っていますが、、、

上の写真を立体視して頂きたいのですが、、赤点の間が、自身の両目の幅より狭くなるように「ブラウザー」の表示を調節して下さい。(インターネットエキスプローラですと、ギヤマークより拡大縮小を使う)
これを砦だと主張する訳です。  根拠は????次回へ

国土地理院 アーカイブ空中写真を使用。
地図はgoogle地図を使用。

■ 記 2014年09月02日
如何ですか?平地から峰まで人工的な傾斜でしょ? 長さ600mは地方の山城の規模が在ります。
山を加工したのは、必要な処だけではなく、全山人手を使い加工された事が伺われる。

それでも「砦の証明にはなら無い?」そうお考えなら、、、、
この山の平地(峰)に上がる事を考えて下さい。
質問は「貴方は何処から峰に上がりますか?」
         その答えは「上がる場所は一箇所しかないでしょ?」
その上がる場所でも、下に居る敵を上り道から攻撃し易く、上り口から進入する敵を更に上から攻撃しやすい構造をしている。
その様な場所が砦とか城の構造です。
鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害ではなく『三方の山を利用して、鎌倉幕府は人工的な砦を作った。』
鎌倉城は人手を使って作り上げた人工的な要塞で自然地形は極めて少ない低山です。
自分で詳細を調べた事の無い人が『鎌倉は、三方を山に囲まれた要害の地』を基に伝言ゲームを始め、「三方山に囲まれた天然の要害」と成り、挙句は『鎌倉に城は無かった!』と言う話が始まった。
 物的否定根拠が無く鎌倉城は無かった論が展開されている。最初から科学的に切岸の全容すら調査されていない。
鎌倉城が有る派も無い派も資料が無く論議が始まった非科学的論争です。
 その資料の無さをイコモスから指摘され、、、
>> イコモスから「武家の古都・鎌倉」は都市全体、鎌倉の市街地全体を
> 含めた構成資産とみなされた結果、物的証拠がないか、不足している
> か、あったにしても薄弱で「非常に物証にむらがある」との評価に
 > なってしまいました。
この切岸データすら無い調査不足が「武家の古都・鎌倉」が一番大きな登録敗因で、関係者自体が鎌倉城の知識の無さと調べる興味の無さが根底の問題。

自分の考えが無いと、、肩書きの有る人が講習会で話すと信用してしまうのですね、、、
自分の見た目を基に、自分の考えを組み立てる人は少なく、知識が教養と思う方が大半のようで、鎌倉を守ろうとするボランテティアの方まで、城は無い派に成りつつある。
目の前の山を散策すれば、実感で普通の山とは違う事を感じると思いますが、、、
『文献が無いから鎌倉城は無い!』とするのは、非科学的な思考法で現実の山を見れば城壁遺構を確認できる話です。
それでも理解できなければ、その切岸を墜落覚悟で登ってみるが良い。
草木に掴まって登れても、当時は禿げ山状態であったはずです。
私は丹沢の沢登りが趣味でしたが、、鎌倉の切岸は丹沢の沢より数段怖い!

谷戸の平地に畑の跡を見てこれは切岸では無く、「畑の跡です。」っとコメントした指導者(本を出版)が居たそうです。第二次世界大戦のときに甲子園のグランドに畑を作ったのですが、『甲子園野球場では無く、畑の跡です』なんていう屁理屈が成り立つ。不要の平地には畑を作るのが通常です。
この手のクダラナイ反論で無ければ、お受けします。
ただし、最低限立体視をマスターして下さい。

■ 記 2014年09月10日
取り合えず、、、
臥竜峡から化粧坂へ向けての峰を北鎌女子グラウンド迄の状態です。
極端に違うのは、
自然保護の名の下に、木を切るのは法律違反!
その結果、
里山として管理され燃料で使われた樹林は放置されて800年間の管理がこの70年間で途絶え、木の根が破壊を起こし始め、歴史のある景観は樹林に隠された。
峰に上がるのを阻止する切岸は樹林で観察を出来なくなった。
観察出来ないから、鎌倉城は無かった事にはならないし、そんな遺構が在ったなど知らなかったでは文化人の名が廃る。
世界遺産登録に際し山間部の調査と提示出来ない基です。
800年続いた歴史的景観を数十年で消し去ったのは写真の比較で証明できる。

この場所を、
大手が安く買占め住宅地にする訳ですが、鎌倉市政はこれが世界遺産に絡む鎌倉城跡では、困るでしょうね、、、
 結果は「鎌倉城は無い事」に動き出したようですが、、、
ご要望があれば、もっと画像が鮮明な物も用意が有ります。
写真は、国土交通省のアーカイブ空中写真。

■ 記 2014年09月12日
「台峰の臥龍峡先」の砦の大手に当たる場所です。
入り口が2箇所あり、赤淡色のラインで書いてあります。
更に峰に上がる時は、登り道は一つです。
後世(戦国時代)の城作りの原点にある形態と思います。
この砦は工作の規模と人手の掛け方が地方より数段中身が濃いと思います。
明確な砦構造であるが、資料は一切残されず住宅になっています。
これは、鎌倉城の極一部です。国土地理院の情報開示の条件が良くなり高画質画像がダウンロードできる様に成った成果です。

砦の言葉は同じでも、この場所は、攻め込む敵を排除する構造であり、、、
北鎌倉女子グランドの砦は、攻め込ませてワザと敵に不利な場所に誘い込み、攻めて来る敵を抹殺する罠としての構造が在ります。
鎌倉市内に攻め込む敵を、効率よく抹殺する為に、敵を中央に大勢集める広場を作り、馬蹄形の一段上から弓矢で狙い撃ちするわけです。
それには、攻め手が烏合の衆的に大勢集まって欲しいので、攻撃態勢を整えられる広場を作った!
周囲が敵の真ん中に、タッタ一人で踏み込むのは幾ら「先陣争いで功を挙げたくても死んだら嫌でしょ!」仲間が居れば心強いし、勝てるかも、、なんて思うわけです。
罠は、敵が入り込んでくれないと罠の効力が働かない。
砦の形に思うのは以上の理屈です。
このパターンはこの周囲に幾つも在るのです。
この台峰先端の砦は守る一方の砦で、無視して通過し化粧坂方面を攻撃すると、この砦から兵や騎馬隊が出て化粧坂を攻撃する敵の背後を襲う事が考えられる。
新田義貞が「化粧坂を攻撃した!」とは、水堰橋から化粧板へ向かう鎌倉城の大手道のある台峰の砦を攻撃し、化粧坂に入り込む作戦を示すわけです。
今言われる化粧坂で戦いが起きた訳ではない。

PCの場合。Webブラウザーの幅を狭くすると、写真も狭くなり立体視がし易くなります。
国土交通省のアーカイブ空中写真。
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大鎌倉城 台峰 中

2014年10月16日 | 切通し
■ 記 2014年09月26日
皆さんは気付かれて居ると思いますが、、、
北鎌倉女子学園のグランドは、化粧坂から台峰、 鎌倉城の中の道、台峰、などの場面に出てきます。
煩雑なので記事を一貫性のある書き方にマトメようと考えました。しかしそれは無理な事に気がつきました。
単なる自然な山を頼朝が城を作ったなら話は単純で、鎌倉は「武家の古都鎌倉」と単純に一括りできるのだが、、、
その様な歴史の浅い土地では無いのです。
古代では東海道と東山道が鎌倉を貫き、、平安時代に道筋を変えた変遷があり、その上に防衛に害がある大道を塞ぐ工作をして鎌倉城に成る複雑さがある。古来の道筋は道幅が広く、防衛の害に成る大問題があります。
この防衛の害を取り除く事から城造りは始まるわけです。
戦後間もない時期までこの鎌倉城遺構は鮮明に存在したのは、今回の1946年後に撮影された空中写真でご理解いただけるでしょう。
各時代の為政者が、各々の考えで鎌倉の山を改造した結果、痕跡は一貫した考えでマトメラレナイ底の深さとなったのです。
そして、この60年間で800年維持された鎌倉城遺構は現状の土地開発で破壊されたのです。

例えば、この写真を解説すると、
大鎌倉城が前提の話であり、上の細いくぼ地(倉久保の谷戸・武蔵大路の痕跡とも考えられる)から峰を目指して攻め上がる新田軍をこの階段状の砦で迎え撃つ鎌倉軍。
戦法は、鎌倉軍は取り合えず砦を守る訳ですが、、、
攻勢が強く、一段上に退却する。新田軍は更に勢いに乗り一段上に、、、
それが鎌倉軍が仕組んだトラップ(罠)で馬蹄形の広場に新田軍が攻め込んだ処で一段高い三方から弓で狙い撃ちと言う訳です。

でも、これを道跡とすれば、、、朝比奈切通しより数段規模の大きな切通しと成る訳です。

その上鎌倉武士が城作りの為に作り上げた大道隠蔽工作の巨大さを実感できる場所です。

その切通しの道は、武蔵国衙・町田野津田・座間の星谷寺・水道道仮想伝路を通る武蔵大路の痕跡と考えるのですが、、、、

更に一番上の峰は土橋と成り隊列を組めずに堰水橋から攻め込む敵を一人ずつ始末できる仕掛けです。

頼朝が鎌倉市内に凱旋する時、堰水橋で隊列を整えた話があります。鎌倉大手の堰水橋・北鎌女学校グランドの土橋・化粧坂までの鎌倉大手道の話でもあります。

そして、この60年前の写真と現代の写真を見比べると、その城遺構はとても曖昧な状態と成りつつある。
世界一大きな城遺構の現状は「鎌倉城など何処に在るのだ!」と世界遺産を担当した内部から湧き上がった言葉です。そこまでは良いのですが、、、
最低な話として「鎌倉城は在る!」と反論をした人は無かった様子。
考古学者(埋蔵遺跡専門)と鎌倉市役所指導の資料で自分の考えが無い文化人が「武士の古都鎌倉」を推進した役員だったと想像する訳です。
 教養というのは、物の見方考え方を確立し大所高所から話をできる人。専門外でも提出された資料に切り口の違う視点で論評できる方の筈ですが、、、

私は、専門家ではなく、鎌倉城に興味があった訳ではありません。
 古代東海道の痕跡を求めて書いているだけです。その痕跡が不自然な消え方をしているので、その基に頼朝の鎌倉城作りが絡み謎解きを始めただけです。
これは、既に此処で書かれたダイジェストですが、一本の話にマトメルのは年代、考え方の根本が違い無理です。
写真は、国土地理院の空中写真アーカイブより。
こんな鮮明で条件が良い写真は稀で、国土地理院の情報公開の賜物です。
樹木が無く、地形をダイレクトに観察でき、鮮明な画像も稀で少ないのです。
撮影機材の良否、時代による樹木状況、撮影時間の陰影、季節の樹木、撮影現像テクニック、フィルムの保管状況など色々な要素が影響し良い写真は少ない。
海蔵時裏の大堀切と幾多の共通点があり、工作方も定番の様です。
他の場所に幾つもこの大道を埋めたパターンと、戦う砦パターンがあり、紹介をする必要を感じています。

■ 記 2014-10-15
1、天神山
2、化粧坂
3、葛原ヶ岡神社
4、北鎌倉女子学園グランド
5、北鎌倉女子学園校舎
6、武蔵大路痕跡と考えられる
7、武蔵大路を塞ぐ土橋
8、海蔵寺土橋
化粧坂は鎌倉の大手とされているのが定番です。
しかし、化粧坂は、鎌倉城七口の防衛ラインの内側です。
では、外部から鎌倉へ入るには何処が入り口でしょう。
それを誰も書かないのです。

書かない理由はキット、、
○文献が無い。
○化粧坂に相当する道幅が無い道ばかり!
しかし、
大鎌倉城は守りが固く構造から通れる場所は限られ、ヒントさえ有れば、出入り道は特定できる。
しかし痕跡は新田軍鎌倉攻めで封鎖され、大正時代まで通行不可で廃道であった事が伺える。
脇に回り込める道が作れたら、本道は破棄される例は、大仏切通しにある。
どの様な封鎖なのか? 大仏切通や朝比奈の切通でも書いた。敵が攻込んでも越えられない土壁で、大仏切通の藤沢側は脇道を造り、本道が破棄されて鎌倉落城の切通し封鎖のままの生々しい土壁姿が残った。現物を見て実感されると良いのですが、、、

決して、太平記の極楽寺坂で書かれた、「木戸を固めて」と言う生易しい守りでは無く、数メートルの土壁を作り道路封鎖をした。
所詮 戦闘に加わった人間の記述とは違う、、数十年後の又聞きの記述です。
半端な文献を信奉するより、現実が在りますからご覧ください。
緊急の七口封鎖とは別に、時間を掛けた工事ならば、海蔵寺裏の大堀切と称する封鎖があります。
今回の話は、海蔵寺裏の大堀切の封鎖が基になります。

これらの隠された切通し痕跡は、現地を調べても、、、巨大過ぎて人工の土壁とは思えないほどの巨大さです。
上空から巨視的な目で見て初めて理解できる場所です。
それには、木が少なく地表が観察できる戦後間も無い航空写真の鎌倉の存在と、それを解析する立体視が必要となる。

梅松論より
>「陸奥守貞通(北条氏)は中の道の大将として葛原にて相戦い、、、」
 この葛原が、新田義貞が化粧坂を目指して兵を進め実際の攻防を行った場所であり、鎌倉軍の守りは強固で新田軍は攻め込む事が出来ず、稲村に向かった訳です。(梅松論と太平記を比較してもこの部分は矛盾しない。)
問題は、化粧坂を攻めている新田軍は、何故葛原で戦ったのか?
その先に在るのは化粧坂です。
恐らく、鎌倉幕府も「鎌倉攻め」はこの場所から攻撃されるで有ろうと予測していたと遺構から考えられるのです。
新田義貞は、この台峰の砦を攻撃し、激しく戦った場所は台峰の付け根に当たる「葛原」で有ったと古文献にある。
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大鎌倉城 台峰 下

2014年10月15日 | 切通し
■ 記 2014年10月27日
PCの方は、ブラウザの幅を狭くすると写真も狭まり立体視をし易くなります。

戦うための罠は、一箇所ではなく、、、
倉久保の谷戸(武蔵大路と考えられる)から台峰(鎌倉城大手の道)へ上がる場所に4箇所(紫色の場所)程仕掛けられた。
鎌倉幕府は初めから、敵はこの場所を攻撃されるであろう、、、
そんな予測の基に作られて居るようで、他の場所に似た構造は在るが少ない。
この赤い部位が外敵と対峙し、戦いを挑む場所なんて誰も言わない場所です。
古くも新しくも砦の戦法は同じで「高所から低い敵を攻撃するのが有利」でその様な構造をしています。
近年では、東大の安田講堂(1960年代末の学園紛争)が砦と成りました。
古くは、アラモの砦(アメリカの南北戦争)なんても有りました。
 「それらは学校の講堂や教会の跡であり、砦ではない!」 なんて言う理屈が「武士の古都鎌倉」でセミナーで平然と語られている訳です。
モットも鎌倉は本格的な城構造ですが、世界で一番広く大きな城の為、視野が狭いと城に見え無いのが問題でその程度の視野の方が多いのでしょう。

赤の5星は、
海蔵寺裏の大堀切(東山道武蔵路の笠間中央公園の延長)と同様な武蔵大路が鎌倉へ入る為の北鎌倉女子学園グランドの土橋と梶原へ抜ける切通しを埋めた痕跡。
そう考えると、更に切通しを埋めた場所が在ると考えられるのです。
写真は、国土地理院のアーカイブ空中写真。

武家の鎌倉を考えるうえで、鎌倉城の情報が必要です。 しかし、城の場所、構造、使い方、等全く資料も情報も無い。
挙句は、新田義貞が正面攻撃で突破できない城を「鎌倉には城が無い!」っと鎌倉の生涯学習で講義したそうです。
城の存在を否定するも、肯定するも、、、ハナから文献資料も情報も無いのです。
しかしね、、、巨大な城遺構は存在し、誤魔化す事はできない。 
問題は、巨大過ぎて見る目が無ければ、単なる山にしか見えない。
知識の有無の問題ではない。
古文献と地形を見比べ、自身の頭で考える事をしなければ理解できない話です。
生涯学習の講習で「鎌倉に城は無い!」等と信じた方は、古典と、鎌倉の地形を自分の目で確認し、自分の頭で考えて欲しい。
それが、自分の考えを持ち、違いが判る大人と言うものです。
講習を受けて情報を蓄えても、中学生レベルの判断力でしかない。
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武家屋敷跡

2014年10月10日 | 鎌倉に城は無い!
■■ 記 2011年12月15日 ■■ 武家屋敷跡 序
鎌倉の谷戸は総て人手で改造され、自然地形は稲村ヶ崎の岩クエ位と考えます。
ナダラカであった谷戸の自然斜面は人が通れない様に、急斜面に切り取られ、残土は谷を埋め平場にします。
大半は、鎌倉時代に工作されたモノと考えています。
そんな訳で、現状は平場に民家が建ち、裏庭は観察に価する切岸となります。
谷戸の平場は、武家屋敷跡と考えられ、三方切り崩した垂直な崖で、切り崩した土砂は谷を埋め、残りの一方を土手とした平場となり、武家屋敷が建てられる。 更に大きくは、鎌倉市街の三方は山で、もう一方は、土手ではなく海としている。
結果屋敷は三方を山に囲まれ、一方は土手となり、登ってくる敵を防ぐ構造となる。
何処から出入りするか?
手の込んだ屋敷は、隣の谷までトンネルを掘り、其処から出入りし、谷戸の奥の一つ一つが要塞構造です。
追い詰められたら、尾根伝いに逃げる訳です。
誰でも見られる場所は、鎌倉文学館!
佐助稲荷トンネル脇の私有地へ抜けるトンネル。
トンネルでは無く、脇に細い道を作って出入りしたのが、鎌倉駅近くの「古我邸」が有ります。
銭洗い弁天の場所は、三方山で、一方は土手の構造です。
 
この様な地形は、一万分の一地図で見ても50以上確認できます。
鎌倉観光の表面からは想像できない中世を偲ぶマニアックな見方ですね!
市内を見たって、鎌倉時代からの建物は皆無、、、話によると、舎利殿が唯一当時の建物!
荏柄天神も当時モノで有ったそうですが、今では外観からして別物です。
 
写真は、鎌倉文学館で、加賀百万石の別邸。
目に付くモノは、昭和初期の洋館とその庭ですが、歴史を観れば三方は山に囲まれ、一方は進入を拒む土手の痕跡で中世武士の居住跡です。
この様な平場に立派な家が建っていると「これは家を建てる為に造成した土地」で鎌倉には城が無い!等と主張する人も居る。この構造は鎌倉の城としての定番ですから、谷の程在る訳です。
 
■■ 記 2011年12月17日 ■■ 武家屋敷跡 1
鎌倉文学館の入り口。
それは、トンネルになっています。
(トンネルを裏から見たところです。)
敷地の一方は土塁として海に向け開けており、
他の三方は山に囲まれて、、、、
門外人の出入りは、困難です。
自然地形ではなく、人工的に人の出入りを遮断する工作をしたのです。
 
トンネルの在る峰は、地図の等高線に描くほどの高さが無いようですね。
同様に、
建物と下界を分ける土手も等高線に出るほどの高さは無い。
地図を見てもこの地形は解らないと言う訳です。
 
■■ 記 2011年12月19日 ■■ 武家屋敷跡 2
写真は、三方山に囲まれた洋館です、
開けた方向には、土手があり、、鎌倉文学館と同じ構造です。
違うのは、トンネルがありません。
門から、家の玄関まで、、、見ての通りの距離があります。
国土地理院の一万分の一でみると、、、
土手が等高線で見えますね!
これが、、鎌倉の谷戸(谷の奥)のパターンです。
大半の谷の奥は、、この様に成っていた!
きっと、、例外も有るのでしょうが、思い浮かぶ例外を知らない!
特に目立たせる事はしていませんが、、地図中央に有るお屋敷です。
地図の様に、山際に館へ向かう道があります。
場所は、個人宅ですので、、公表はしませんが、「Google地図より1」の近くです。
さて、
一方は開けていて、他の三方は山に囲まれた地形!!
これは、鎌倉城とも言え、、公で鎌倉の特徴を語る言葉でもあり鎌倉の都市を守る構造でも在った訳です。
外的から身を守る中世鎌倉の考えと、個人レベルまで浸透した思想では、、、
この様な武士の個人的な住居跡を見て、その様に感じるのです。
 
 
■■ 記 2011年12月15日 ■■ 武家屋敷跡 3
佐助トンネルの西に有る道路際のトンネルです。
トンネルの向こうには屋敷を構えられる平場があり、現在は個人住宅です。
今回の記事は、自分で書きながら、、
「何故,,,,こんな記事を書くのか??」と考えてしまいました。
「武家の都鎌倉」を世界遺産にというアピールの割りに、文化遺産の質を考慮しない行政を感じるのです、、
文化を語るなら、当時の生活が係わる。
歴史を語るなら、古代から中世そして現代までの時の流れを考える必要が有る。
鎌倉市内で目に映るモノは中世に係わるモノが極く少ない。
伝統も文化も建築物も鎌倉滅亡と伴に消え去り、引き継いだ伝統や文化はドレだけ有るのか?
何が「武家の鎌倉なのか?」そんな気持ちになるのです。
 
例えば、
 このトンネルも、鎌倉時代の武家屋敷出入り口として、素掘りの狭いトンネルだったのでしょうが、、今の様相は近代のトンネルです。表面は近代ですが、その構造は鎌倉時代まで遡るもの、、、、
私としては鎌倉らしくて、とても大好きな空間です。
 源氏山にしても、昔は柴刈りの薪として、山の木は管理されていた。
今は、自然保護の名のモトに生え放題で、鎌倉の市街地を見渡せた景観は、、、
緑のブラインドと成り、景観は望めず、木の根は、岩肌を破壊し始めている。鎌倉時代の源氏山の景観とは違うでしょ??
高みに上れば、、それなりの景色を期待する訳ですが、この場所には落胆します。 
自然の過保護は、行政が問題を感じて欲しい。
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